「栃木リンチ殺人事件」の概要
1999年12月4日、ひとりの高校生が「殺人の手伝いをした」と自首してきた。彼が言うには、2日前、最近知り合った3人組が、栃木県芳賀郡市貝町の山林で人を殺して埋めたというのだ。
3人の名前は萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀、全員19歳の未成年だった。彼らは9月終わりから2か月にわたって被害者を監禁、連日のリンチで700万円以上を脅し取っていた。熱湯シャワーや火炎放射器などの凄惨なリンチで、被害者は身体の8割に火傷を負い、その痕は膿んで腐敗していた。
家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、萩原・梅沢に無期懲役、村上に懲役5年~10年の不定期刑が確定した。
事件データ
犯人1 | 萩原克彦(当時19歳) 無期懲役 |
犯人2 | 梅沢昭博(当時19歳) 無期懲役:岡山刑務所 |
犯人3 | 村上博紀(当時19歳) 懲役5~10年 |
犯行種別 | 殺人事件 |
殺害日 | 1999年12月2日 |
犯行場所 | 栃木県芳賀郡市貝町の山林 |
被害者数 | 1人死亡 |
動機 | 金を巻き上げるため |
キーワード | 少年犯罪、警察の怠慢 |
事件の経緯
本事件の主犯・萩原克彦(当時19歳)は、幼少時から粗暴な行為が目立つ少年だった。中学卒業後は通信制高校に進むも中退、暴走族に入り恐喝や傷害などの事件を度々起こしていた。そんな素行不良な萩原の父親は、驚いたことに栃木県警の警部補だった。
その後、数年働いたとび職も辞め、中学時代の同級生である日産自動車社員・梅沢昭博(当時19歳)と無職・村上博紀(当時19歳)から金銭を巻き上げていた。やがて2人が「もう渡せる金はない」と訴えたところ、萩原は「金を作れるヤツを連れてこい」と命令。そこで梅沢は、会社の同期でおとなしい性格の須藤正和さん(当時19歳)を身代わりに差し出すことにした。
須藤さんは栃木県黒羽町で理容店を営む両親の長男で、地元の高校を卒業後、寮に住みながら日産自動車栃木工場に勤めていた。事件に巻き込まれるまで欠勤もなく、まじめで優しい性格だった。
1999年9月29日、梅沢が須藤さんを工場近くのコンビニに呼び出す。そして、「暴力団の車と衝突事故を起こし、修理代を要求されている」との嘘で7万円を口座から引き出させた。
この日から萩原ら3人は、須藤さんをホテルなどに監禁するようになり、翌日以降もサラ金から数十万円単位で借りさせ、巻き上げた金は自分たちの遊興費にあてた。須藤さんがサラ金で借りられなくなると、今度は知人や同僚から借金させるようになった。
10月2日には、会社の先輩が須藤さんに頼まれて2万円を貸しに行った場所には、犯行グループの3人もいたという。また、別の同僚が須藤さんに呼び出された時も3人がいて、この同僚は消費者金融に連れて行かれて融資を受けた100万円を取り上げられた。ほかにも、同期入社した須藤さんの友だちも、同様の手口で大金を巻き上げられた。
この同僚らによると、須藤さんの顔や手にはおびただしい怪我があり、この時も殴られたうえに土下座させられていたという。
熱湯や火炎でリンチ
無欠勤だった須藤さんは仕事を休みがちになり、やがてまったく出社しなくなった。日常的な暴行により、次第に人前に出るのがはばかられるようになったのだ。だがある日を境にして、殴る蹴るの暴行にくわえ、常軌を逸した凄惨なリンチを受けることになる。
きっかけは10月上旬、宇都宮市内のスナックで須藤さんが酔いつぶれたことだった。この日、須藤さんはストレートの焼酎の一気飲みを梅沢に強制された。その後、ホテルでダウンして失禁した須藤さんを、梅沢が浴室に連れて行き最高温度のシャワーを浴びせた。あまりの熱さに須藤さんは目を覚ましてのたうち回り、その様子を3人はおもしろがった。
このリンチは、当時流行っていたテレビ番組のコーナーからまねて「熱湯コマーシャル」と名付け、その後も継続的に行われた。その後リンチはさらにエスカレートし、殺虫スプレーにライターで火をつけ浴びせかける「火炎放射器」などのリンチも行うようになった。須藤さんが熱さに耐えかねて逃げようとすると、殴る蹴るの暴行をくわえて散々にいたぶった。
やがて須藤さんの皮膚は焼けただれ、顔は腫れ上がった。にも関わらず病院に連れて行ったのは一度きりで、その際も萩原らが診察室までついて入り、暴行がバレないように須藤さんを見張っていた。医者に診せたのも腕の火傷だけで、そのため大した治療も施されなかった。
萩原ら3人は、火傷した皮膚にさらに90℃以上のポットの熱湯をかけ、風呂場に連れ込んで熱湯シャワーをかけた。その際、抵抗すると殴り続けたり、火傷の痕を木の靴べらで殴りつけるなどのリンチをくわえていた。
捜査すらしない栃木県警
息子が欠勤を続け、周囲に借金をくり返していることを知った須藤さんの両親は、10月18日、日産の上司とともに、栃木県警石橋警察署(現・下野警察署)に出向いた。
しかし応対した担当官は、「仲間と楽しく遊んでいるんだろう」と、まともに取り合わなかった。しまいには「お宅の息子さんが悪いんじゃないの?警察は事件にならないと動かないんだよ」と捜査を依頼する両親を突き放した。
石橋警察署はあてにならないと考えた両親は、宇都宮東警察署・宇都宮中央警察署・黒羽警察署(2006年、大田原警察署へ統合)栃木県警本部にも捜査を懇願し続けたが、その一切が拒否された。
仕方なく両親が自力で調べたところ、須藤さんが監禁・暴行されている事実をつかみ、犯人グループも突き止めた。しかし、それを伝えても石橋警察署はまったく動こうとはしなかった。
両親にも金を無心する電話はかかって来ていたが、須藤さんの安全を考えて両親は金を振り込み続けた。銀行の防犯カメラには、その金を下ろしにやってきた須藤さんと、それを見張るような複数の男が映っていた。
須藤さんは、髪を丸坊主にされたうえに眉もそり落とされ、火傷や殴られた痕が確認できた。銀行の関係者は「いつでもビデオを証拠提出する用意がある」と、警察に相談するよう勧めてくれた。そのため11月30日、両親は再び石橋警察署を訪れ「ビデオを証拠として請求してほしい」と依頼するも、「裁判所の許可もないのにそんなことできない」と突き放すような対応だった。
銀行関係者の証言によると、のちの任意の提出には応じたと思われる。
このやり取りの最中、須藤さんから両親の携帯電話に電話がかかってきた。須藤さんの父親は事態の深刻さを理解してもらうチャンスと考え「お父さんの友人がいるから」と友人に見立て、警察官に携帯電話を渡した。しかし、その警察官が「石橋署の警察官だ」と名乗ってしまい、電話は切られた。警察官は「あ、切れちゃった」と言って、携帯電話を父親に返したという。
この警察官の不用意な発言が、「須藤さん殺害のきっかけとなった」ことが裁判でも認定された。
殺害の原因は警察の失態
萩原ら犯行グループは、この警察の大失態によって捜査が自分たちに迫っていると推測した。そうなると、須藤さんの存在は邪魔だった。なぜなら約2か月の凄惨なリンチで、須藤さんの身体は元には戻せないほどひどい状態だったのだ。膿んで腐敗した火傷の痕からは体液がにじみ出て、体中から異臭がした。須藤さんの身体は ”リンチの証拠そのもの” だった。
12月1日、萩原ら3人は須藤さんの殺害を決意する。翌日、市貝町の山林にやってきた彼らは、大きな穴を掘った。この日は11月下旬に居酒屋で知り合った高校生(当時16歳)も連れて来ていたが、高校生は車に残って須藤さんを見張っていた。
穴を掘り終えると、萩原は梅沢・村上に「チャッチャとやってこい」と命じて車に戻り、それと入れ替えで須藤さんは車を下された。午後2時40分頃、2人は須藤さんの首をネクタイで絞めて殺害。そして遺体を穴に入れてコンクリートを流し込み、その上からベニヤ板で蓋をした。
この時使用したベニヤ板やコンクリート、スコップなどの道具は、須藤さんの最後の給料で購入した。須藤さんは殺される前、「生きたまま埋められるのか。残酷だな」とつぶやいたという。
遺体を埋めたあと、萩原らは「追悼花火大会」と称して花火を楽しんだ。それからホテルに戻り、「15年は逃げきってやろう。死体が見つからなければ迷宮入りだ」とビールで乾杯。栃木県警が捜査に着手しない現状を考えれば、それは可能かもしれなかった。(当時の殺人罪の公訴時効は15年)
しかしその2日後、彼らにとって大きな誤算が生じる。12月4日、良心の呵責に耐え切れなくなった高校生が、警視庁三田警察署に自首したのだ。高校生は芝浦に住んでいたことから、栃木県警ではなく三田署に出頭したのだが、このことが事件を解決に導いた。
警視庁はすぐに三田警察署内に捜査本部を設置、高校生の証言にもとづいて須藤さんの遺体を発見する。掘り起こされた遺体はひどい有り様で、慣れているはずの捜査員も目を背けるほどだった。
翌日、警視庁は潜伏先の高田馬場のウィークリーマンションで、犯行グループ3人(萩原・梅沢・村上)を逮捕した。
事件発覚後
その後の捜査で、9月29日に3人に呼び出されてから殺されるまでの約2か月間、須藤さんは暴行を受け続け、脅し取られた金は728万3千円にものぼることがわかった。皮膚の8割に火傷を負った遺体は、検死で「たとえ絞殺されなくとも、いずれ死亡したと思われる」とされるほど酷い状態だった。
当初の警察発表では、須藤さんは「元暴走族仲間」とされていたため、事件は「暴走族仲間のケンカで死亡」とみなされて、世論の関心は低かった。しかし、産経新聞が事件の実情を「19歳の暴走、市貝町リンチ殺人事件」として報じたことで風向きが変わる。(産経新聞栃木県版、2000年4月7日から15回連載)
警察に不手際があった場合、「被害者も悪い」と印象付けることで、世間の批判をかわそうとすることがあります。桶川ストーカー殺人事件では、日本中から非難された埼玉県警上尾警察署が「被害者はブランド好きの派手な水商売女性」と嘘の発表をして、批判の目をかわそうとしました。被害者は普通の女子大生で、”ブランド物” は加害者が一方的に贈ったもの、”水商売” は知り合いのスナックを少し手伝っただけでした。
さらに翌月には、影響力の強かった写真週刊誌「FOCUS」が事件の凄惨さと栃木県警の不手際を報じると、テレビや雑誌も次々と取り上げるようになり、全国的な関心を呼んだ。
両親が須藤さんの救出を求めた回数は、電話も含めると計9回。石橋署は「事件にならないと動けない」と捜査に着手しなかった。このような事実が明るみになるにつれ、栃木県警は世論の批判を浴びることとなった。
2000年7月12日、萩原の父親で栃木県警・生活安全部通信指令課の萩原孝昭警部補(当時48歳)が退職願を出し、受理されていたことが明らかになった。警部補は最近は出勤しておらず、周囲には「辞めたい」と漏らしていた
2000年7月27日、国家公安委員会と栃木県警は、広畑史朗本部長に訓戒、石橋署の生活安全課長を「報告を上げず、適正な捜査指示を怠った」として停職処分とするなど、関係者9人の処分を発表した。しかし、もっとも重い処分が生活安全課長の停職14日間と、意外と軽いという印象はぬぐえなかった。
主犯・萩原克彦の生い立ち
萩原克彦は1980年6月5日、栃木県で生まれた。父親は栃木県警の警察官(萩原孝昭、事件当時は警部補)、母親は創価学会幹部で、彼はこの両親の次男である。事件当時の体型は、身長170cmで小太り。
1987年4月、宇都宮市立豊郷南小学校に入学。子供の頃から性格は荒く、「キレると何をするかわからない怖いヤツ」と言われていた。1996年3月、宇都宮市立陽北中学校を卒業後は、栃木県立宇都宮高校通信制に入学するも、のちに退学。その後、建設会社「三共リース」でとび職として働き始めた。
しかし度重なる早退・無断欠勤に加え、作業日誌改ざん(出勤しているように見せていた)がバレて クビ寸前になりかける。この時は母親の懇願でクビにならずにすんだが、相変わらず遊びほうける毎日だった。やがて地元の暴走族「幻影」の構成員となり、この頃から暴力団ともつきあいを始める。
萩原は暴走族時代、傷害・恐喝・窃盗等の事件を起こし、保護観察処分を受けており、鑑別所に入所の経歴がある。鑑別所の記録では、萩原の性格は「権威に弱く、弱者に支配的」とのこと。
1999年7月、「仕事がきつい」と職場を退職する。そして本事件の共犯者2人(梅沢昭博と村上博紀)から金を巻き上げていたが、梅沢の提案により被害者の須藤正和さんから金を脅し取ることになった。
そして9月29日、須藤さんから金を騙し取ったことに始まり、その後は実質的監禁するようになった。そして凄惨なリンチで強制的に従わせ、サラ金や知人から借金させた。結局、総額700万円以上を脅し取ったあげく、12月2日に須藤さんを殺害。この時、仲間に加わっていた高校生が自首したことにより、事件が発覚する。
そして12月5日、東京・高田馬場のウィークリーマンションに潜伏しているところを、梅沢・村上とともに逮捕となった。2001年1月29日、宇都宮地裁での一審「無期懲役」を不服として控訴していたが、東京高裁はこれを棄却。萩原の無期懲役が確定した。
主犯・萩原克彦の父親:萩原孝昭(元栃木県警警部補・某宇都宮駅東口ボーリング場勤務)
萩原孝昭は事件発覚後、体調不良を理由に欠勤を続けていたが、ボーナスと退職金を受け取り退職。その後、北関東総合警備保障(SOK(ソーケー)の関連会社で元警察官の受け皿会社) という会社に天下り。
共犯の梅沢昭博と村上博紀
梅沢昭博は1980年7月28日生まれ。父親は日産自動車栃木工場に勤めていたが、梅沢が小学生の時に退職。1998年5月には両親が離婚して、梅沢は母親に引き取られた。1999年3月に宇都宮学園高校を卒業すると、梅沢は父親もかつて勤務した日産栃木工場に就職した。
この時、同期で入社した中に被害者の須藤さんがいた。2人は同じ第二鋳造部に配属され、更衣室ではロッカーが隣同士だった。
そしてもうひとりの共犯者・村上博紀は、1980年10月29日生まれ。梅沢と同じ暴走族に所属していて、県内の私立高校(作新学院)を中退後、萩原と一緒にとび職をしていた。事件当時は無職で、宇都宮市岩曽町の実家に住んでいた。
当時、梅沢と村上は萩原から金を巻き上げられていたが、この身代わりとして差し出したのが須藤さんだった。須藤さんはおとなしい性格で、3人はそこに付けこみ、まずは7万円を騙し取った。そのまま監禁してリンチでいいなりにさせ、大金を脅し取ったあげくに殺害した。
裁判では梅沢に無期懲役、村上には懲役5年~10年の不定期刑が確定している。
梅沢昭博のその後
梅沢昭博は現在、岡山刑務所で服役中である。
2022年7月30日、TBSで放送された「報道特集」にて、梅沢と思われる服役囚がインタビューに答えている。番組では収監後にキリスト教の洗礼を受けたことや、模範囚として炊事場の班長を務めていることなどが明かされていた。
- 無期懲役が決まった時は実感もなく、他人事のように感じた。刑務所で過ごすうち、重く受け止めるようになった
- 刑務所に入った当初は夜中に涙を流したり、死にたいと思うこともあった
- (刑務所内では)外と時間の流れ方が違う。毎日同じリズムの生活で、時間の感覚がおかしくなる
刑事裁判:萩原・梅沢に無期懲役
自首によって事件解決のきっかけを作った共犯の高校生は、酌量が認められ少年院送致となった。萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀の3被告も事件当時は未成年だったが、東京家庭裁判所は刑事処分相当として逆送し、宇都宮地方検察庁は殺人・死体遺棄罪で3人を起訴した。須藤さんの遺族は強盗殺人罪で起訴するよう宇都宮検察審査会に陳述書を提出したが、棄却されていた。
この事件は2022年4月1日の少年法改正前の事件で、被告の3人は「少年」として扱われる年齢だった。
2000年3月14日、宇都宮地方裁判所で初公判が開かれた。3被告は胸を張り、ガニ股で体をゆすって入廷し、記者たちは非難の目を向けた。
検察側が梅沢被告に殺害前の被害者の様子を尋ねると、梅沢は「(火傷で)皮がはがれてボロボロになっていた」と答えた。そして、それを見た時の感想は「どうなってもいいと思った」、リンチで苦しむ様子については「おもしろかった」と述べた。萩原被告も「火傷の膿で水浸しになっていた」と証言した。
萩原は被告人質問の際、「早く更生して、もう一度彼女とやり直し、須藤君のぶんまで長生きしたい」と発言して、周囲をあきれさせた。
2000年6月1日、宇都宮地裁は、「犯行は計画的で凶悪。極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」として萩原被告に求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。
裁判官から「あなたはふんぞりかえって、眠そうにあくびをしながら聞いているように見えましたが違いますか?」と質問された萩原被告は、両足を大きく開いて首を片方にかしげ、ふてくされたような態度で「ちゃんと聞いていた」と答えた。萩原被告は控訴した。
2000年7月18日には梅沢被告に無期懲役、村上被告に懲役5~10年の判決が下され、その後確定している。(両被告とも求刑通りの判決)
一方、控訴していた萩原被告に2001年1月29日、東京高裁はこれを棄却。その後、上告の申し立て期限を迎えたため、萩原の無期懲役が確定した。
被告 | 判決 |
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萩原克彦(主犯) | 無期懲役 |
梅沢昭博 | 無期懲役 |
村上博紀 | 懲役5~10年 |
高校生 | 少年院送致 |
民事裁判:県警の過失は認めたが…
須藤さんの両親は、「栃木県警の捜査怠慢が息子を死に追いやった」として、国家賠償法にもとづいて栃木県と加害者、およびその両親に損害賠償・1億5000万円を求める民事裁判を起こした。
栃木県警は、それまでは遺族に捜査ミスを認めて謝罪していたが、裁判になると発言を一転させた。
- 「被害者からの電話に出た際、『警察だ』などと名乗ったことはない」
- 「被害者の母親が騒いだために電話が切れた」
- 「被害者が自ら捜索願を取り下げるよう連絡をしてきた」
- 「警察の対応は適切で、当時事件を予見することは出来なかった」
2006年4月12日、宇都宮地方裁判所は「栃木県警の捜査怠慢と殺害の因果関係」を明確に認め、石橋署員の供述を「全く信用できない」として退けた。
犯人が暴行や脅迫などで被害者を取り込むことはままあることであり、「いやしくも犯罪捜査に携わる者であれば当然わきまえておくべきである」と栃木県警の嘘と怠慢を厳しく非難、遺族の主張を全面的に認める判決を下した。捜査と殺害の因果関係を認めたこの判決は画期的なものとなった。
しかし、判決が被告保護者の監督責任を認めなかったことから、須藤さんの遺族は控訴。敗訴した栃木県も判決を不服として控訴した。
栃木県が控訴した理由について、当時の栃木県知事・福田富一は「『警察官の証言の信憑性』が全く認められなかった。”警察官の言っていることは嘘っぱち、でっち上げ” という判決が下ったわけですから、このまま判決を受け入れるということになると、それを認めることになります。ついては警察官の士気にも影響して、結果として県民益を損なうことになるだろうと思います」と述べている。
「栃木県警の責任は3割」とした富越和厚裁判長
2007年3月29日、東京高等裁判所(富越和厚裁判長)は、「栃木県警の怠慢がなくても、被害者を救出できた可能性は3割程度」と判断し、栃木県の賠償額を約1100万円に大幅減額する判決を下した。
この判決は、栃木県警に大幅な配慮を示す一方、被害者救出の可能性について3割とした根拠を示さず、被害者側に7割の責任があると判断する内容であった。被害者遺族は判決を不服として上告した。
2009年3月13日、最高裁(古田佑紀裁判長)は、被害者遺族の上告を棄却し、東京高裁判決が確定した。
訴訟中、須藤さんの母親が急死
この訴訟の最中の2002年9月11日、須藤さんの母親・洋子さん(当時50歳)が急死している。
洋子さんは事件以降、食べ物が喉を通らず、睡眠不足が続いていた。翌年秋には栄養失調からくる骨粗しょう症が原因で、手首を骨折するまでに衰弱していた。「正和のためにも倒れるわけにはいかない」という気力だけで乗り切っていた洋子さんだったが、8月24日夜、突然体調を崩し、意識不明のまま宇都宮市内の済生会宇都宮病院に運ばれた。
入院中、刑事・民事裁判を通して夫婦の相談に乗ってきた小野瀬芳男弁護士が見舞った際、洋子さんの手を握った小野瀬弁護士に対し、意識のない洋子さんが握り返したという。そして、しばらく小野瀬弁護士の手を離さなかった。「洋子さんの裁判にかける思いを感じ取りました」と小野瀬弁護士は振り返る。
しかし、9月9日から病状が悪化。そして11日正午過ぎ、夫の光男さん(当時51歳)に見守られながら息をひきとった。この日は、民事裁判の弁論が宇都宮地裁で開かれていて、それが終わった直後のことだった。光男さんは「この日の裁判が終わるまで頑張ったのでしょう。死んだ2人のためにも闘い抜きたい」と、悔しさをかみしめた。
日産自動車の不誠実な対応
須藤さんと梅沢は日産自動車の社員だったが、2人とも欠勤を続けたことを理由に退職金不支給の「諭旨退職処分」を受けている。梅沢はともかく、須藤さんは拉致監禁されて出社が不可能だったにもかかわらず、である。
事件発覚後に「欠勤の事情」が判明してからも日産側は処分の撤回をせず、工場側も遺族に対する謝罪はおろか、追悼の言葉さえ出さなかった。このあまりにもひどい対応に、須藤さんの父親は、日産への憤りを募らせ、愛車の日産ローレルを売り飛ばしたという。
報道により批判されたことから、日産は事件から4か月後(2000年4月19日付)、須藤さんの「諭旨退職処分」を撤回した。(4月24日付の地元紙の記事より)
また、日産は「須藤さんが梅沢らと遊び歩いている」という内容の書類を、警察に提出している。これは、須藤さんの母親が捜索願を出す際、「警察の人に渡してください」と預けたもので、母親は中身を読まずに警察に渡してしまった。
日産は、須藤さんと梅沢にそれぞれ「欠勤の事情」を聴取していたが、梅沢の話を信用し、須藤さんの説明が嘘であると判断していた。(須藤さんを介して)犯行グループから大金を脅し取られた同僚が、「梅沢の話には矛盾がある」と指摘したのに、なぜか梅沢の言い分を「真相」とした書類を警察に提出した。
この書類が、捜査における ”先入観” を生んだ原因とみられていて、広畑本部長も事件後にそう述べている。
また、日産は早い段階で事件性に気付いていたと思われる節がある。前出の同僚が10月13日に事情を聞かれた際、会社側は犯人のひとり、村上博紀の存在を把握していたというのだ。会社と無関係の人間の名前が挙がるということは、かなり調査を進めていたということだ。