警察の懸命な捜査にもかかわらず、未解決となってしまう事件は多いものです。
その中には不可解を通り越して「怖い話」並みにゾッとするようなものもあります。
ここではそんな不気味な事件11個を紹介します。
果たして、真実があきらかになる日は来るのでしょうか?
1.長岡京ワラビ採り殺人事件
1979年5月23日、スーパーマーケットで働くパート仲間の明石さん(43歳)と水野さん(32歳)は、仕事を終えてからワラビ採りに出かけた。
場所はスーパーから2kmほど離れた里山(通称「野山」)で、現地には午前11時頃に到着。2人は、ふもとにある寺院前に自転車を停めて入山している。
入山する2人の姿は数人が目撃していたが、その目撃情報を最後に2人は帰らぬ人となってしまった。
夜になっても帰らないことを心配した水野さんの夫が、野山を探してみても見つからず、翌24日には明石さんの夫も捜索に加わったが、やはり2人はどこにもいなかった。
そのため夫たちは、午後2時50分頃に向日町署に捜索願を出した。署は直ちに30人体制で捜索を開始。捜索は夜まで続けられたが、やはり発見には至らなかった。
翌25日はさらに人員を増やして警察犬も投入、地元消防団なども協力して、120人体制で朝から捜索を開始した。午前10時30分頃、野山の山頂付近の雑木林にて、獣道の奥で警察犬が反応。明石さんの遺体は、そのそばの急斜面で発見された。さらにそこから10mほど登った、小さく開けた場所で、水野さんの遺体を発見した。
遺体は惨殺といっていい状態だった。直接の死因は明石さんが絞殺、水野さんは刺殺だった。 明石さんは全身を殴打され、肋骨が折れて内臓の損傷もみられた。水野さんも全身を殴打され、包丁が胸に刺さったままだった。
2人の遺体から検出された体液などから、犯人の血液型はO型ということがわかっている。
唯一の物的証拠である包丁からは指紋が検出されず、捜査は難航した。そして、その後の懸命の捜査の甲斐もなく、1994年5月24日に公訴時効が成立した。
この事件には、謎が多い。怪しい中年男の出没や、3人目の被害者の存在など、事実か都市伝説かわからないエピソードが数多く、今なお語り継がれている ”実話の怪談” のような事件である。
また遺体のポケットにあった怪文書のようなメモも、一層不気味さを際立たせている。
2.井の頭公園バラバラ殺人事件
1994年4月23日午前、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱から、遺体の一部が27個発見された。遺体は同じ大きさに均一に切断され、完璧に血抜きされていた。
遺体は両手足と右胸部のみで、指紋は削られていたが、わずかに残っていた掌紋とDNA鑑定などから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の川村誠一さん(当時35歳)と判明。奇異な状態の遺体からは死因や死亡時刻は特定できなかった。
川村さんは21日夜に同僚と別れてから、行方がわからなくなっている。捜査本部は当初、その猟奇的な手口から怨恨による犯行とみていた。しかし、川村さんの周辺にトラブルはなく、怨恨の線は消える。その後、犯人に結びつく物証や情報も見つからず、 2009年4月23日公訴時効が成立した。
時効から6年後の2015年、川村さんは人違いで殺されたかもしれないという話が出てきた。
当時この地域に、川村さんと「顔」も「背格好」も「年齢」も瓜二つの男性がいた。彼は、露天商の元締め的存在の男性で、トラブルの多かった外国人露店商を追い出そうとして、逆に命を狙われていた。この外国人露店商たちは、実は某国の工作員だったというのだ。
ある夜、身を隠すため都内のビジネスホテルに潜伏していたこの男性は、ニュースで事件を知る。そして被害者の川村さんの顔を見たとき「この人は私と間違われて殺されたと確信した」と語っている。
3.室蘭女子高生失踪事件
2001年3月6日午後、北海道室蘭市で高校1年の千田麻未さん(当時16歳)が自宅からアルバイト先に向かう途中で行方不明になった。
千田さんは自宅近くの大型スーパー内にあるパン屋でアルバイトしていたが、これは支店。この日はオーナーに「コーヒーの淹れ方の講習」を受けるために本店に向かった。
時間 | 行動 | 補足 |
---|---|---|
正午前後 | 自宅からパン屋本店に電話 | ・従業員に13:00過ぎに行くと伝える ・オーナーがいるか確認 |
12:25 | 自宅近くのバス停「白鳥台」からバスに乗車 | |
12:56 | パン屋本店のあるバス停「東通」で降りず | |
13:03 | 室蘭サティ近くのバス停「東町2丁目」で下車 | |
13:04 13:26 | 室蘭サティの防犯カメラに麻未さんが映る | 室蘭サティ=現・イオン室蘭 化粧品売り場にいた |
13:30頃 | 室蘭サティ前で同級生2人が目撃、挨拶を交わす | 最後の目撃情報 |
13:31 | バス停「東町2丁目」からバスに乗車 | 本店のあるバス停「東通」に向かう |
13:42頃 | 交際中のA君に「今、下に着いた」と電話報告 | 「下」は繁華街の通名 |
| 本店のバス停「東通」付近で千田さんのPHS電波を受信 | 停留所からパン屋まで約20m |
13:46頃 | A君と通話「今、話せないから後でかけ直すね」と告げる | |
しかし「コーヒーの淹れ方の講習」など、ほかの従業員は受けたこともなければ聞いたこともないという。パン屋のオーナーは美人の千田さんのことを気に入っており、コーヒーの講習という名目で2人きりで会おうとしたのでは?と噂されている。
パン屋のオーナー
室蘭警察署も千田さんと ”最後に会った可能性” のあるパン屋オーナーを怪しんでいた。そのため、オーナーに対し3日間に渡り任意での取り調べを行っている。警察はオーナー所有の車を押収、自宅と店舗を徹底的に捜索したが、千田さんに結びつく物証は発見できなかった。
オーナーは取り調べで「千田さんが約束の午後1時過ぎに来ると思って、午後1時半頃まで店で待っていたが、来なかったので商用で外出した。その後、午後3時15分頃に自宅に帰った」と供述。ところがその後、なぜか供述内容を訂正し「午後1時半頃に外出したが、体調が悪かったので自宅に戻ってコタツで寝ていた」と述べている。
千田麻未さんは今どこに?
交際していたA君によると、千田さんと電話で話した時、1度目は外にいるとわかるような騒音があったが、2度目は静かで「室内にいるような感じがした」と証言している。
その後、千田さんのPHSは夕方頃には電話もつながらず、電波も拾えない状況になっている。
千田さんの通う北海道立室蘭栄高校は、室蘭市の中でも一番の進学校。彼女の成績はその中でもトップクラスだったという。性格はまじめで几帳面、約束の午後1時に連絡なしで遅れたうえ、のんきに化粧品売り場で時間を潰すなどとは想像できないという。
平日の昼間(午後2時頃)に人通りの多い繁華街で、誘拐・監禁などということが可能なのだろうか?
4.佐賀女性7人連続殺人事件
1975年~1989年の13年間に、7件の殺人事件が発生した。
発生地域は佐賀県北方町、白石町、北茂安町、武雄市で、半径20キロ圏内だった。
前半4件については、犯人を特定できず公訴時効が成立したが、後半3件は起訴したものの、裁判で無罪が確定している。そのため、7件とも未解決事件のままである。
事件は以下の特徴がある。
- 7件のうち、6件が水曜日に失踪
- 7件のうち、5件の死因が絞殺(残り2件は白骨化のため死因不明)
- 7件すべてについて、夕方から夜にかけて失踪
- 7件すべてについて、被害者が女性
7件の殺人事件は以下の通りである。
(1)1975年8月27日(水)佐賀県北方町の山崎十三子さん(12)失踪 1980年6月27日、須古小学校トイレで白骨遺体で発見
(2)1980年4月12日(土)佐賀県大町町の百武律子さん(20)失踪 1980年6月24日 須古小学校トイレで全裸遺体で発見
(3)1981年10月7日(水)佐賀県白石町の縫製工場の工員・池上千鶴子さん(27)失踪 1981年10月21日遺体で発見
(4)1982年2月17日(水)佐賀県北茂安町・小学生Nさん(11)失踪 翌日ミカン畑で遺体で発見
後半の3件を北方事件という。
3人の遺体は1989年1月27日に佐賀県北方町志久大峠の雑木林にて白骨死体で発見された。
(5)1987年7月8日(水)佐賀県武雄市・藤瀬澄子さん(48)失踪
(6)1988年12月7日(水)佐賀県北方町の主婦・中島清美さん(50)失踪
(7)1989年1月25日(水)佐賀県北方町の吉野タツ代さん(37)失踪
連続殺人事件とはいえ、7件すべてが同一犯とは思えない。しかし共通項で括ると、次のような推測が立つ。
- 犯人A:第1事件、第2事件 → 同じ小学校で遺体発見
- 犯人B:第3事件、第5事件、第6事件、第7事件 → 5、6、7は遺体発見場所が同じ 3、7は職場が同じ
- 犯人C:第4事件 → 単独事件?
北方事件(第5、第6、第7事件)については容疑者を逮捕し、裁判に臨んだ。しかし、無罪となっている。
この不気味な連続殺人事件、解決する日は来るのだろうか?
5.京都・主婦首なし殺人事件
1995年4月29日午前11時40分頃、ある男性(70歳)が山菜取りに訪れた京都府船井郡和知町の山中で、マネキンのようなものが捨てられているのを発見する。
しかし、近寄ってみるとそれは人間の遺体。マネキンと見間違えたのは、頭部と両手がなかったからだった。
遺体からは血も流れておらず、腐敗もしていなかった。京都府警は殺人事件と断定し、捜査本部を設置。捜査の結果、遺体は田中久美子さん(44歳)、兵庫県三田市に住むパートの看護師だった。
田中さんは4月26日午前に家を出たきり、家族にも連絡がない状態だった。家族が心配していなかったのは鳥取の実家に法事に行ったと思っていたからで、2~3日帰ってこなくてもそれは不自然ではなかったのだ。しかし2日後、高校生の娘が実家に電話したことで家族は不安になる。実家のほうも帰って来てない田中さんを「電話に出して」と言われて驚いたことだろう。
そして翌日、妙な胸騒ぎを抱えたまま遺体のことをニュースで知る。さらに数日後、遺体の身元が判明したため家族にも連絡が入った。
濃厚すぎる容疑者
その後の捜査で、26日の田中さんの足取りが判明する。
田中さんは26日午前9時頃、ある男と三田駅で待ち合わせ、その日は京都府福知山市のラブホテルに入っていた。男は三田市の生コン会社に勤める泉谷博司(当時45歳)で、2人はW不倫の関係だった。
当初は「痴情のもつれから発展した殺人事件」で、簡単に解決できると踏んでいた京都府警は、思わぬ誤算であることを思い知らされる。泉谷容疑者には厄介な弁護士が付き、そのせいで捜査は振り回されることになる。彼は不起訴処分となり、釈放されたのだ。
当時の京都地検は「十分な証拠が得られなかった」ことを理由としている。2人きりでの行動だったため、有力な証言ひとつない状態だった。
別件で実刑判決
この事件で罪に問われることのなかった泉谷だが、2006年、別の殺人事件で逮捕される。この事件でも同じ弁護士が付いたが、前回のように言い逃れできる状況とは違っていた。彼は起訴されて懲役15年の実刑をくらった。
15年から拘留期間の300日が引かれ、刑務は実質14年ちょっと。満期でも2020年中には出所しているはずなのだ。泉谷は、周囲から「2人きりで会ってはいけない人」とまで言われた危険な男だった。彼は今、どこでどうしているのだろうか?
6.岩手17歳女性殺害事件
2008年7月1日 午後4時30分ごろ、宮城県栗原市に住む佐藤梢さん(17)の遺体が、岩手県川井村(現宮古市)の松章沢の川床で見つかった。司法解剖の結果、絞殺による窒息死で死亡推定日は6月30日。首を絞められたあと、橋から突き落とされたと見られた。
7月29日、殺人容疑で小原勝幸(当時28)に逮捕状が出され、全国指名手配された。
被害者の佐藤梢さんは、小原の恋人の親友だった。その恋人の名前は、なんと被害者と同姓同名の ”佐藤梢” だった。しかも2人は高校時代の親友同士だったのである。
しかし、警察は ”佐藤梢が2人存在する” ことに気付いていなかった節がある。遺体発見のあと、警察が安否確認を行ったのは、”小原の恋人のほう”、つまり無事なほうの佐藤梢さんだったのだ。
小原は当時、ある先輩から紹介された仕事を数日で逃げ出し、それが原因でこの先輩と揉めていた。謝罪に行った小原は、先輩から脅され120万円の借用書を書かされる。そして、連帯保証人に恋人の梢さんの名前を書いていた。
小原はこれを支払うことなく逃げ回っていたが、そのことが事件を引き起こしたと推測されている。しかし、真相は不明だ。なぜなら小原は事件後の2008年7月2日、自殺の名所でもある「鵜の巣断崖」で目撃されたのを最後に行方がわからなくなっているからだ。
現在、小原は指名手配されて300万円の賞金がかけられている。
この事件では、真相を追ったジャーナリストの男性が謎の自殺を遂げるなど、不可解なことが多い。彼は「被害者は、小原の恋人と間違われて殺された可能性が高い。真犯人は別にいて、小原本人も消されてるかもしれない」と主張していた。
7.日本平山頂死体遺棄事件
静岡県警察 ← 捜査本部はこちら
2001年5月15日、静岡県静岡市の日本平パークセンター西側斜面の草むらに、新聞紙に包まれた不審なビニール袋が置かれているのを、センター内レストランの女性従業員が発見した。
袋は、複数のビニール袋で中身を縛っていたが、動物が食いちぎったためか一部破れていた。その破れた場所から見えたのは…人間の頭部。驚いた女性従業員は、すぐに警察に通報した。
捜査で判明したのは、くるんでいた新聞紙の日付は4月下旬で、ビニール袋の1枚は浜松市のデパート「松菱」のものだった。
頭部は、小ぶりの買い物用のビニール袋を数枚重ねた中に入れられており、死後1~2ヶ月経っていて一部が白骨化していた。頭頂部の髪の長さは14cmくらい、白髪はなく染めてもいない。首はあごに近い部分から刃物で切断されていた。
発見した従業員は「最初はおもちゃかと思った。でも、それにしては厳重に包んであるのでおかしいと思った」と話している。
まずい女性に引っかかった
その後の捜査で、遺体は静岡県浜松市に住む武井高弘さん(当時30歳)と判明した。
武井さんは事件の半年前の2000年11月頃、実家を出て浜松市内でひとり暮らしを始めていた。母親とはまめに連絡をとっていて、遺体発見の1カ月前には「ひかりちゃんと名古屋に住む」と電話で伝えていたという。その頃から武井さんは、行方が分からなくなっている。
武井さんには交際中の女性がいたが、その女性も行方が分からなくなっている。この女性が「ひかりちゃん」かどうかは不明だが、失踪する直前、中学時代からの親友に「まずい女性に引っかかった」と話していたという。また、 武井さんが事件直前に和服の女性と歩いていたという情報もあった。
「交際していた女性」と、「ひかりちゃん」 と、「和服の女性」は、同一人物なのだろうか?
捜査本部は、武井さんが別の場所で殺害され、パークセンター上から投げ落とされたか、遺棄されたとみている。現場はパークセンター西側の変電室の裏で、従業員が通用口として使用しているが、一般の人が立ち入ることはほとんどないという。
前出の女性従業員は、「15日も午前9時ごろ現場近くを通ったのに全く気付かなかった」と証言している。
現在までに、頭部以外の遺体は見つかっていない。(頭部は一部ミイラ化していたという)
8.名古屋市西区主婦殺害事件
高羽悟さんと美奈子さん(当時32)は、不動産会社の同僚として知り合い、1995年7月7日に結婚。2年後には息子を授かり、家族でディズニーランドに行くなど、幸せに暮らしていた。
家族は当時、名古屋市西区のアパートに住んでいた。
1999年11月13日、この日は土曜日だったが、夫の悟さんは朝から仕事に出かけている。妻の奈美子さんも、長男を小児科へ連れて行ったため午前中は家にいなかった。そのため、午前9時30分頃に宅配便が来た時も、アパートの3階に住むママ友が10時台に電話した時も、奈美子さんは不在だった。
小児科の記録によると、受診したのは午前11時過ぎ。帰宅したのは午前11時40分頃で、これはママ友の夫が目撃している。
午後2時頃、アパートの大家が、自宅の庭で採れた柿を届けようと高羽さんの部屋を訪れた。応答はなかったが試しにドアを開けてみると、鍵はかかっていなかったようでドアは開いた。
その時、女性が血を流して倒れているのが見えた。驚いた大家は、すぐに119番通報した。
帰宅後2時間で何かが起こった
テレビはつけっぱなしで、部屋には2歳の長男が子供用の椅子に座らされていた。テーブルには、ふやけたカップ麺と見慣れない乳酸菌飲料。
大家が慌てふためいていると、3階から奈美子さんのママ友が下りてきた。事情を知ったママ友は、長男を預かり、奈美子さんの夫の会社に連絡した。
仕事で外にいた夫の悟さんは、奥さんが吐血して倒れたと会社から連絡を受ける。駐車場から車を出して家に向かっている途中、携帯電話が鳴り奈美子さんが亡くなったと告げられた。
奈美子さんが帰宅してから、大家が訪問するまでの約2時間に何かが起こったのだ。
犯人は玄関先に血痕と靴跡を残していた。DNA型鑑定から、犯人は40~50代の女性で、血液型はB型。
近所の公園まで血痕が続いていることから、犯人も怪我をしたものと考えられている。実際、公園付近では片手を握るように押さえて立っていた中年女性が目撃されている。
夫の悟さんは、20年以上経った今も事件現場となったアパートを借り続けている。事件が風化しないようにという理由で、もちろん住んではいない。
当時2歳だった長男も無事に大人になったが、目の前で起きた事件のことは当然覚えていない。
捜査でも、美奈子さんは誰にも恨まれるようなことはなかった。
いったい誰が何のためにこんなことをしたのだろうか?
9.名古屋妊婦切り裂き殺人事件
名古屋では、主婦が殺害された未解決事件がもうひとつある。1988年3月18日に発生した、日本で最も猟奇的といわれる「名古屋妊婦切り裂き殺人事件」である。
名古屋市中川区のアパートに住む守屋慎一さん(当時31歳)と美津子さん(27歳)は、結婚して3年になる夫婦だった。美津子さんは妊娠していたが、予定日をもう5日も過ぎていたので、慎一さんは仕事先からも電話をするほど心配していた。
この日も慎一さんはいつも通り出勤。昼12時過ぎに電話で話した時は、特に異常はなかった。だが退社直前(午後6時50分頃)の電話には、美津子さんは出なかった。
「出かけてるのかな?」ぐらいに考えつつ帰宅したのが午後7時40分頃。この時、部屋の電気は消えているのに玄関の鍵があいていたことに少し違和感をおぼえた。
寝室で着替えていると、奥の居間から赤ん坊の泣き声が聞こえた。慎一さんは「生まれたのか?」と驚き、居間の照明を付けた。
信じられない光景
居間は一面が血の海だった。美津子さんは死んでいたが、驚いたことに足元には赤ん坊が力なく泣いていた。通報しようと電話の場所に急いだ慎一さんだったが、電話器が見当たらない。慎一さんはアパート1階の住民に電話を借り、救急車を呼んだ。
駆け付けた救急隊員は、現場を見て凍り付いた。赤ん坊は ”産まれた” のではなく、腹を裂かれて取り出されていたのだ。そしてお腹には「電話の受話器」と「(車のキーが付いた)ミッキーマウスのキーホルダー」が詰め込まれていた。
赤ん坊は奇跡的に助かった。
搬送時、低体温症で体温は約30度まで低下、足の傷のせいで重度の貧血にもなっていた。しかし、発見が早かったことや、病院の的確な処置などのおかげで、一命を取り止めたのだ。
捜査では、不審な男の存在が明らかになった。アパート1階の住民宅に午後3時頃、「ナカムラさんのところを知りませんか?」と尋ねる30代ぐらいの男がきたというのだ。しかし、近辺に「ナカムラ」姓の住民は住んでいなかった。
また、美津子さん宅にはやはり3時頃まで友人が訪れていたが、友人は玄関のドアノブを回すような音を聞いたという。結局、この男の身元は特定できず、2003年3月、公訴時効が成立してしまった。
赤ん坊は事件のことを知らされないまま無事に成長し、父親とともにハワイに移住したという。
10.舞鶴高1女子殺害事件
2008年5月6日、京都府舞鶴市で高校1年の小杉美穂さん(15歳)が午後10時以降に自宅を出た後、行方が途絶えた。彼女は日付けが変わった7日午前0時50分頃、友人と「国道沿いのドラッグストア付近にいる」と携帯電話で話している。その直後に東京の兄にメールを送信、これが確認できる最後の行動だった。
7日午前9時頃、美穂さんが家に帰らないため、家族が捜索願を提出。翌8日午前8時45分頃に雑木林で美穂さんの遺体が発見された。死因は窒息死、頭部にバールのようなもので殴られたあともあった。
死亡時刻は5月7日未明とされている。遺体は衣服を一切身に着けておらず、隠すように土や枯れ葉がかけられていた。
警察は殺人事件として捜査を開始。しかし、美穂さんには周辺とのトラブルは無く、交友関係を辿っても犯人特定に結び付く情報はみつからなかった。
容疑者を特定
そんな中、7日未明の美穂さんの目撃情報がみつかる。美穂さんは、「自転車を押す黒い服の男性」と一緒に府道を歩いていたとされ、複数の防犯カメラにもその記録が残されていた。2人はこの府道を現場方向に向かって歩いていたという。
これを手がかりに、事件から11か月後の2009年4月7日、遺体発見現場付近に住む中勝美(当時60歳)が逮捕された。
中が防犯カメラに映った男と容姿や当日の服装が酷似していたこと、過去に殺人や手口の似た傷害事件の前科があったことなど、状況証拠は揃っていたものの、この男と事件を結びつける物的証拠はなかった。
中は裁判で無罪を主張したが、2011年5月に一審で無期懲役の判決が下った。しかし控訴審では、証拠が不十分だったことから逆転の無罪判決が下され、2014年7月に最高裁で無罪が確定した。
天罰が下った?
中勝美は無罪が確定した約4ヶ月後(2014年11月5日)、大阪市北区で知人女性を刺したとして殺人未遂で現行犯逮捕された。彼はこの事件で殺人未遂や強制わいせつ致傷などで懲役16年の判決を受けている。
大阪刑務所に服役していたが中勝美だったが、2016年4月から体調を崩し治療を受けていた。そして7月11日、大阪医療刑務所で病死した。(67歳没)
彼は大阪拘置所に拘置中、同じく拘置中の男性に「女子高生は自分が殺した」と告白していたという。
11.柴又女子大生放火殺人事件
1996年9月9日午後4時半頃、東京都葛飾区柴又3丁目の民家より火災が発生。約2時間後に消し止められ、焼け跡から上智大学4年生の小林順子さん(当時21歳)の遺体が発見された。
この日、父親と姉は仕事で不在、母親も火災の直前の午後3時50分頃、パートに出かけて行った。出かける時、順子さんは母親に「こんなに雨が降っていても自転車ででかけるの?」と声をかけたが、これが最後の会話となってしまった。
火災の原因が放火であることはすぐに判明した。なぜなら、順子さんの遺体は口と両手を粘着テープで、両足をパンティーストッキングで縛られており、首を鋭利な刃物で刺されていたからだ。
このことから、警察は殺人事件と断定。現場の状況から、当初は顔見知りの犯行と思われた。
- 何も盗られておらず、乱暴された形跡もない
- 人目に付く夕方の短時間で犯行である → 被害者宅の状況を把握していた可能性あり
- 遺体に布団がかけられていた → 顔を隠すのは、顔見知りの犯行に多い
- 殺害後に放火するのは、強い恨みを持っているから
10年後、犯人のDNAを発見
”顔見知りの犯行” と考えた警察は、遺族にも「すぐに捕まる」と話していた。だが、実際は有力な手がかりがなく、現在に至るまで未解決のままである。
ただし、不審者情報がないわけではない。
火災発生時刻とほぼ同じ午後4時30分~40分頃、「雨の中を傘も差さず、現場付近から駅の方面へ走って行った20〜30代ほどの男」が目撃されている。また、事件前には「被害者宅を見ていた身長約160cm・やせ形で、黄土色のレインコート・黒ズボン姿の30代後半の男」の情報もあった。
ほかにも近辺で数件の不審者情報があったが、いずれも犯人を特定するものではなかった。
順子さんは2日後にアメリカへの海外留学を控えていた。このことが、事件と関係あるのかどうかも不明だ。動機が怨恨なら、留学前に片を付けようとした可能性もあるが、順子さんには人に恨まれるようなトラブルもなかった。
事件から10年経った2006年9月には、両足の縛り方が「からげ結び」という特殊な結び方だったことや、”残留物のマッチ箱” と ”遺体に掛けられた布団の血液” から、犯人のものと思われるDNA型が検出されている。
事件現場である被害者宅はもう存在しないが、警視庁は現場の3D動画を公開して広く情報を呼びかけている。