「警察庁広域重要指定118号事件」の概要
1986年から1991年にかけ、元警察官がからんだ連続殺人事件が発生した。
元岩手県警警察官の岡﨑茂男らは、大金を用意できそうな男性を誘拐しては身代金などを奪っていた。こうして岩手県で1人、福島県で1人を殺害したあと、千葉県では身代金を強奪後、被害者を解放。この被害者の証言から犯行グループが判明し、全員逮捕となった。
その後、主導的立場にあった岡﨑ら3人には死刑が確定するが、3人は刑の執行前に全員が病死してしまう。
事件データ
犯人1 | 岡﨑茂男(33歳・最初の事件当時) 死刑:2014年6月26日病死(60歳没) |
犯人2 | 迫康裕(45歳・最初の事件当時) 死刑:2013年8月15日病死(73歳没) |
犯人3 | 熊谷昭孝(43歳・最初の事件当時) 死刑:2011年1月29日病死(67歳没) |
犯行種別 | 連続強盗殺人事件 |
犯行日 | 1986年7月15日 1989年7月20日 1991年5月1日 |
犯行場所 | 岩手県雫石町、福島県猪苗代町 |
被害者数 | 2人死亡 |
動機 | 金銭目的 |
キーワード | 元警察官 |
「警察庁広域重要指定118号事件」の経緯
1986年7月から1991年5月にかけ、元岩手県警警察官の岡﨑茂男ら犯行グループ8人は、金銭目的で3つの事件を起こした。
事件の主導メンバー
- 飲食業・岡﨑茂男(逮捕時38歳)元岩手県警巡査
- 塗装作業員・迫康裕(逮捕時50歳)
- 土建業・熊谷昭孝(逮捕時48歳)熊谷光輝の兄
従属的立場のメンバー
- 土木作業員・熊谷光輝(逮捕時38歳)熊谷昭孝の弟(本記事では熊谷弟と表記)
- 土木作業員・菅原勝治郎(逮捕時37歳)熊谷光輝の部下
- 元自動車運転手 I
- 塗装工 N
- 別の塗装工の男(千葉事件のみ関与)
岩手事件(盛岡市)
1986年7月15日頃、岡﨑らは岩手県盛岡市の金融業・西村清詩さん(当時41歳)を、言葉巧みに空き家に連れ込み誘拐した。そして西村さんの首に短刀を突き付けて脅し、両手足を紐で椅子にくくりつけたり、目隠しをするなどして拘束したうえで、西村さんの自宅から土地登記済権利証や外車を強奪した。
その後、西村さんを岩手県雫石町の山林で生き埋めにして殺害。岡﨑は、西村さんに200万円の借金があったとされる。
この事件では岡﨑・熊谷が主導的立場で、迫も重要な役割を担い、熊谷弟とその部下・菅原勝治郎の2人が従属的に加担した。(計5人)
福島事件(郡山市)
1989年7月20日午後、郡山市の塗装会社社長・真壁研一さん(当時48歳)が、大手建設会社名を名乗る男から電話で呼び出された。真壁さんは「仕事で人に会う」と言い残して会社を出てきり、帰宅しなかった。
翌21日、真壁さんは家族と銀行に連絡して現金1700万円を準備させ、幹部社員に郡山市大町のファミリーレストラン駐車場に現金を届けさせた。さらに、現金を車内に置いて会社に帰るよう指示。その後、連絡が途絶えた。
不審に思った社員らが警察に連絡した。警察がファミリーレストランに駆け付けた時にはすでに車はなくなっており、真壁さんはからの連絡も途絶えた。その後の捜査で、真壁さんの車は郡山市虎丸町のスーパーマーケット駐車場に放置されているのがみつかったが、現金はなくなっていた。
真壁さんは犯行グループに誘拐されたあと、猪苗代町の貸別荘で監禁されていた。現金を奪われたあとは別荘近くの山林で紐で絞殺され、事前に掘っていた穴に遺棄された。
事件を主導したのは岡﨑・熊谷で、次いで迫が重要な役割を果たした。このほかに、従属的に熊谷弟、その部下・菅原勝治郎、元自動車運転手I、塗装工Nも加担した。(計7人)
千葉事件(市原市)
1991年5月1日、千葉県市原市の塗装業・高崎勇一さん(当時52歳)を誘拐・監禁し、高崎さんの妻から身代金2000万円を奪った。高崎さんは2日後、栃木県で解放された。
高崎さんは、当日に電話で塗装の仕事の依頼の電話があり、待ち合わせの中学校正門前で車に連れ込まれた。車内では頭から布袋をかぶせられている。
高崎さんは脅され、5月2日に妻に2000万円用意するように電話する。妻は指示通り、警察に通報せず現金を用意。5月3日、知人男性2人に栃木県宇都宮市のファミリーレストラン駐車場に身代金を運んでもらい、トランクに現金を置いたまま、1時間その場を離れた。
戻ってみると、車内には紐で拘束され、目隠しされた高崎さんを無事発見した。
この事件では、新たに塗装工の男(塗装工Nとは別)が犯行に加担した。
5月4日、高崎さんから被害届が出され、身代金目的の誘拐事件として捜査が開始された。
高崎さんの証言を元に、監禁場所は栃木県那須塩原の貸別荘であることがわかった。そして事件当日(5月1日)、付近で不審な車が駐車していたことも判明した。
状況から、この事件は郡山事件との関連が疑われた。手口が似ていることに加え、両事件の被害者は、どちらも ”塗装業” に従事していた。
このことを踏まえ、千葉県警と福島県警の共同捜査が始まった。捜査員は福島と千葉で2人1組のペアを組むという、これまでにあまり例のない体制で臨んだ。
本連続失踪事件は、警察庁広域重要指定118号事件に指定された。
当時、福島県警の捜査1課長だった小山元さんは、事件の端々から「(犯人は)警察の知識を持っている」と推測できたという。
そして、捜査で貸別荘の借り手が、高崎さんと顔見知りの迫であることが判明。警察は5月13日、迫ら主要メンバーを容疑者と断定して全国指名手配した。
犯行グループ全員逮捕
翌5月14日、迫はホテルに潜伏しているところを逮捕となった。迫は取り調べで、過去の事件にも関与したことを自供する。
6月15日、郡山事件の真壁さんの遺体が、福島県猪苗代町の山中から発見された。そのため迫は同日、郡山事件でも再逮捕。さらに熊谷、熊谷弟、菅原もこの日に逮捕され、Iが翌16日に逮捕となった。
ひとり逃亡を続けていた岡﨑は、10月31日、東京都港区で逮捕されている。
- 岡﨑茂男・迫康裕・熊谷昭孝:死刑確定(3人全員が執行前に病死)
- 熊谷光輝(弟)・菅原勝治郎・元自動車運転手 I:無期懲役確定
- 塗装工 N:一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却
- 塗装工の男(千葉事件のみ関与):懲役6年
死刑確定となった岡﨑・迫・熊谷の3人は、その後、刑が執行されることなく3人全員が病死している。
熊谷昭孝死刑囚のその後
熊谷昭孝死刑囚は1943年2月10日生まれ。事件前は土建業に従事していた。
また、本事件で共犯の熊谷光輝は弟である。
2011年1月29日午後、熊谷死刑囚が肺塞栓症で死亡した。(67歳没)
死刑確定後は、仙台拘置支所に収監されていた。それから約5年後2010年12月、熊谷死刑囚は総胆管ガンと診断され、翌2011年1月17日に外部の病院に入院。19日に手術を受けた。
歩行訓練をしていた29日午後2時頃、胸の苦しみを訴えて意識を失い、まもなく死亡したという。
熊谷昭孝が獄中で描いた絵
迫康裕死刑囚のその後
迫康裕死刑囚は1940年7月25日生まれ。事件前は塗装工をしていた。
2013年8月15日には、迫死刑囚が病死したことが発表されている。
迫死刑囚は、宮城刑務所に収容されていた。死因は急性肺炎。(73歳没)
以前から「じん肺」のため、運動などを制限していた。
- 「毎朝、夕、被害者の方の供養をし、書写をしていますが、私は人を殺していません。殺す場面も見ていません。韓国は死刑廃止になっています」
- 「じん肺、坐骨神経痛でしばらく運動に出ていないのは悲しい」
迫康裕が獄中で描いた絵
岡﨑茂男死刑囚のその後
岡﨑茂男死刑囚は1954年生まれ。元警察官で、警察官時代は約7年にわたり刑事も経験している。事件当時は飲食業に従事していた。
2014年6月26日、最後のひとり、岡﨑死刑囚も収容先の東京拘置所内の病棟で死亡。死因は急性呼吸不全だった。(60歳没)
なお、岡﨑死刑囚は2007年に仙台拘置支所から東京拘置所に移監されている。
岡﨑死刑囚は、6月20日頃から吐き気やめまいを訴え、検査の結果、23日に細菌が肺に入って生じる誤嚥性肺炎と診断されていた。
その後、拘置所内の病院に入院していたが、容体が悪化し、26日の午前1時39分死亡が確認された。
- 「全員死刑が当然なのに、リーダーの熊谷光輝とその子分の菅原勝治郎の2名は公判を上手にのり切り、無期というのには納得できない」
- 「(拘置所でつらいことは)歯痛と食事が悪いこと」
裁判
- 岩手事件(盛岡市):盛岡市の金融業男性から財産を強奪したうえで殺害
- 福島事件(郡山市):郡山市の塗装業男性から1700万円を奪ったうえで殺害
- 千葉事件(市原市):千葉市の塗装業男性から2000万円を奪って解放
岡﨑茂男被告、迫康裕被告、熊谷昭孝被告の3人は、「殺害に積極的に加わったことはない」と主張するとともに、主犯格をめぐって被告同士の対立があった。
岡﨑被告は「岩手事件は、ほかの被告に責任を転嫁されたものだ。福島事件は、実質的に関与していない」と主張。また、死刑は違憲と主張した。
論告で検察側は、岡﨑、迫、熊谷の3被告に加え、熊谷弟、その部下の菅原の5人に死刑を、元自動車運転手・Iに無期懲役を求刑した。
塗装工 Nは、一審途中で病死したため、被疑者死亡で控訴棄却となった。
また、千葉事件(1991年5月)のみに関与したとされる別の塗装工の男は、略取・誘拐・監禁罪で起訴。1991年9月、千葉地裁で懲役6年を言い渡されて確定した。
3人に死刑、3人に無期懲役
1995年1月27日、第一審判決公判が開かれた。
福島地裁は、死刑を求刑された5被告のうち、岡﨑、迫、熊谷の3被告に死刑を言い渡した。あとの2被告(熊谷弟と菅原)には無期懲役を、元自動車運転手・Iは求刑通りの無期懲役判決となった。
裁判長は「(3被告は)主導的または重要な役割を果たした」、「(3被告の)いずれの力を欠いても被害者2人の殺害は実現しなかった」と説明。無期懲役となった熊谷弟と菅原の2被告には「2人を殺害したが、従属的立場だった」、元自動車運転手Iには「殺害人数が1人で従属的立場だが、無期懲役はやむを得ない」と述べた。
被告人3人に同時に死刑判決が言い渡されたのは、1965年の千葉地裁(強盗殺人罪で3被告に死刑判決)以来だった。
また、裁判長は「死刑は残虐な刑罰に当たり違憲」との弁護側主張は退け、「多人数の集団が広域にわたり、断続的に起こした大規模な凶悪事件」と断じた。
検察側は、無期懲役となった2被告(熊谷弟、菅原)について量刑不当を理由に控訴。死刑となった岡﨑、迫、熊谷の3被告も控訴した。また、元自動車運転手Iも「他被告とのバランスを考えれば有期懲役とすべきだ」と訴えて控訴した。
控訴審・上告審
控訴審でも、「誰が犯行を主導したか」を争点に、「検察と被告間」および「各被告間」で争った。
岡﨑被告と熊谷被告が、「犯行前の謀議」や「犯行中の主導性」について、互いになすり合う形で攻防を展開。迫被告も交え、従属性を主張して減刑を求めた。
弁護側は「絞首刑は、残虐な刑罰を禁止する憲法36条に違反する」と主張し、死刑の是非も焦点となった。
1998年3月17日の控訴審判決公判で、裁判長は「死刑制度は、残虐な刑罰を禁止した憲法36条に違反しない」と判断。「一審判決が重すぎて不当であるとは言えない」として一審判決を支持し、岡﨑・迫・熊谷の3被告に死刑を言い渡した。他の3被告にも一審通り無期懲役を言い渡した。
最高裁で3被告に死刑確定
上告審で弁護側は、「殺害被害者が2人しかいないのに、3人死刑にするのは判例違反」と主張。また、「死刑は基準があいまいで、残虐であり違憲」だと述べた。
2004年6月25日の判決公判で、最高裁は一審・二審判決を支持する判断をした。これにより、岡﨑・迫・熊谷の3被告は死刑確定、熊谷弟・菅原・元自動車運転手 Iの3被告には無期懲役が確定となった。
裁判長は「被害者を誘拐して金を奪い、発覚を防ぐために殺した極めて悪質な犯行。3被告(岡﨑・迫・熊谷)が、今は被害者たちの冥福を祈っていることなどを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。