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山梨キャンプ場殺人事件|雇われたら最後、2度と家には帰れない

阿佐吉広 日本の凶悪事件

山梨キャンプ場殺人事件

2003年夏頃、倒産した「朝日建設」に物騒な噂が出まわるようになる。それは「経営していたキャンプ場に死体が埋まっている」というものだった。
不安になった元従業員が、以前、社長の阿佐吉廣(当時47歳)の指示で、大きな箱のようなものを重機で埋めたことを警察に証言する。この話を「信憑性がある」と判断した警察は、証言通りの場所から3人の遺体を発見した。

阿佐は逮捕され、冤罪を主張するも死刑が確定。被害者を絞殺していた阿佐は、2020年、拘置所内で呼吸が苦しくなる気胸になり、まるで因果応報のように獄中死した。

事件データ

犯人阿佐吉廣(当時47歳)
犯行種別殺人事件
犯行日1997年3月、2000年5月14日
犯行場所山梨県
被害者数3人死亡
判決死刑
2020年2月11日 病死(享年70歳)
動機不祥事の制裁
キーワードタコ部屋、ヤミ手配

事件の経緯

阿佐吉廣は、1994年頃までに山梨県で「麻企画」を設立し、東京や大阪から集めた浮浪者を寮に住まわせ、山梨県内の工事現場に作業員として派遣する人材派遣業を始めた。

人材派遣業というと聞こえはいいが、麻企画のやり方は ”ヤミ手配” というもので、日給8000円で募集しておきながら、寮費・食費などで7000円を違法に天引きし、1日働いても1000円にしかならなかった。

その1000円さえも支払われないことがあり、いくら働いても大阪に帰る交通費さえ貯まらず、近所の民家に助けを求めて逃げ込む作業員が、後を絶たなかったという。
寮も、6畳部屋に4人も詰め込まれる過酷な環境だった。

反抗的な作業員を撲殺

1997年3月頃、雇っていた作業員Aが、寮でナイフを持って暴れる騒ぎを起こした。騒ぎが大きくなれば警察沙汰になり、仕事に支障が出ると考えた社長の阿佐吉廣(当時47歳)は、作業員Aに対して説教を始めたが、Aは反抗的な態度をとった。

そのような態度を許さない阿佐は、作業員Aに対して制裁を加えることにし、木刀で彼の体を多数回にわたり殴り続けた。その後、介抱に当たった従業員Eは、Aの上半身にミミズ腫れの傷が、前面に8本くらい、背中のほうには5本くらいあったのを見ている。

Aは、すぐそばのトイレに行くのにも這っていくような状態だったが、暴行から4、5日後に死亡した。(のちに死因は、肺挫滅による気管支肺炎と判明)

死刑囚 238人最期の言葉

阿佐はAの遺体をブルーシートに密閉して長期間隠匿したほか、他の作業員に対してAの死亡を隠すよう従業員Eとの間で口裏合わせをしている。その後、遺体はプラスチック製収納箱に梱包され、重機で土中に埋められた。

「麻企画」は、1997年11月頃に法人化して「有限会社麻企画」となり、1999年7月には「有限会社朝日建設」に名称を変えた。

当て逃げ事故の制裁

山梨キャンプ場殺人事件
右手の事務所で暴行され、遺体はこの奥の駐車場に埋められた

2000年5月14日、雇っている3人の作業員が、当て逃げ事故を起こす。
3人は、朝日建設が管理する山梨県都留市朝日曽雌の「朝日川キャンプ場」で飲酒後、車で山梨県都留市の寮へと向かった。その途中に酒店に立ち寄った際、酒店の車に衝突させる物損事故を起こしたのだ。

3人はそのまま酒店を立ち去ったが、その後、酒店の経営者から「警察に報告する」と事務所に苦情の電話がかかってきた。このことから、当て逃げ事故は明るみになり、阿佐(当時50歳)の怒りを買うこととなる。

阿佐の怒りは相当なものだった。彼は、作業員の管理を任せていた暴力団組長C暴力団員Dとともに制裁を加えることにした。

彼らは、3人を寮から都留市大幡の朝日建設事務所に呼び出し、「酒を飲んで当て逃げして、会社をつぶす気か!」などと怒鳴りながら、3人に対して殴る蹴るの暴行を加えた。

この時、3人のうち多賀克善(51歳)、横田大作(50歳)の2人は、阿佐に対して反抗的な態度を取り、特に多賀は、「こんなことしやがって覚えていろ」、「仲間を連れて仕返しに来る」と悪態をつき続けた。多賀は事務所を飛び出して寮に戻ったが、追いかけてきたCの腹部付近をナイフで刺してしまう。

標識ロープ

このような態度が、ここでは許されるはずがなかった。阿佐は多賀と横田については、さらなる制裁が必要と考え「朝日川キャンプ場」へ連れて行くことにした。

午後5時頃、標識ロープで多賀の両手足を、ナイロン紐で横田の両手首を縛り、午後6時過ぎ、2人を車に押し込んだ。そして約17km離れた「朝日川キャンプ場」に移動。キャンプ場事務所において、多賀の両手足、横田の両手首に布製粘着テープを巻き付け、再び車に押し込んだ。

午後7時頃、阿佐は多賀の首を標識ロープで強く締め付けて殺害。次に、横田も同じように首を両手で強く締め付けて窒息死させた。

3人目の作業員の処遇

もうひとりの作業員Bに関しては、午後6時頃、標識ロープで両手首を後ろ手に縛り、見張り役が交代で監視して監禁した。そのうち隙をみて脱出したBだったが、路上で見つかってしまい事務所に連れ戻される。
そして阿佐に模造刀を見せられ、「今度逃げたら、これで頭をかち割ったろか!」と脅迫され、両手両足を縛られたうえで午後11時頃まで監禁された。
彼は殺害された2人のような反抗的な態度を取らなかったので、殺されずに済んでいる。

会社は倒産、そして逮捕

山梨キャンプ場殺人事件
遺体を掘り起こす捜査員

2003年6月、作業員寮で4人が重軽傷を負う火災があり、会社は8月に倒産した。そして、経営していた「朝日川キャンプ場」も実質的に閉鎖されている状態になった。

その後、地元では7月頃から「複数の作業員が行方不明になっている」という噂がささやかれるようになった。「キャンプ場に死体が埋められている」というチラシが、近所の民家に投函されたこともあった。

この噂に、不安になったひとりの元従業員がいた。この重機オペレーターをしていた元従業員は、8月になって山梨県警・都留署に出向き、「打ち明けたいことがある」と以下のような証言した。

元従業員の証言

2000年5月頃、阿佐社長からキャンプ場に来るよう指示を受けた。キャンプ場には重機が用意されていて、現場にいた幹部から「穴を2つ掘って、箱のようなものを埋めるよう」指示された。

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県警はこの証言が「具体的で信憑性が高い」とみて、8月6日、元従業員を立ち会わせて捜索を開始。その結果、7日までに証言通りの場所から3人の遺体が見つかった。

9月26日、阿佐元社長は「従業員の交通事故の保険金約100万円」を横領した疑いで、他の従業員2人とともに逮捕された。保険金は約2000万円が支払われたが、阿佐は他の2人に指示し、ほぼ全額を銀行口座から引き出して横領していた。

12月5日、傷害致死容疑で阿佐を再逮捕。2004年1月13日、逮捕監禁容疑で阿佐被告と従業員男性1人を逮捕。2月5日、殺人容疑で阿佐と従業員男性2人を再逮捕した。

阿佐吉廣の生い立ち

阿佐吉廣

阿佐吉廣は、1949年5月21日、徳島県三好郡東祖谷山村で生まれた。
地元の小中学校を卒業後、親元を離れて下宿しながら徳島県内の高校に通学した。

高校卒業後は、音楽の勉強を志して上京、別荘地販売の営業、広告代理店などの仕事を転々とした。その後、知人から会社の手伝いを依頼されて山梨県に移住、土木作業員などの仕事を経て、1994年頃までに、「麻企画」の名称で、東京都内や大阪府内などから集めた浮浪者を寮に住まわせ、山梨県内の工事現場等に派遣する人材派遣業を始めた。

1997年11月頃、阿佐は、麻企画を法人にして「有限会社麻企画」を設立、1999年7月には「有限会社朝日建設」に名称を変えている。

タコ部屋

朝日建設は、日当8000円で作業員を雇い、寮に住ませて工事現場に派遣していた。ところが実態は、作業員の給料から寮費や食費を違法に天引きし、事実上、1日当たり1000円で働かせていたことが、都留労働基準監督署の調査で明らかになっている。
寮も、6畳一間に4人も詰め込まれていた。

日当からは寮費として2500円、寮内のカラオケ付き食堂での飲食費として4500円が天引きされる仕組みだった。さらに、頼みの綱の1000円も支払われないことがあったという。

朝日建設の悪徳振りは、麻企画時代から有名だった。1998~1999年に山谷や渋谷などで麻企画の労働相談が集中し、上野や新宿など東京での手配禁止を通告されていた。
そのため、麻企画は1999年より釜ヶ崎や大阪でのヤミ手配を本格化させている。

阿佐は2度の結婚歴があり、最初の妻との間に2人、2人目の妻との間に4人の子供をもうけている。
本事件後、2人目の妻とは離婚している。

その後、1997年3月と2000年5月に本事件を起こす。

2003年9月26日、従業員の保険金の横領容疑で逮捕されたのを始めに、12月5日に傷害致死容疑、2004年1月13日に逮捕監禁容疑、2月5日、殺人容疑で逮捕され、裁判で死刑が確定東京拘置所に収監され、執行を待つ身となる。

阿佐吉廣死刑囚は、獄中で「冤罪」を訴え続けていた。その様子を取材した内容が、以下の書籍で読むことができる。

絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集

ところが、2020年1月14日に「呼吸が苦しい」と訴え、診察で気胸が判明。東京拘置所内の病棟で治療を受けていたが、2月11日朝に容体が急変、午前8時半頃に死亡が確認された。享年70歳だった。

朝日川キャンプ場跡

朝日川キャンプ場跡
朝日川キャンプ場跡

朝日川キャンプ場跡は、殺人事件があり、遺体が埋められていた場所として”廃墟マニア”や”心霊マニア”には関心の高いスポットである。

元々キャンプ場なので車でも行けるが、狭い山道なので自信のない人は行かない方が無難。行った人の感想では、先入観もあるだろうが、「あまり気持ちのいい場所ではない」そうだ。
(YouTubeに行った人の動画がある)

朝日川キャンプ場跡

35°33’06.7″N 138°59’08.8″E

裁判:一審判決は死刑

阿佐吉廣被告は、逮捕時は関与を認めていたが、公判では一転して無罪を主張している。

阿佐被告は、2人の作業員を殺害した事件について、事務所に監禁したことは認めた。しかし、「キャンプ場で、けがの手当をしろと指示しただけ」「殺害したのは知人の元暴力団組長C(すでに死亡)」と殺人について無罪を主張した。

阿佐被告の長女長女の友人も法廷で「5月14日は、母の日の贈り物を買いに行くために一緒にいた」とアリバイを主張した。これについて検察側は、「買い物をした際の領収書など、客観的な証拠が残っていない。阿佐被告にも確定的な記憶が残っていない」とアリバイの不成立を主張した。

検察側は補充論告で「阿佐被告のアリバイは成立しない。共謀者の供述は重要部分で一致していて、信頼性は極めて高い」と主張。一方で弁護側は「懲罰的な暴行はしたが、死因とつながらない」「検察側証人の証言は二転三転しており、全く信用できない」として、傷害か暴行罪が妥当だと主張した。

阿佐被告は最終陳述で、「私はキャンプ場には行っていない。無実で冤罪です」と訴えた。

2006年10月11日、判決で甲府地裁は、阿佐被告に死刑を言い渡した

裁判長は、阿佐被告のアリバイ主張について「時間的な信用性に大きな疑問がある」と、これを退けた。また、「阿佐被告が殺害した」と証言している共犯者の供述について「具体的で不自然な点はなく、一連の経過が大筋で一致している。阿佐被告は責任を免れようと、関係者に口裏合わせをしようとした」として、首謀者であることを認定した。

そして「殺害の実行を最終的に決定し、実行した中心的立場にあった」「意に添わない者には命をも奪う、人命軽視の態度が甚だしい」と厳しく糾弾した。

控訴審:管理人の証言が一転

2008年2月18日、東京高裁で控訴審初公判が開かれた。

弁護側は、阿佐被告の長女らが証言した「事件当日は、一緒に買い物に行った」というアリバイの成立を主張した。

また、当時のキャンプ場管理人が一審で「犯行時刻に阿佐被告をキャンプ場で見た」と証言したことについて、「証言は嘘で、検事から言わされた」との新たな証言を書面にて提出した。
そして「アリバイ成立は明らか。一審判決は事実誤認」として、一審判決破棄を主張した。

一方、検察側は「アリバイ証言に、客観的な証拠はない」と指摘。「一審判決に事実誤認はなかった」と主張、控訴棄却を求めた。

3月19日の第2回公判で、弁護側は阿佐被告が ”当日キャンプ場にいなかった” ことを証言する元管理人への尋問を申請したが却下された。これを受け、弁護側は「裁判所の対応は、特異で不当」として、裁判官3人の忌避を申し立てたが、「裁判の遅延のみが目的なのは明らか」として却下された。

4月2日の最終弁論で弁護側は、「犯行時刻に阿佐被告を見たというのは嘘だった」とするキャンプ場管理人の話は信頼性が高く、この嘘の供述に基づいた原判決は破たんしている」と主張した。
検察側は「管理人の供述には具体性がなく、不自然極まりない」と反論した。

2008年4月21日、東京高裁は一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却した。

裁判長は、2人殺害についての共犯者の供述の信用性を認め、阿佐被告側の主張を退けた。傷害致死についても「阿佐被告の暴行が、死亡の唯一の原因」と認定。そして「被告にアリバイがあるとする長女らの証言には裏付けがない。殺人への関与を一切否定しようとする被告の供述は到底、信用できない」と述べた。

弁護側は判決前に「元管理人の証人尋問は、事実認定に必要不可欠」として弁論の再開を申請したが、退けられた。

阿佐被告は、身じろぎせずじっと聞き入っていたが、阿佐に不利な元社員らの証言を採用した部分に差しかかると、「嘘ばっかりじゃないか!」と声を荒らげ、退廷を命じられた。

最高裁でも新たな証言が・・・

2011年12月20日の最高裁弁論。弁護側は、共犯者で元暴力団員の男性受刑者D(懲役9年が確定)が「阿佐被告ではなく、病死した元暴力団組長が犯人だ」とする新たな証言を明らかにし、殺人について無罪を主張した。

男性受刑者Dは、一審公判では「阿佐被告が現場に来て、2人を殺害した」と証言していた。弁護側は、「男性受刑者Dには嘘をつくメリットがなく、新証言は信用できる」と主張。阿佐被告には、事件当日のアリバイもあり、無罪は明らかだと訴えた。

検察側は、アリバイには客観的な裏付けがなく、男性受刑者Dらの一審の証言こそが信用できるとして上告棄却を求めた

10月16日の最高裁弁論で最高裁は、弁護側が提出した男性受刑者Dの陳述書2点と、検察側が新たに取り調べた男性受刑者Dの供述調書1点の事実調べを行い、改めて結審した。

2012年12月11日、判決で裁判長は「新供述は、一審証言の信用性を左右しない」として、弁護側主張を退けた。そして「強固な殺意に基づき、残忍な殺害におよんだ。最も重い責任を負うべき」と述べ、阿佐被告側の上告を棄却、死刑が確定した。

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