この記事では「若い男性グループ」による集団リンチ事件をまとめてみました。
リンチ事件自体は全国に無数にありますが、ここで紹介するのは殺人にまで発展した恐ろしいものです。
行き着くとこ(殺す)まで行った理由として「狂人的なリーダーに逆らえなかった」または、「”弱さ”を見せられず、暴行を競い合った」というのを色濃く感じます。そして「後のことを何も考えていない」というのも特徴的で、どの事件もあっという間に捕まっています。
1.栃木リンチ殺人事件
加害者数 | 3人 |
死亡者数 | 1人 |
最高刑 | 無期懲役 |
逮捕日 | 犯行の3日後 |
3人の未成年者が、凄惨なリンチのあげく19歳の青年を殺害したこの事件。事件発覚後にはさまざまな問題点が指摘された。
加害者は萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀の3人で、全員19歳の未成年者。このうちの梅沢が勤務していた日産自動車の同僚を、金づるにしようと拉致・監禁したのが始まりだった。被害者はサラ金で借りた金を取り上げられ、それが無理になると知人や同僚、両親から借金させた。その総額は700万円以上にものぼった。
被害者の拉致は1999年9月29日で、異変に気付いた両親は翌月18日から数回にわたり、栃木県警石橋署に捜査を要請していた。しかし担当官はまともに取り合わず、「事件にならないと動けない」と捜査に着手することはなかった。だが、そうしている間にも被害者は恐ろしいリンチを受け続けていた。
内容は凄惨なもので、殴る蹴るはあたりまえ。それどころか、最高温度にした「熱湯シャワー」を浴びせたり、殺虫スプレーにライターで火をつけ浴びせかける「火炎放射器」など、被害者の身体は火傷の痕で覆われるようになる。そしてその部分が膿んで腐敗し、異臭を放つまでになっていた。
11月30日に両親が石橋署を訪れた際、偶然にも被害者から両親に電話がかかってきた。この時、父親は事の重大さを理解してもらうために、「お父さんの友人に替わる」と言って警察官に電話を渡した。だが、この警察官は「石橋の警察だ」と名乗ってしまい、電話は切れてしまった。
そしてその2日後、被害者は絞殺されて山林に埋められた。犯行グループは警察の関与を知り、殺害を決意したのだ。殺害後「追悼花火大会」と称して花火で遊び、「(当時の時効の)15年逃げ切ろう」と乾杯した3人だったが、逮捕はあっという間だった。
さまざまな問題点が浮上
殺害した山林には、知り合って間もない高校生の仲間も一緒だった。この高校生は殺害行為自体には関与していなかったが、犯行の2日後、警視庁三田署に自首した。
これにより事件は発覚、遺体も発見された。遺体にはその8割に火傷の痕があり、検視官に「絞殺しなくてもいずれは死んだ」と言われるほどひどい状態だった。
そしてマスコミが報道したことで、栃木県警の怠慢も発覚。「捜査してしかるべき案件を放置した」として担当官やその上司ら9人が懲戒処分を受けた。しかし一番重くても「停職14日間」という、思いのほか軽い処分だった。
また、主犯の萩原の父親が栃木県警の警部補だったことにも、世間は驚愕した。これには身内を庇ったのでは?という疑念が取り沙汰された。
その後、梅沢と被害者が勤務していた日産自動車の対応にも批判の目が向けられている。被害者を監禁するようになってしばらく経つと、2人は出勤しなくなっていた。そんな2人に、日産は退職金の出ない「論旨退職処分」を課していたのだ。加害者である梅沢はともかく、なぜ被害者も同じ処分なのか、まったく理解に苦しむ対応だった。
両親が抗議しても日産は態度を変えなかったが、こちらも報道で世間に周知されると、ようやくこの処分を取り消した。会社側からすれば無断欠勤を続けたのは事実だが、その原因を作ったのは自社の社員(梅沢)なのだ。
また、被害者と梅沢の欠勤が目立ち出したころ、日産は2人に事情を聞いていたが、まじめで評価の高い被害者は「嘘をついている」と判断、逆に評判の悪い梅沢の言い分が正しいとする書類を警察に提出していた。梅沢は「みんなで面白おかしく遊んでいるだけだ」と説明していて、これを読んだ石橋署員は、事件性はないという「先入観」を持ってしまった。
2.東大阪大生リンチ殺人事件
加害者数 | 10人 |
死亡者数 | 2人 |
最高刑 | 死刑 |
逮捕日 | 犯行の4日後 |
事の発端は、女性をめぐるトラブルだった。
東大阪大学のサッカーサークルに所属する藤本翔士(21歳)には彼女がいたが、同じサークルの徳満優多(当時21歳)が横恋慕する。これに激怒した藤本が、岩上哲也(21歳)ら仲間数人を引き連れ、徳満と友人の佐藤勇樹(21歳)に暴行をくわえて慰謝料50万円を要求。この時、岩上が暴力団の名前をちらつかせて脅したことから、やられた側は反撃を決意する。
2006年6月19日夜、慰謝料受け渡しの名目で双方は落ち合い、「金は岡山で払う」という言葉を信じ、一同は岡山県に移動。しかし、そこで待ち受けていたのは、反撃のために集まった徳満の仲間7人だった。最初の女性トラブルでは ”加害者” だった側が、ここでは ”被害者” へと立場が逆転する。
この時、被害者側3人に対して加害者側は9人。しかも武器までを準備していた加害者グループに、3人は太刀打ちできるはずもなかった。この計画の首謀者で大阪府立大学3年・広畑智規(当時21歳)、実行犯のリーダー格の無職・小林竜司(当時21歳)が中心となり、3人のうち2人は執拗に暴行されたうえ生き埋めにされてしまう。
残る1人は最初の暴行沙汰への「関与度が低い」として解放されたが、口封じのため無理やり暴行に加担させられ、「口外したら家族を殺す」と脅されていた。
事件はすぐに発覚
6月22日、解放された被害者が、警察に駆け込んだことで事件は発覚する。
犯行グループは話し合った結果、メンバーのうち小林・佐藤、徳満、佐山大志(当時21歳)の4人が自首することに決め、6月24日から25日にかけて警察に出頭した。だが被害者の証言から、犯行メンバーは他にもいることが明らかになっており、8月10日までに加害者10人全員が逮捕となった。
裁判では実行のリーダー格の小林竜司に死刑、主犯の広畑智規は無期懲役が確定した。他のメンバーも懲役7年~18年の実刑判決となっている。
よくある「恋愛トラブル」から凄絶な「集団リンチ殺人事件」に発展してしまったこの事件。殺された2人と関係があったのは、徳満・佐藤の2人だけ(最初の暴行沙汰の被害者)。死刑判決を受けた小林を含め、他の8人は当日まで面識さえなかったのである。
”間違った友情” のため、前途ある若者たちは将来を棒に振ってしまった。
3.大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
加害者数 | 10人 |
死亡者数 | 4人 |
最高刑 | 死刑 |
逮捕日 | 最後の犯行の5日後 |
小林正人(当時19歳)、小森淳(当時19歳)、芳我匡由(当時18歳)の3人は、大阪なんば界隈の暴力団構成員だった。彼らは繁華街で不良っぽい若者から恐喝することを主なシノギにしており、本事件もそんな恐喝事件から始まった。
1994年9月28日午前3時頃、道頓堀で拉致した男性(26歳)を、長時間の暴行のすえ殺害。3人はそのまま小林の地元である愛知県稲沢市に逃亡して身を潜めた。
だがここでも昔からの仲間の1人とトラブルになり、殺人事件を起こす。彼らは被害者にひどい暴行を加えて翌日まで連れ回し、愛知県尾西市の木曽川河川敷で犯行に及んだ。この時は、彼ら3人以外に仲間5人も犯行に加担した。
その後10月7日深夜、彼らは愛知県稲沢市のボウリング場で3人の若い男性グループとトラブルとなる。「自分たちの方を見て笑った」という、ほとんど因縁に近い理由からのトラブルだった。
この事件の犯行グループは6人、もちろん小林・小森・芳我の3人が中心だった。被害者男性3人グループは車で連れ回されたあと、岐阜県安八郡輪之内町の長良川河川敷に連れて来られた。ここで小林ら犯行グループは、3人のうち2人を鉄パイプなどで殴って殺害した。
歯止め役のいない怖さ
翌10月8日早朝、現場付近でトラックの整備をしていた男性が2人の遺体を発見。警察に通報したことから事件は発覚した。
リーダー格の小林は、残る1人を小森と芳我に押し付けていた。2人はこの被害者を大阪に連れ帰ったものの、処遇に困り解放。被害者はすぐに警察に被害を届け、証言により犯人グループが特定される。そして、3人は指名手配された。
10月12日、警察は別件で小森を逮捕、14日には小林が一宮署に出頭した。逃亡していた芳我は1995年1月18日、和歌山市内のラブホテルで女性と一緒のところを取り押さえられた。
その後、警察は犯行グループ全員を逮捕する。その中には遺体の後始末などの指南をした暴力団員(45歳)がいたが、それ以外は20歳前後の若者ばかりで、最年長でも21歳、最年少は16歳の少女だった。
主犯:小林正人(19)、小森淳(19)、芳我匡由(18)
共犯:暴力団員(45)、暴力団員の少年(18)、無職の男1(21)、無職の男2(20)、少年(19)、少女1(18)、少女2(16)※ 10人中、7人が未成年
木曽川事件で少女1(18)が暴行を止めさせようとした以外は、誰も歯止め役がいなかったという。少年たちにとって暴行に加わらないことは ”弱さ” であり、競うように犯行をエスカレートさせていった。
主犯の3人は当初、「未成年だから死刑にならない」と考えていた。しかし、裁判では3人ともに死刑が確定。世間でも賛否はあったものの、どちらかといえば判決を支持する意見が多かった。
現在は、小林が東京拘置所、小森と芳我は名古屋拘置所に収監されている。
4.東尋坊殺人事件
加害者数 | 7人 |
死亡者数 | 1人 |
最高刑 | 無期懲役 |
逮捕日 | 犯行当日 |
2019年9月中旬、被害者の嶋田友輝さん(20歳)と少年A(当時19歳)は知り合い、Aの父方で同居して行動を共にするようになる。天真爛漫で憎めない性格の嶋田さんだが、口が悪い面もあり、相手によってはイラつかせることもあった。
やがて、友情はあっけなく崩れ去る。暴力団関係者や近所のブラジル人とのトラブルを通じ、Aは嶋田さんに強い不満を抱くようになったのだ。ある時、滋賀県内のカラオケ店で、Aはその不満を ”スパーリング” と称した暴行で嶋田さんにぶつけ始めた。
10月8日に始まった ”スパーリング” は、その後も仲間を増やして連日続き、エスカレートしていく。
しかし14日にはAは交際女性に促され、嶋田さんを病院に連れて行く。嶋田さんは肋骨が折れていた。
こうして一旦は止んだ暴行だったが、嶋田さんの取ったある行動がAを激怒させ、再開されることになる。揉めていた暴力団関係者からの電話で、嶋田さんはAの居場所を教えてしまったのだ。
これ以降、暴行は以前とは比べものにならない凄惨なものとなる。Aとその仲間は、嶋田さんに拷問まがいの激しいリンチを始めたのだ。彼らは人目につかない場所まで移動して、嶋田さんに暴行を続けた。
だが17日には、再び嶋田さんに助かるチャンスが訪れる。あまりのひどい暴行を見かねたAの知人が、警察に通報したのだ。しかし警察が駆け付けた時、嶋田さんは車に隔離されていて、警察はそれに気づかなかった。これで、嶋田さんが助かる見込みはなくなった。
嶋田さんを”消す”ことに…
警察が介入したことで、少年Aたちは焦り出した。これまでは単に暴行することだけを考えていたが、今後の嶋田さんの処遇について検討を余儀なくされた。だがこういう場合、リンチする側が被害者を解放することはあまりない。たいていの場合、証拠をすべて ”消滅” させようとするのだ。
そして、それは「被害者の死」を意味していた。
10月18日午後2時頃、滋賀県の多賀サービスエリアを出発した少年たちは、東尋坊に向かうことを決める。東尋坊は福井県有数の景勝地であるが、同時に「自殺の名所」としても有名だった。彼らは自殺に見せかけて、嶋田さんを消すことを考えていた。
連日の暴行により、嶋田さんには抵抗する気力も体力も残っていなかった。東尋坊に着いた犯行グループは、嶋田さんに飛び降りるように強要し、嶋田さんは従うしかなかった。
犯行を終えて多賀サービスエリアに戻った午後10時30分頃、滋賀県警がAらを発見し、逮捕となった。
犯行グループは全部で7人。その中にはひとりだけ成人である上田徳人(当時39歳)がいるが、それ以外の6人は未成年だった。(少年Aは19歳、残りは19歳が2人、17歳が3人)
裁判の結果、主犯の少年Aに懲役19年、上田徳人に懲役10年。その他の少年たちは5年~15年の間で、それぞれ期間は違うが不定期刑が言い渡されている。
5.茨城少年リンチ殺人事件
加害者数 | 4人 |
死亡者数 | 1人 |
捜査状況 | 容疑者不明 |
2000年5月4日午前0時30分頃、藤井大樹さん(当時17歳)と交際女性は、茨城県牛久市中央のスーパーマーケットの駐車場に設置の自動販売機で飲み物を買っていた。すると、そこへ4人組の男が現れ、藤井さんはこの4人組にからまれてしまう。
藤井さんは非常階段に連れ込まれ、暴行を受けた。藤井さんは、彼女が拘束されていたこともあり、抵抗することも出来なかった。4人が暴行に夢中になっている隙をみて、彼女は119番通報。4人組は藤井さんの財布から数千円を奪い、その場から逃げていった。
約30分間も無抵抗で暴行を受けた藤井さんは、意識不明で病院に搬送された。その際、頭部を中心に殴られ続けたせいで、顔が約2倍に膨れ上がっていたという。藤井さんは意識が戻ることなく、9日後に死亡した。
捜査の結果、警察はコンビニの防犯カメラ映像から4人組を特定したが、彼らが未成年の可能性があることから映像の公開は見合わせ、似顔絵のみが報道された。
しかし、有力な情報は集まらず、現在に至るまで容疑者の身元さえわかっていない。そんな状況から、警察は2016年11月に4人組の静止画を公開。さらに翌年には、4人組の動画も公開した。だが、情報公開が遅すぎたせいか、捜査に進展はみられない。
よってたかって1人の青年をなぶり殺しにした4人の男は、今も日本のどこかでのうのうと暮らしているのだ。
- 茨城県竜ケ崎警察署:0297-62-0110
- 茨城県警察本部捜査第一課:029-301-0110
- メールによる情報提供 keikeisou@pref.ibaraki.lg.jp
6.長野・少年リンチ殺人事件
加害者数 | 7人(8人のうち1人は暴行せず) |
死亡者数 | 1人 |
最高刑 | 少年院送致2人、保護観察処分5人 |
逮捕日 | 犯行日~ |
1994年6月、長野県北安曇郡池田町の小学校校庭で、高校3年生の宮田稔之(としゆき)くん(当時17)と弟で高校1年生の宮田透(とおる)くん(当時16)が、16歳~17歳の少年8人に集団暴行を受ける事件が発生した。
犯行グループの少年たちは、たまり場になっていた仲間の家で、主犯格のA(当時16)が、「最近、頭にきてしょうがなねえからケンカでもしてえな。おまえら、最近、むかつくやつはいないか?」と言ったところ、透くんと同じ学校の1年先輩のBが、「そういえば宮田透がムカつく」と言った。
Aは「俺がシメてやる」と言って、透くんに「おい、調子づいているんじゃねえぞ。お前のことはみんながムカついているんだ」と電話した。透くんから電話のことを聞いた兄の稔之くんが、因縁の原因を確かめようとAの自宅に電話をしたが、Aは留守。Bから事情を聞こうとして、透くんにBを呼びだすよう伝えた。
6月28日、学校で透くんがBに「放課後、来てもらえませんか」と話しかけると、Bは透くんの胸ぐらをつかみ、「あいさつはどうした。ムカツクんだよ」と怒鳴った。
同日午後10時、少年たちはビールを飲みながら、宮田家に電話。「アニキじゃねえ、弟を出せ」「バカヤロー」「出てこい」などと代わる代わる脅しをかけ、小学校まで来いと呼びだした。稔之くんは、「2人で来いというなら、お前たちも2人だぞ」と言い、母親にはジュースを買いに行くと言って、透くんと2人で家を出た。
8人グループから集団暴行
だが、小学校に到着すると、相手はAやBを含む8人が待ち構えており、宮田兄弟は殴る蹴るの暴行を受ける。少年らは稔之くんに、「土下座して謝れ」と強要したが、稔之くんは従わなかった。
仮に稔之くんが謝ったとしても、Aだけは許すつもりはなかったようで、「兄貴は謝っても許さねえ」と言いながら暴行していたという。
やがて稔之くんは仰向けに倒れてしまう。彼は鼻血のせいでイビキをかいているような息づかいをしていたが、その後、鼻血が喉に詰まって息がしづらくなった。そのため、弟の透くんが何度か口で鼻血を吸い出した。
その後、少年らは約50分間、虫の息状態の稔之くんを放置したまま、コンクリートに付いた血を洗い落としたり、どこからかみつけてきた布でふき取ったりするなどの隠蔽工作をした。そうしながら口裏を合わせ、一連の作業が済むと救急車を呼んだ。
現場にはAだけが残っていたが、傷害容疑で逮捕された。その後、他の少年7人も関与していたことが判明する。稔之くんは翌日、クモ膜下出血および硬膜下出血で死亡が確認された。
事件は『ケンカによる傷害致死事件』として処理され、家庭裁判所で審判が行われた。 その結果、暴行に加わらなかった1人を除き、2人が少年院送致、5人が保護観察処分となっている。少年法という名のもと、刑事罰は与えられなかった。
稔之くんの両親は民事訴訟を起こし、2000年3月28日、長野地裁は加害者の少年らに約1億500万円の支払いを命じた。裁判長は「稔之くんにも過失があった」とする被告側の主張を退け、「ほとんど一方的な暴行で被害者を死なせた。被告少年らは適切な救命措置をとらず、証拠隠滅工作もした」と指摘した。
その後、加害少年側が7000万円を支払うことで和解している。