「市川一家4人殺害事件」の概要
1992年3月5日、千葉県市川市で一家4人が惨殺される事件が発生した。犯人は当時19歳の未成年だった関光彦。関はフィリピンパブのホステス絡みのトラブルを起こし、暴力団から200万円を要求されていた。強盗でその金を工面することを思いついた関は、前月12日に強姦した15歳少女の自宅に侵入。
家で寝ていた祖母をはじめ、帰宅してくる少女の家族4人を次々と殺害した。父親の事務所に通帳があることを知った関は、深夜にもかかわらず少女に取りに行かせるが、対応した社員が不審に思い、翌朝になって警察に通報。関は駆け付けた警察に、あっけなく逮捕された。
あまりの残忍・冷酷さに、判決は死刑。少年事件に対して死刑が確定したことで、議論を呼んだ事件である。
事件データ
主犯 | 関光彦(当時19歳) 読み:せき てるひこ |
犯行種別 | 強盗殺人事件 |
犯行日 | 1992年3月5日 |
犯行場所 | 千葉県市川市幸2丁目 「行徳南スカイハイツ」C棟 |
殺害者数 | 4人死亡、1人負傷 |
判決 | 死刑:東京拘置所 2017年12月19日執行(44歳没) |
動機 | 暴力団と揉めて200万円要求された |
キーワード | 少年事件 |
事件の経緯
関光彦(当時19歳)は、市川市内のフィリピンパブのホステス・エリザベスと知り合い、1991年10月31日に結婚した。それから約3か月後の1992年1月下旬、妻のエリザベスの妊娠が判明し、彼女は出産のため帰国した。(*姉の病気を心配して帰国したという説もある)
2月6日、エリザベスが勤務する店とは別のフィリピンパブで、関はホステスのレイシャーを店に無断で連れ出し、暴力で支配してアパートに2泊させた。そして、2月8日にレイシャーは泣きながら店に戻ってくる。
これに腹を立てた外国人ホステス斡旋業者らは、関に ”落とし前” として多額の金を払わせることにして、その取り立てを暴力団に依頼した。
その3日後、関は以下の事件を起こしている。
中野事件:被害者24歳女性
2月11日午前4時30分頃、関は高円寺に住むバンド仲間の家からクラウンを運転して帰ろうとしていた。その途中、中野区新井5丁目あたりで帰宅途中のOL女性(当時24歳)を目撃。関は憂さ晴らしに女性を殴ってやろうという衝動に駆られ、道を尋ねるふりをして近づいた。
そしていきなり顔を数回殴り、鼻骨骨折など全治約3か月半の怪我を負わせた。座り込んだ女性を見ると意外に若かったことから強姦しようと考え、髪を掴んで無理やり後部座席に押し込んだ。
午前6時30分頃、女性を自分のアパートに連れ込むと、女性の衣服を剥ぎ取り強姦した。
この時、関は優越感と自信を感じていた。彼は「人間を完全支配すること」に快感を覚えるタイプの人間だった。
その日の夜、ホステスを連れ出した件で暴力団関係者7人がアパートに押しかけてきた。関はクラウンで逃げ出したものの、クラウン後部の窓ガラスを粉々に割られている。
1992年2月12日午前2時頃、24歳女性を強姦してからわずか20時間後のことだった。
車を走らせていた関は、前方に自転車に乗った少女(当時15歳)を見かける。少女は深夜まで勉強していて、シャープペンシルの芯が切れたことから、コンビニで替芯を買って帰る途中だった。
関はわざと車を少女の自転車に接触させた。少女は自転車ごと転倒し、右ひざに擦り傷を負う。車から降りた関は少女に「病院へ連れていく」と声をかけ、浦安市内の救急病院に連れて行って治療を受けさせた。
治療後(午前2時30分過ぎ)、関は少女をクラウンに乗せて自宅に送る途中で突然停車させ、少女に折りたたみナイフを見せつけ、「黙って俺の言うことを聞け」と脅した。この時、ナイフで少女の左頬を切りつけたり、左手の指の間に刃先を差し込むなどの暴行を加え、全治約2週間の怪我を負わせている。
そして少女をアパートに連れ込み、2度にわたって少女を強姦し、両手足をビニール紐で縛った。その後、少女のバッグから現金を抜き取り、生徒手帳を見て住所・名前・保護者名などを知った。
少女を強姦しようとした理由について、判決では「クラウンに乗せて自宅に送る途中、劣情を催した」と認定されているが、精神鑑定を行った福島章氏 は「病院での治療中、長時間待たされたことに腹を立てたため」と述べている。
連日の強姦事件
朝になると、関は母親に用事があったため、少女を置いて外出。少女はその隙に紐を外し、ゴミ箱に捨ててあった生徒手帳を拾うと、関のアパートから逃げ出した。
その日の夜、関はレイシャーの件で住吉会相良興業の組長から呼び出される。指定された六本木の全日空ホテル2階ラウンジに行くと、組長や組員からホステスを連れ出した行為は誘拐であり、「ホステスが在留期限を待たず帰国すれば、店の損害は約200万円」などと遠回しに金を払うよう求められた。
関はそれに応じる約束をしてその場を逃れたが、金策するあてはなかった。
一方、被害に遭った少女は翌13日午後8時頃、家に同級生少女が訪れた際、顔の傷について尋ねられ「ローソンの帰り道、男の人にやられた」と話していた。この時、生徒手帳については何も言わなかったという。
その後、同級生らに警察に届け出るよう説得され、2月の終わり頃に被害届を提出。しかし、犯人は不明で、関は捜査対象に入っていなかった。
関は取り立てを恐れてアパートにも帰れず、車中泊を続けていた。その間、組長からは何の連絡もなかったが、関はこれを「自分の部屋の電話が料金未払いで止められているからだ」と考え、暴力団への恐怖を募らせていった。
関は金を何とかしようとするあまり、車でトラブルになった相手に対する恐喝・暴行事件を2件起こしている。ひとつは2月25日午前5時頃、市川市河原付近の路上で煽ってきた会社員の男性(当時22歳)にケンカをふっかけ、鉄棒で叩きのめした。そして「相場は7~8万円、金曜までに用意しておけ」と、免許証を奪った。(河原事件)
その2日後(2月27日)の午前0時半頃、埼玉県岩槻市東町で突然割り込んできた大学生(当時21歳)の車を追い、追い詰めたあげく助手席に乗り込んで脅している。大学生はナイフで20か所以上(全治6週間)の怪我を負わされたが、隙を見て逃げることができた。(岩槻事件)
少女宅を狙うことを決意
関は200万円についてあれこれ考えた結果、住所や名前のわかっている少女の家に侵入し、金品を盗むことを思いついた。そして、そのための下調べを開始する。
時間を変えて少女宅に電話することで家族の在宅状況を探ったり、2月下旬と3月1日の2度にわたって、少女の住む「行徳南スカイハイツ」C棟に出向いたりした。
1度目に行ったときは、マンション入口などに防犯カメラがあることを確認しただけで帰った。しかしこの時、マンション住民が「クラウンから髪を赤く染めた大柄な男が降りてきて、マンション周辺をうろついている姿」を目撃している。
2度目に訪れた際には、保護者名から部屋の場所を確認してチャイムを押してみたが、誰も出なかったのでそのまま帰った。少女の家族構成や、家人の日常生活のサイクルは把握していなかった。
2度の下見を経て3月5日、関はついに実行を決意する。
当日、関は朝からパチンコやゲームセンターで時間を潰し、午後4時頃にクラウンを運転して少女のマンションへ向かった。マンション近くのタバコ屋の脇に車を停めると、公衆電話から少女の自宅に電話をかけ、誰も出ないことを確認。その後、クラウンをマンション近くの公園脇に移動すると、エントランスの防犯カメラを避けるため、まずは外階段で2階まで上がった。
2階からエレベーターで8階まで上り、少女宅(806号室)に向かった。玄関のチャイムを鳴らしてみたが、応答はなし。試しに玄関ドアを開けてみると、意外にも鍵はかかっていなかった。
このため、家人がいる可能性を考えてすぐにその場を離れ、エレベーター横の階段に座って様子を見たが、約20分経っても反応がなかったため午後4時30分頃、玄関から侵入した。
最初の被害者は祖母
家に入ると玄関近くの洋間からテレビの音が聞こえた。中をのぞいてとみると、部屋には高齢の女性が寝ていた。彼女は少女の祖母(83歳)だった。関は廊下の突き当たりの部屋に入り、現金や預金通帳などを物色したが、見つけることはできなかった。そこで、祖母を脅して現金などを奪うことにして、脚を蹴りつけて起こすと、「通帳を出せ。どこにあるんだ」と脅した。
だが予想に反して祖母は怖がる様子もなく、自分の財布から現金8万円を取り出し「これをやるから帰りなさい」と投げつけ、室外に逃れようとした。関はその態度に腹を立て、祖母の襟首を掴んで通帳を出すよう凄んだが、なおも彼女は応じなかった。
その後、関は尿意を覚えトイレに行った隙に、祖母はリビングに出て電話をかけようとした。関はこれに気づき「何をするつもりだったんだ」とすごんだが、彼女は気丈にも関の顔に唾を吐きかけた。
これに激昂した関は、祖母を頭ごと激しく床に突き倒すと、近くにあった電気コードを引き抜いた。祖母は激しく抵抗したが、大柄でケンカも強い関に敵うはずもなく、電気コードで絞殺されてしまう。
関は潔癖症で、大皿の料理を他人とシェアすることも嫌いなほどだった。そんな彼にとって、高齢女性の唾液はたとえようもないほど汚く感じ、洗面所で頭や顔・首・手を何度も洗い806号室を出た。
この時点では人を殺した実感よりも、むしろ唾を吐きかけてきた少女の祖母への怒りが勝っており、こんな汚いところにはいられない、という嫌悪感が強かった。
このように一旦は部屋を出た関だったが、約30分後、気持ちが落ち着いてくると再び806号室に戻った。関は室内を物色し、祖母の財布の中から現金約10万円を奪ったほか、台所の流し台の下から包丁数本を取り出していた。
少女の家族全員を惨殺
そんな中、午後7時過ぎに少女が母親(36歳)とともに帰宅。関は包丁を手にリビングに身を隠していたが、2人が入ってくると包丁を突きつけて脅した。だが母親は怯むことなく、家に侵入したことを厳しく問い詰めてきた。
母親の予想外の迫力に関は焦り、この母親をなんとかしなければと考え、腰のあたりを包丁で数回刺した。母親は倒れてもがいたが、関が脱いだダウンジャケットに近づくと、彼は血が付くことを嫌がり母親の脇腹を蹴っている。(このあと、母親は失血死した)
しばらくすると、少女の妹(4歳)が保育園の保母に連れられて帰ってきた。関は少女に夕食を作らせ、3人で食事した。
午後9時20分頃。
父親の帰宅は午後11時頃と聞いていたので、関は少女を強姦しようと考え寝室へ連れ込んだ。しかし始めようとした時、チャイムが鳴り父親(41歳)が帰宅してきた。関は気付かれぬように身を潜めていたが、部屋に入ってきた父親の肩をいきなり刺し、父親は崩れ落ちた。
関はヤクザを装い、「おまえの書いた記事で組が迷惑している」と適当なことを言って脅し、200万円を要求した。
少女が生まれてすぐ両親は離婚していて、事件当時の父親は少女が小学6年の時に母親が再婚した相手だった。この父親はカメラマンだったが、フリーライターの母親とともに雑誌出版社「ルック」を経営、行徳駅前に事務所を構えていた。
こうして、関は通帳と印鑑を手に入れたが、父親の事務所にも通帳があることを聞くと、事務所にいる社員に「これから取りに行く」と、少女に電話させた。
午前0時半、関は少女と家を出た。関は1階まで降りたが思い直して部屋に引き返し、まだ息のある父親の背中を刺し、失血死させた。
社員の通報により逮捕
行徳駅前にある事務所には、5分ほどで到着した。
関は車で待機し、少女ひとりが事務所に入り、社員から通帳と印鑑を受け取った。この時、少女は社員に「ヤクザが家に来て、お父さんの記事が悪いと言ってお金を要求している」と説明している。
その後、関は少女を市川市内のラブホテルに連れ込んで強姦。ホテルで数時間寝たあと、午前6時半頃に少女の家に戻ってきた。
少女の家では両親と祖母がすでに死んでいたが、ひとり無事だった4歳の妹が泣いていた。関は泣き声が外に漏れることを懸念して、なんとこの女児にまで手をかける。背中を刺された妹は息絶えてしまった。
少女はこれまで、関を恐れて言いなりになっていたが、この時ばかりは関に食ってかかったという。だが関はそれに逆ギレし、少女の腕や背中を切りつけて黙らせた。
午前7時30分頃、事務所の社員から電話がかかってきた。深夜に少女がひとりで事務所を訪問したことを不審に思ったからだった。電話には少女が出て応対したが、この時も不自然さを感じた社員は、葛南警察署・行徳駅前交番に届け出た。
その後、社員は警察とともに806号室を訪れたが、玄関は施錠されていて呼んでも応答がなかった。そこで、警官が隣の部屋のベランダから伝い、窓から806号室内に踏み込んだ。そこで警察が見たのは目を覆うような惨劇のあと。そして、リビングに呆然と立ち尽くす少女と関の姿だった。
少女の手には包丁が握られていたが、これは関が ”自分が襲われている” と演出するために持たせたものだった。関はとっさに逃走を試みたが、玄関の外で待ち構えていた警官らによって取り押さえられた。
関は「俺はやってない!」と叫んだが、ナイフを所持していたことから銃刀法違反容疑で午前9時半頃に現行犯逮捕。少女は警察によって保護された。
少女も共犯と思われていた
逮捕した当初は、少女にも共犯の疑いがかけられていた。なぜなら、関が虚偽の供述を行ったからである。関は少女とは「以前からの友人で、コンサートにも一緒に行くような仲」だと嘘をつき、少女の家族を殺す動機がないようにふるまっていた。
事件現場に居た理由を、関は「少女から家に来るように言われ、行ってみると4人が殺されていた」と供述し、自身の関与は全面的に否認していた。
さらに少女はショックのあまり、何も話すことができない状態で、関の言い分だけが世間に発表されてしまう形となった。新聞にも「長女と男友達から事情聴取」といった、2人とも容疑者であるかのような記事が出されていた。
しかし、関の供述の裏付けを取った結果、2人の間に友人関係がないことや、少女が完全に被害者であることが判明。そのため、関は強盗殺人容疑で逮捕されることとなった。
社会復帰の準備
逮捕後の関は、自身の置かれている立場を理解していなかった。彼は仲間や先輩が語る悪事の武勇伝を鵜呑みにしていて、未成年である自分は少年院送致となったあと、元の暮らしに戻れると考えていた。
世間を震撼させた少年犯罪である女子高生コンクリート詰め殺人事件(本事件の3年前)が、最高でも懲役20年、名古屋アベック殺人事件(本事件の4年前)の主犯格の少年も無期懲役であったことから、求刑されるまで自分が ”死刑になること” など想定外だったのだ。
死刑というものは「殺人で裁かれておきながら、懲りずにまた人を殺すような、どうしようもない連中の受ける刑罰」と考えていた。また、「少年院どころか、一度も留置場へも入ったことがない(未成年の)自分が、いくら殺人という大罪を犯したとはいえ、一発で社会復帰や更生の機会すらあたえられないはずはない」と思っていた。
そのため、少年院を出たあとは「資格のひとつも持ったほうがいい」と考え、面会に訪れた母親に頼んで、高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書などを差し入れさせていた。
取り調べに当たった刑事によると、関は三度のメシを腹一杯食い、夜は大いびきをかいて熟睡していたという。そして、「あんな殺人犯は見たことがない」「人間じゃない」とあきれられている。
関光彦の生い立ち
犯人の関光彦は1973年(昭和48年)1月30日生まれ。現在の千葉市稲毛区の婦人科で出生したが、本籍は東京都江戸川区である。家族は両親と5歳年下の弟。
母方の祖父は、市川市でウナギの加工・販売などを行う株式会社「関昇商店」を経営しており、一代で10店舗のうなぎ屋を構えるほどのやり手だった。
両親は区役所のダンス教室で知り合った。母親が24歳、サラリーマンの父親は25歳だった。2人は親の反対を押し切って駆け落ち同然で結婚する。そして1973年1月に長男として関光彦が生まれ、5年後に弟が誕生している。
祖父は娘(関の母親)の結婚には反対だった。関の父親と初めて会った時、「人相も悪く、真面目に働くような人間に見えなかった」からだという。この時点で、父親の人間性を見抜いていたのだ。
家族は松戸市内の公団住宅に住み、関に英会話やスイミングスクールに通わせるなど、暮らしぶりは安定していた。しかし、父親は徐々に本性を現していく。仕事よりギャンブル・酒・女という生活になり、妻にも暴力を振るうようになっていった。
1979年4月、松戸市立和名ケ谷小学校に入学。小学2年生の時に東京都江東区越中島の公団マンションに引っ越し、江東区立越中島小学校に転校した。
このマンションはいわゆる高所得者で占められていて、有名芸能人も住んでいた。ここに住めるのは祖父の援助のおかげだった。父親は会社を辞めて、祖父のうなぎ屋を1軒任されるようになっていたが、高級外車を乗り回し、相変わらず仕事より遊びを優先していた。店の売り上げも、当然落ちる一方だった。
父親の暴力は、関にも向けられていた。猛烈なDVに晒された関は、全身に生傷が絶えず大好きなスイミングに行けないこともあった。週末になると、着替えと勉強道具を持って市川市の祖父の家に電車で通い、泊まり込んでいた。祖父のことは「お金持ちで、頼りになる働き者」として尊敬していた。
やがて父親がサラ金に億単位の借金を作るようになると家庭は崩壊し、関が小学4年のとき両親は離婚。借金は祖父が清算したが、これで祖父自身も無一文同然になってしまう。そして、このことがきっかけで、祖父からは今後の関わりを拒否されてしまった。
1983年1月、小学4年の3学期からは東京都葛飾区立石に引っ越し、葛飾区立清和小学校に通学するようになった。母親は朝から晩まで働き詰めだったが、親子は極貧生活を余儀なくされ、そのせいで関はイジメの標的にもなっている。彼は小遣い銭欲しさに浅草をうろつき、かっぱらい、置き引き、賽銭泥棒をくり返した。
大好きだった祖父が自分たちを見捨てたことが、関にはショックだった。祖父と母親は数年後には和解するが、関は祖父のことを事件後もずっと恨んでいた。
次第に暴力的に
1985年4月、葛飾区立立石中学校に入学。体も大きくなり、自分がケンカが強いことに気付く。関は悪い仲間とつるんでケンカ、恐喝、窃盗をくり返した。家でも母親や弟に暴力を振るうようになった。
一方、離婚したはずの両親は関係を修復させ、父親が家を訪れたり一緒に外食するようになった。だが、関自身は父親を嫌っており、そんな父親と付き合う母親にも批判的な感情を持っていた。
関は少年野球で活躍していたこともあり、野球の強豪校への進学を希望するも受験に失敗。結局、1988年4月から東京都中野区の堀越高校に入学した。高校ではクラス委員を努めるなど成績も上位だったが、相変わらずケンカに明け暮れ、家庭内暴力も悪化していた。
やがて学校や部活動への不満から不良仲間と盛り場を徘徊し、登校しないことが多くなった。また、刃物を持ち歩いたり、酒やタバコを常用するようになって、ついには他校生に乱暴して停学処分を受けたことを契機に、1989年5月31日付で高校を退学した。
関には中学時代から交際していた少女がいたが、少女の父親の猛反対で別れさせられている。これに激怒した関は、ナイフを持って少女の父親を脅し、軽犯罪法違反の罪で家庭裁判所へ書類送検された。
その後、レンタルビデオ店や運送会社などでアルバイトをした後、昼間は祖父のうなぎ屋「関昇商店」の仕事を、夜は水商売の仕事するようになった。職場の人間関係や客への対応はきちんとしていたが、出勤時間などの勤怠は極めてルーズだった。
祖父は関に対し、数万円の小遣いや遊興費を与えたりしていた。また、関が起こした悪事に対して被害者に謝罪したり、示談金を払ったりもしている。将来を心配した祖父が「このままだと父親のようになる」と忠告するも、関は聞く耳を持たなかった。
このころ「関昇商店」の金がなくなる事件が続き、祖父は関を疑った。このことに関は逆ギレし、1990年1月17日午後10時頃、就寝中の祖父の顔面を蹴り、水晶体脱臼・硝子体出血などの怪我を負わせる事件を起こした。
当時、「関昇商店」では金がなくなることが頻発していた。実際、関もよく売上金を掠めていたが、すべてが彼の仕業かといえばそうとも言い切れないと、のちに祖父が話している。
関の悪影響か、従業員の中にも金を盗む人間がいたようなのだ。
極貧生活の少年時代、拾ったラジオで聴いたジミ・ヘンドリックスにはまって以来、関は音楽が好きになっていた。彼はギタースクールに通い、バンド活動をする中でハルシオンやLSDなどの薬物を乱用するようになった。
1990年9月、オートバイ事故で肋骨8本を骨折。治療で怠け癖がつき、「関昇商店」を休みがちになる。1991年3月には運転免許を取得し、クラウンロイヤルサルーンをローンで購入して乗り回すようになった。
同年6月頃、本中山のアパートで一人暮らしを始めている。
オートバイ・自動車の購入、アパートの入居費用・家賃などは、すべて祖父や母親の援助によるものである。
一人暮らしするようになって以降、3人の女性と同棲生活をしたが、いずれも短期間で相手に去られている。当時の関は、近隣住民とよく揉め事を起こし、暴力団の名前を出して相手を威嚇したり、クラウンには常にバットやナイフなどを置いていた。
フィリピン人女性と結婚
1991年7月、祖父の会社の従業員に連れられて行った市川市のフィリピンパブで、関はひとりの女性と出会う。フィリピンの首都マニラ出身の彼女は、名前をエリザベス・グローリー・ペドロといった。店ではトップを争う人気ホステスだった。
エリザベスは1970年(昭和45年)10月29日生まれで、知り合った当時は20歳。身長155cm、体重43kgのスレンダーな美人で、両親が中国系ということで、見た目は日本人と見分けがつかなかった。
当時は ”ジャパゆきさん” といって、貨幣価値の高い日本でホステスをする出稼ぎが流行していて、エリザベスも大学を辞めて来日してきていた。
永瀬隼介氏の取材に関が語ったところによると、結婚に至ったのは「エリザベスからの強いアプローチがあったため」とのこと。エリザベスの気持ちに応えるうちに、関自身も本気になり、結婚を決めたという。
エリザベスが結婚を迫ったのは、「永住権が欲しかったからでは?」という意見が多いです。
「日本人と結婚して3年以上」かつ「日本で暮らして1年以上」で永住ビザ申請ができるそうです。
1991年10月、結婚のため2人はフィリピンに渡るが、エリザベスがひと足先に就労ビザ期限の10月9日に帰国した。その後、関もフィリピンに向かうのだが、その直前、関は車の走行中のトラブルから、傷害事件を起こしている。
関の両親は結婚には猛反対だったが、エリザベスの両親や親族からは大歓迎された。エリザベスはマニラでもスラム街の出身で、実家は見るからに貧しい地域だったが、2人であいさつに訪れた時にはあたたかく迎えてくれた。
こうして1991年10月31日に正式に結婚して、2人は夫婦となった。関が19歳、エリザベスは21歳になっていた。しかし、その後夫婦が日本で一緒に暮らしたのはわずか3か月ほど。1992年1月下旬、エリザベスが妊娠して出産のために帰国したのである。(*姉の病気を心配して帰国したという説もある)
エリザベスの帰国後にも関はフィリピンに渡航しているが、その費用は祖父宅の窓ガラスを割って侵入して奪った現金(110万円)だった。
エリザベスが帰国した翌月6日、関はエリザベスとは別のフィリピンパブで、ホステスのレイシャーを店に無断で自宅アパートに2泊させる。関はレイシャーに暴力を振るったようで、レイシャーは2月8日に泣きながら店に戻った。これが問題となり、事件の引き金となる。
”落とし前”として暴力団から200万円を要求された関は、3月5日、その金を工面するために本事件を起こした。翌日には逮捕され、2001年12月3日に最高裁で死刑が確定。そして2017年12月19日、収監されていた東京拘置所にて死刑が執行された。(44歳没)
事件発生から25年、死刑確定から16年が経っていた。
逮捕時、178cm・80kgの体型は、死刑執行時には120kgまで増えていた。これは弁護人・安田好弘の助言に従って、計画的に肥満化させた結果だという。これだけの巨体なら、設備的に絞首刑は不可能だろうと考えてのことだったが、まったく無駄な努力だった。
妻・エリザベスのその後
本事件は、エリザベスが帰国してからわずか1ヶ月余りで起きている。
そして逮捕から死刑執行まで、エリザベスは一度も関の面会に訪れていない。それどころか、連絡さえなかった。それが気になった永瀬氏は、エリザベスのその後を調査している。
関は詳しい住所を知らなかったが、彼の記憶を頼りに永瀬氏が調査した結果、マニラの貧困地区トンドにあるエリザベスの実家の場所が判明した。永瀬氏は現地に赴き、親族たちにインタビューを試みている。(訪れた時期は、事件から約8年後の2000年1月)
- エリザベスは妊娠なんかしてなかった
- 「日本で幸せか?」との問いに「幸せじゃない」と答えた
- 「暴力や外出禁止は日常茶飯事」と言っていた
- 今は日本に居るが「二度と結婚はしたくない、日本の男はイヤ」と話している
- 関はエリザベスにひどい暴力を振るっていた、ひどい怪我を見たことがある
- エリザベスが幼なじみの男と話していたら、すごい剣幕で怒鳴った
- 日本では部屋から出してもらえないこともあった、と聞いている
- パーティーの最中、関は警官を殴って大騒ぎになった
日本にいるエリザベスの姉の連絡先がわかったので、永瀬は日本に帰国後電話している。姉の代理人という男と話ができたが、妊娠の件を尋ねると「妊娠していたが、流産した」とのこと。それ以上のことは高額な謝礼金を要求してきたため、聞けなかったという。
被害者一家について
被害に遭った少女は、当時高校1年生で15歳だった。彼女は、家族の中でひとりだけ生き残った。
殺害されたのは少女の家族全員、両親、妹、祖母の4人である。
- 少女(15歳):1976年(昭和51年)3月19日生まれ、千葉県船橋市内の県立高校1年生
- 母親・柳沢照夜さん(36歳):1955年(昭和30年)6月19日生まれ。熊本県八代市出身。フリーライター、夫婦で雑誌出版社を経営(代表取締役)
- 父親・柳沢功二さん(41歳):1950年(昭和25年)8月10日生まれ、フリーのカメラマン、夫婦で雑誌出版社を経営
- 妹・柳沢宇海さん(4歳):1987年(昭和62年)3月17日生まれ。市川市内の保育園の園児、少女とは異父姉妹(殺害された父親の実子)
- 祖母・柳沢順子さん(83歳):1908年(明治41年)7月4日生まれ。父親の実母
少女が生まれてすぐに両親は離婚していて、事件で殺害された父親(柳沢功二さん)は再婚相手である。
母親は離婚後、様々な職を経てフリーのライターとして独立していた。新しい父親はカメラマンをしていて、2人は仕事を通じて知り合っている。少女が小学5年の時に交際を始め、翌年結婚した。
結婚して半年後に妹が誕生。その後、夫婦で行徳駅前(千葉県市川市)に事務所を構えて雑誌出版社を経営、社員も数人雇うほど順調に仕事をこなしていた。
父親は、ロス疑惑(1981年~1982年)の三浦知義のスクープで一躍名を知られるようになった。三浦が参加したスワッピングパーティーに潜入し、三浦夫婦の全裸写真の撮影に成功。それが雑誌に掲載され、話題となった。
この事務所から車で5分ほどの場所にあるマンションに、一家は暮らしていた。両親と娘2人に加え、父方の祖母も一緒に生活していた。
そして1992年3月5日、少女以外の家族4人は殺害されてしまった。
事件後、父親と祖母の遺骨は秋田県鹿角郡(現:鹿角市)の仁叟寺に安置された。母親と妹の遺骨も同所に分骨安置されたが、2人の墓は母親の故郷である熊本県八代市の本成寺に建てられた。
少女のその後
ひとりだけ殺害を免れた少女は、両親の知人のもとで1年を過ごしたあと、母方の実家(熊本県)に引き取られた。最初の父親が引き取ると言い出したが、昔から仕事の続かない優柔不断な性格のため、経済的な問題からもこれは実現しなかった。
少女は1994年3月に高校を卒業後、熊本を離れ美術系の大学に進んでいる。第一審判決で関に死刑が言い渡された1994年8月時点では、関西で一人暮らしをしていた。
2000年に大学を卒業したあとは、交際していた男性と2004年に結婚し(当時28歳)、両親の夢でもあったヨーロッパに移住したという。両親は取材で訪れたベルギーに憧れ、将来はベルギーを拠点にヨーロッパ全土を回って夫婦で記事を発表したいと考えていた。
助けを求めなかった理由
少女は事件の最中、単独で外部の人間と接触する機会が2度あった。1度目は4歳の妹が保母に連れられて保育園から帰ってきた時、2度目は両親の会社の事務所「ルック」に預金通帳を取りに行った時である。
しかし、彼女は助けを求めていない。その理由について警察は、「目の前で両親を殺されたショックと恐怖で、茫然自失状態に近かった」と推測する。また当初、祖母の死を見ておらず(戸が閉められた室内で死んでいた)、妹に危害がおよぶことを恐れていたためであると説明している。
精神科医の平井富雄氏は、「極端な異常事態に置かれて自律神経が“喪失”し、相手の言いなりになってしまうことはあり得る」と考察している。
裁判
千葉地検は3月26日から約半年間にわたって鑑定留置し、筑波大学教授の小田晋による精神鑑定を実施。その結果は、「正常な知能を有する反社会性人格障害の診断基準にほぼ合致する精神病質者であるが、犯行当時から現在まで、心神喪失や心神耗弱の状態ではなかった」という所見を示した。
1992年12月25日に千葉地裁で第一審の初公判が開かれた。罪状認否で関光彦被告は起訴事実を認めたが、殺意などに関して争っている。
第2回公判(1993年3月3日)では、2月に追起訴された3つの事件について罪状認否が行われ、関被告はほぼ起訴事実を認めた。
- 中野事件:1992年2月11日午前4時30分頃、東京都中野区を歩いていた24歳女性をいきなり殴りつけ、部屋に連れ込んで強姦した事件
- 河原事件:1992年2月25日午前5時頃、車のトラブルから相手の運転手・22歳男性を鉄棒で叩きのめし、7~8万円用意するように脅して免許証を奪った事件
- 岩槻事件:1992年2月27日午前0時半頃、運転中いきなり割り込まれたことに腹を立て、運転していた21歳大学生にナイフで全治6週間の怪我を負わせた事件
第3回公判では弁護側は方針を一変させ、再度の精神鑑定を要求。裁判長はこれを認める決定をした。このため、第4回公判は約半年後の11月22日となり、上智大学心理学科教授・福島章氏による「福島鑑定」の結果が提出されている。
福島鑑定は、責任能力について「精神病の兆候はなく、刑事責任は問える」とした。これは、起訴前に実施された小田鑑定と同じである。
違うのは、関被告の鑑定当時の精神状態を「爆発性精神病質者、または、類てんかん病質者」と位置づけた点。ただし、自己の行為の「善悪を理解する能力」には障害がなかったとした。しかし、その認識に従って「自己の行為を制御する能力」はかなり低下していたと述べた。
また、母親が関被告を妊娠していた間、流産予防のために約2か月間、黄体ホルモン(ヒドロキシプロゲステロン)を使用していた点に注目し、「胎児期の大量の黄体ホルモン投与により、関被告の脳が過剰に男性化された特質(攻撃性)を持つようになった可能性」を指摘した。(ただし、これを立証する証拠は提出されていない)
1994年4月4日に論告求刑公判が開かれ、検察側は死刑を求刑した。少年に対する死刑求刑は、1989年1月、名古屋地裁で名古屋アベック殺人事件の主犯格になされて以来、約5年ぶりだった。
検察側は、妹をのぞく3人の殺害について「強盗殺人罪が成立する」と主張。2度の精神鑑定の結果を踏まえ、「完全な責任能力があった」と述べた。
動機は自己中心的であり、下見をするなど計画的だった点や、犯行が残忍・冷酷であることから、「到底許すことができないもの」、「情状酌量の余地は皆無で、刑事責任は極めて重大」、「ひとり生き残った少女の処罰感情が峻烈」である点を強調した。
「私から大事なものを全部奪った男が憎くて憎くてたまりません。はっきり言って男については、この手で殺してやりたい、生きていて欲しくないという気持ちです」
「犯人にこの父や母、妹の写真を見せて『こんなに優しかったお母さん、お父さん、可愛い妹を何故殺した。私のお母さんを返せ、お父さんを返せ、〇ちゃん(妹)を返せ、おばあちゃんを返せ。あんたは人間じゃない。(略)犯人を必ず死刑にして下さい」
「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。他の人が手に包丁を持っているのを見るだけで、事件のことを思い出して恐怖を感じるし、夜一人で出かけたりしなくなった」
「私の家族4人を殺した人が、生きていて何かできるのは嫌だし、そういうのは許せないし、悔しい」
さらに、関被告が本事件以前にも多数の犯行におよんでおり、粗暴性・犯罪性が極めて強く、矯正の余地がない点や、真摯に反省・悔悟しているとは到底認められないことも挙げた。
4月27日、弁護側は最終弁論の前に新たに証拠調べを申請、千葉地裁はこれを認めた。弁護側は小田鑑定の信憑性を否定したほか、”死刑制度のあり方を問う社会的な流れ” があると主張した。
そして6月1日、弁護側による追加立証と最終弁論が行われ、第一審は結審。最終弁論では、被害者(少女)側にも落ち度があったことを、以下のように主張した。
- 事件の発端となった「自転車事故」は、少女が安全確認をせず道路を横断したことで、関被告が避け切れずに起きた。
- 事務所に通帳を取りに行った際に、その気になれば関被告を警察に通報できたのにしなかった。応対した社員に事件を報告していれば、少なくとも妹を死なせずに済んだ。両親の命も救うことができたかもしれない。
死刑判決
1994年8月8日に判決公判が開かれ、千葉地裁は関被告に死刑を言い渡した。
(事件当時)少年に対する死刑判決は、1989年6月、名古屋地裁が名古屋アベック殺人事件の主犯格に宣告して以来、約5年ぶりだった。
千葉地裁は、以下のような理由から4人全員に対し殺意があったことを認定した。
- 祖母が死亡するまで、執拗に首を絞め続けた
- 刺された母親の血が、関被告の服に付きそうになって母親を蹴とばした
- 瀕死状態の父親を、再び刺して殺害した
- 妹を刺した際、少女にとどめを刺すよう命令した
そのうえで、妹殺害に関しては「すでに強盗行為は終わっていた」という弁護人の主張を認めて”殺人罪”に、他の3人については”強盗殺人罪”を適用した。
責任能力に関しては、起訴前後に行われた2度の精神鑑定から、「犯行時、行動制御能力を有していた。心神喪失状態や心神耗弱状態ではなかった」という結論を示していたことを指摘した。
また、福島鑑定が「尿酸血中濃度や胎児期に投与された黄体ホルモンが、関被告の攻撃的な性格の形成に影響した可能性がある」と指摘した点については、これを否定した。(血中のテストステロン濃度は、正常値よりむしろ低かった)
そして、過去の行動から「関被告の攻撃性は、それなりに意思にコントロールされているように思われる。弁護側の主張するような生来的、器質的欠陥から生まれながらにして『善悪を理解する能力』に障害があったとは到底考え難い」と指摘。関被告は事件当時、完全責任能力があったと認定した。
また、本事件前の数々の暴力的犯罪や、金欲しさから少女の目の前で家族4人を次々と惨殺し、その合間に「気分転換」と称して少女を強姦したこと、そして逮捕前後には少女に罪をなすりつけようとしたことなどを指摘し、「冷酷非道この上ない所業は、とても人間のすることとは思われない」と犯行態様を非難した。
死刑確定…そして執行
1996年7月2日、東京高裁にて控訴棄却となり、さらに2001年12月3日に最高裁でも上告が棄却されたことにより、関被告の死刑が確定となった。
この時点で、新聞各紙は関光彦の実名を報道することはなかった。しかし、新潮社の「週刊新潮」と「FOCUS」は、実名を報道した。さらに「週刊新潮」は、関の中学卒業時の顔写真や、当時住んでいたアパートの写真を掲載、「FOCUS」はフードを被されて送検される関の写真を掲載した。
実名報道は「少年法に対する問題提起」という理由だったが、東京弁護士会は「人権を損なう行為」であると、要望書を新潮社に郵送した。
その後、東京拘置所にて2017年12月19日に関の死刑が執行された。享年44歳、事件発生から25年、死刑確定から16年が経っていた。関は再審請求中だった。
少年(犯行当時)が起こした事件に対して死刑が執行されるのは、永山則夫連続射殺事件以来、20年ぶりだった。
この日は、1994年に群馬県安中市で起きた安中親子3人殺人事件の松井喜代司死刑囚も死刑が執行されている。
控訴審でも死刑判決が出ると、関は死刑は免れないと感じるようになり、確定すれば「いつやってくるかわからない”死”を、獄中で待ち続けなければならない恐怖」を口にするようになった。
実際、1999年12月17日に死刑囚2人(ひとりは関と同じ東京拘置所)の刑が執行された時は、作家の永瀬隼介との面会時に「眠れない」「この先も正気を保てるか自信がない」と明かすほど動揺しており、その日からしばらくは手紙を送ってこなくなった。
関はかなり前から、刑場に連行される際に目立たない一番端の房に収監されていた。死刑執行当日の朝、2人の刑務官から面会か何かという名目で呼び出され、ごく普通に連れ出されていった。
執行にあたり、法務省は関の実名を公表。新聞各紙もそれぞれ実名報道した。それまで匿名報道を続けていた毎日・中日・東京の各紙も、「匿名報道の根拠である、更生や社会復帰の可能性が失われた」ことや、「(死刑の)対象者が誰なのかを明らかにすべき」との判断から、実名報道に切り替えている。