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熊本大学生誘拐殺人事件|死刑判決を受け、上告中に脱獄騒ぎ

田本竜也/熊本大学生誘拐殺人事件 日本の凶悪事件

「熊本大学生誘拐殺人事件」の概要

1987年9月14日、熊本県玉名市の小岱山の公園で、資産家の息子がなぶり殺しにされる事件が発生した。犯人は男性4人グループで、主犯は被害者の小学校時代の同級生である田本竜也(当時21歳)だった。
彼らの目的は「金」。殺害したにもかかわらず、犯行グループは身代金として5000万円を要求する電話を父親にかけた。だが、彼らは受け取ることなく逮捕となり、主犯の田本には死刑判決が言い渡される。そして最高裁へ上告中の1996年12月21日、田本は福岡拘置所からの脱獄騒動を起こした。

事件データ

主犯田本竜也(当時21歳)判決:死刑
2002年9月18日執行(36歳没)
共犯1坂井正則(当時35歳)
判決:無期懲役
共犯2結城忍(当時20歳)
判決:懲役20年
共犯3坂本聖也(当時20歳)
判決:懲役18年
犯行種別誘拐殺人事件
事件発生日1987年9月14日
犯行場所熊本県玉名市
被害者数1人死亡
動機金銭目的
キーワード脱獄

事件の経緯

熊本県玉名市の田本竜也(当時21)は、坂井正則(当時35無職)、坂本聖也(当時20)、結城忍(当時20)と共謀して、ある男性を身代金目的で誘拐する計画を立てた。当時、彼ら4人は全員が無職だった。

田本と結城は少年院時代からの知り合いで、結城は東京を本拠地とする暴力団を、少し前に破門されていた。その結城がまだ暴力団員だった頃、坂井と知り合った。坂井は夏頃から田本の実家に身を寄せていた。

そして誘拐のターゲットは、田本の小学校時代の同級生、上田創昭(のりあき)さん(当時21歳)。上田さんの実家は、熊本県玉名市で不動産やパチンコ店を営む資産家だった。また、上田さんと坂本は、高校の同級生だった。

上田さんは酒が入ると人が変わり、「ヤクザなんて金でどうにでもなるんだからな」と、大声で話すことがあったという。親が暴力団員の田本が、これを聞いて腹を立てたのでは?と言われている。

1987年9月14日夜、大学生の上田さんは太宰府から父親に借りた車で帰省中で、車には交際中の女性(当時21)を乗せていた。この女性もまた、田本と小学校時代の同級生だった。玉名市内を走行していた上田さんの車を、田本ら4人はレンタカーで尾行していた。すると上田さんは午後9時半頃、玉名市郊外にある小岱山の公園内に車を停めた。

そこに田本らが現れ、言葉巧みに上田さんを小岱山の廃材捨て場に連れ出した。上田さんはいきなり一升瓶で頭部を殴られ転倒、そこを頭をめがけてコンクリートブロック片を次々と投げつけた。上田さんは「タモッチ、助けてくれ」と命乞いするも、田本はそれを無視した。

やがて息絶えた上田さんを4人は近くの斜面から突き落とし、板くずや木の枝を上から投げて、遺体に被せて逃げた。

交際女性もボロボロに…

その後、田本ら4人は女性に「(上田さんと)佐賀で待ち合わせる」と偽り、レンタカーと上田さんの車で連れ回した。彼らは佐賀県内や福岡県久留米市内のモーテルなどに泊まり、女性を強姦した。

17日午後3時10分頃、4人は上田さんの父親の会社に身代金5000万円を要求。福岡県久留米市内の喫茶店を受け渡し場所に指定したが、受け取りには誰も現れなかった。

熊本県警捜査本部は上田さんが運転していた車を手配し、足取りや交友関係を捜査した結果、田本ら4人の名前が浮上する。

その後、田本ら4人は女性を連れて東京まで逃走したが、25日午後0時半頃、横浜市内で女性を解放。女性からの電話で、捜査員と家族が午後8時頃、JR博多駅内で女性を保護した。女性の膣壁は裂傷、子宮頸管部はただれて破裂していた。さらに性病に罹患し、腹膜炎を併発するというひどい状態だった。

捜査本部と玉名署は25日、不法監禁容疑で4人を指名手配した。26日朝、結城が東京都新宿区内で逮捕。同日午後9時頃には、坂井も東京都内で逮捕された。坂井の供述により、26日夜、八王子市内で上田さんの車が、27日夕方、上田さんの遺体が発見された。

28日午後3時過ぎ、坂本は警視庁に出頭、逮捕された。30日午前、田本は渋谷区内で逮捕された。

田本竜也が残した言葉

田本竜也/熊本大学生誘拐殺人事件

1998年4月23日、田本竜也は最高裁で死刑が確定。その後、2002年9月18日に田本の死刑が執行された。(36歳没)この日は「岐阜一家3人殺人事件」の浜田美輝死刑囚も死刑執行されている。

田本は生前、こんな言葉を残している。
犯罪者って別に違う世界から来た人間じゃなくて、皆の回りで生まれた普通の人間ですからね

田本竜也が脱獄騒動

福岡拘置所
福岡拘置所

田本竜也は、上告中の1996年12月21日夜、収容されていた福岡拘置所から脱走を企てた。

この脱走計画の協力をしたのは福岡拘置所の看守S(当時35)で、拘置中の田本と仲良くなり、金切りのこ・現金3000円・腕時計を渡していた。田本は金切りのこで独房の鉄格子を切断しようと試みていたが、鉄格子の1本はすでに切断、別の1本もほとんど切れかかっていた。たが午後10時頃、巡回中の看守に発見されて未遂に終わった。

この騒動の調査中である1997年2月21日午後2時前、福岡拘置所所長(当時57)が所長室で左胸をハサミで数ヶ所刺して自殺を図ったが、職員が発見して福岡市内の病院に運ばれた。所長は命に別状はなかったが、入院した日の午後5時前、付き添いの家族が病室を離れた隙に窓から飛び降りて自殺した。

3月4日夜、福岡地検は逃走援助未遂の疑いで看守Sを逮捕。3月14日付けでSは懲戒免職となった。3月25日、福岡地検は看守逃走援助未遂罪でSを起訴。荷重逃走未遂容疑で書類送検された田本は起訴猶予処分となった。

法務省は7月14日付で、監督責任のある福岡拘置所・処遇部長を訓告、首席矯正処遇官を戒告とした。また事件当時、監督当直だった看守長看守部長を1ヶ月の減給(100分の1~3)、戒告1人、訓告3人、厳重注意3人、注意1人と、処分された人数は12人にのぼった。

Sは公判で起訴事実を認め、「拘置所組織への不満」や「上司への不信感」があったことを明らかにした。7月16日、Sは福岡地裁で懲役2年6ヶ月(求刑懲役3年)の実刑判決を受けたが、控訴せず確定した。

裁判

公判では、田本竜也被告を除く3被告(坂井正則被告、結城忍被告、坂本聖也被告)が、「主犯は田本」と主張したが、田本被告は「指示はしていない」と否定していた。

1988年3月30日の判決で、熊本地裁は田本被告について「自ら計画を立案、終始主導的役割を果たしており責任は重大」として求刑通り死刑を言い渡した。

被告一審判決求刑
田本竜也死刑(控訴)(死刑)
坂井正則無期懲役(控訴)(無期懲役)
結城忍懲役20年確定(無期懲役)
坂本聖也懲役18年確定(無期懲役)

判決理由で裁判長は「犯行は田本被告が地理に詳しい場所、さらに面識のある被害者(上田さん)を選んで行われている。殺害時、他の3被告が一時犯行を中断しようとしても自らとどめを刺そうとしていることなどを考えれば、田本被告が犯行の主導権を握っていたことは疑う余地がない。人を人と思わぬ犯行は、極めて悪質かつ冷酷。21歳の若さで廃材とともに炎天下のもとに死体となってさらされた被害者の心情は筆舌に尽くせず、同情の余地は全くない」と述べた。

坂井被告については「年長者でありながら、積極的に犯行に及んだ責任は重い」とし、結城被告と坂本被告については「結城被告は家庭環境に恵まれない点があり、坂本被告は犯行全体をみると消極的であることを考慮し、有期懲役刑が相当」と述べた。

結城被告と坂本被告は控訴せず確定。田本被告と坂井被告は量刑不当を理由に控訴した。結城被告と坂本被告は、公判で田本被告に責任を押し付けたことを認めている。

1991年1月22日の被告側最終弁論で、弁護側は「犯行は集団心理の中で行われた。田本被告が計画・主導したのではない」と述べ、坂井被告は「他の共犯と比べて量刑が重すぎる」と主張した。そして、”田本被告が主犯、坂井被告が参謀格” とした一審判決は事実誤認であり、「犯行に計画性がない」として2被告とも減刑を求めた。

3月26日の控訴審判決で、裁判長は「大学生の生存を装って身代金を要求した犯行は悪質。計画を主導した2人の責任は重大」として一審判決を支持、2被告の控訴を棄却した。

判決は、田本被告の役割について「犯行を計画、立案した首謀者」、坂井被告も「共犯者を犯行に引き入れるなど、田本被告に次ぐ役割」と認定した。田本被告の「主犯でない」との主張は、「不自然で信用できない」と退けられた。

量刑についても「私欲のために残虐な殺害方法を用いた。その社会的影響は大きく一審の量刑(死刑)もやむを得ない」と判断した。

最高裁で死刑確定

田本被告は上告後、弁護人を解任した。1997年、最高裁に「他に複数の共犯者がおり、立証したい」という脱走未遂事件の動機とも言える書面を提出。書面には5人前後の実名を挙げていた。

田本竜也は前述のように、上告中の1996年12月21日夜、収容されていた福岡拘置所からの脱走未遂事件を起こしている。

最高裁は弁論を7月、および10月9日に指定したが、弁護側は「田本被告が主張する共犯者への確認作業には時間が必要」と、弁論期日の延期を申し立て認められた。さらに田本被告は1998年1月17日、弁護人解任届を提出、2人の弁護人も辞任届を提出したが、最高裁は訴訟遅延が目的として認めなかった。

最高裁の口頭弁論は1月30日に開かれた。この日の弁論について弁護側は「欠席するよりも弁論をした方が被告人の利益になると考えた。最終的には2日前に被告人に決めてもらった」としている。弁論で弁護側は死刑違憲のほか「田本被告が犯行を主導したとする二審判決は誤りで共犯者3人と均衡がとれない」と主張した。

1998年4月23日、最高裁は一審・二審の死刑判決を支持、田本被告の上告を棄却した。これにより、田本被告の死刑が確定した。

判決理由で裁判長は「冷酷・非情な犯行、金欲しさの動機、遺族の被害感情などに照らし、”若年で成育環境に同情の余地があること、一応反省していること” などを考慮しても死刑はやむを得ない」との判断を示した。量刑不当との主張については「発案から実行まで中心的役割を果たしたことは否定できず、責任は無期懲役となった坂井被告より重い」として退けた。

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