京都・神奈川親族連続殺人事件の概要
「自分は特別な存在だから何をやってもいい」と公判で話した松村恭造。日頃から気に入らないことがあると暴力に訴え、そのせいで高校も大学も中退。仕事も続かず家も追い出され、金に困窮しても高いプライドだけは持ち続けた。
そして金の無心を断った親族2人を殺害。それでも「金銭目的ではなかった」と言い張り、最後は自ら控訴を取り下げて死刑が確定した。
事件データ
犯人 | 松村恭造(当時25歳) |
事件種別 | 連続殺人事件 |
発生日 | 2007年1月16日、1月23日 |
場所 | 京都府長岡京市、神奈川県相模原市 |
被害者数 | 2人死亡(親族) |
判決 | 死刑:大阪拘置所 2012年8月3日執行(31歳没) |
動機 | 借金を断られた逆恨み |
キーワード | キレやすい |
事件の経緯
無職の松村恭造(当時25)は、極度に短気でキレやすい性格のせいで、何をやってもうまくいかない人生だった。そのくせプライドだけは異常に高く、何も成し遂げたことがないのにエリート意識を持っていた。
暴力沙汰で高校は中退、大検に合格して入った大学も暴力のせいで退学になった。その後、始めたアルバイト先では店長に暴力をふるったばかりでなく、同僚の財布を盗むなどして警察に逮捕された。
この事件では懲役2年6か月(執行猶予4年)の判決を受け、実刑にはならずに済んだが、父親からほとんど勘当された状態となった。そのため2006年10月、松村の暴力を恐れて家を出ていた母親を頼ったが、やはり暴力をくり返して逮捕。11月には出ていかざるを得なくなった。
その後、滋賀県内の養豚場で住み込みで働き始めたが、12月には豚を殴って解雇され、住む場所も収入もなくなった。2007年1月から滋賀県内の電気機器工場に入寮したが、働く意欲をなくして寮を出た。
このようにどの職場もまったく続かず、次第に松村は金に困窮するようになる。2007年1月16日夕方、京都府長岡京市で私立校教頭をしている伯父宅を訪れ、伯母の岩井順子さん(当時57)に金を無心した。だが、親族といえども松村には迷惑をかけられ通しで、気にかけてくれる人など誰もいなかった。
結局、伯母に借金を断られ、逆恨みした松村は鋭利な刃物で伯母の頭部や首を刺すなどして殺害。現金2万円とクレジットカードなどを強奪して逃走した。京都府警は1月20日、犯人が松村であることを特定できたため、非公開で全国に指名手配した。
2人目の親族を殺害
そのころ、松村はすでに東京に逃走していて、奪った金で風俗店で遊びまわっていた。やがて金を使い果たして再び金に困った松村は、1月22日、神奈川県相模原市に住む大叔父・加藤順一さん(当時72)を頼って訪ねて行った。
午後10時半頃、加藤さんに長男から電話があり、その時の会話で「松村が家に来ている」ことを長男に話した。
ここでもやはり金の無心は断られた。しかし「泊めてほしい」という頼みは聞いてくれたため、ひと晩泊めてもらえることになった。そんな感謝すべき局面でも、松村は恩を仇で返すような行動に出る。
日付の変わった23日の深夜1時頃、松村は寝ている大叔父を鈍器で滅多打ちにして殺害したのだ。遺体は押入れに隠し、現金約1万6千円と携帯電話を盗んで逃走した。そして奪った携帯電話で母親にかけ、「借金を断られて京都の伯母を殺害したこと」「今朝も大叔父を殺害したこと」を明かした。
23日午後5時頃、加藤さんと連絡が取れないことを心配した長男が110番通報。駆けつけた相模原署員が2階和室の押し入れから加藤さんの遺体を発見した。
そのころ、松村は東京都練馬区内を歩いているところを捜査中の京都府警に発見され、「叔母に対する強盗殺人」で逮捕された。2月21日には「大叔父に対する強盗殺人」の容疑でも再逮捕された。
松村は逮捕後、供述を拒否していた。
松村恭造の生い立ち
松村恭造は1981年8月3日、大阪府で生まれた。松村は短気でキレやすい性格で、自分の思い通りにならないとすぐに暴力に訴えた。
学生時代には学校でも暴力をふるい、好きな女子生徒にふられた時には授業中に手首を切る自傷行為を行い、生徒のみならず教師からも「何をしでかすか、わからないヤツ」と訝しがられた。
やがて家庭内でも暴力を振るうようになった。その矛先は主に母親に向けられ、母親の髪を切って坊主頭にしたこともあったという。やがて母親は息子の暴力を恐れ、家を出て暮らすようになった。
高校は2度の暴力沙汰を起こして中退。大検に合格して入った東京の大学も、暴力沙汰で退学を余儀なくされた。その後に始めたアルバイトでも人間関係を作ることができず、それどころか店長に暴力をふるったり、同僚の財布を盗むなどして、傷害・暴行・窃盗などの容疑で逮捕された。この事件で松村は3か月の拘留を受け、懲役2年6か月(執行猶予4年)の判決を受けた。
この件で父親からは勘当同然となり、別に暮らす母親を頼るようになる。しかし、そこでも暴力をくり返して警察に逮捕されたり、滋賀県内の養豚場や電気機器工場など、住み込み可能な仕事を探して職に就くも、やはり暴力事件を起こしたりしていずれも長続きしなかった。
やがて無職になった松村は金に窮するようになり、親族に無心するようになった。しかし暴力沙汰などで迷惑をかけるばかりの彼に、情をかける親族はいなかった。松村はそのことを逆恨みして凶行におよんだ。
2007年1月16日に伯母を、1月23日には大叔父を、それぞれ金の無心を断られた腹いせに殺害し、現金などを奪った。だが、大叔父を殺害したその日に逮捕となり、裁判には反省も後悔もまったく見せない不遜な態度で臨んだ。一審で死刑、控訴するも2008年4月8日、自ら控訴を取り下げたため死刑が確定する。
2009年11月、控訴審再開請求をするも2010年5月、最高裁で棄却され確定した。その後、再審請求の準備や恩赦の請求をしていたとのこと。
そして2012年8月3日、収監されていた大阪拘置所にて松村の死刑が執行された。この日はちょうど松村の31回目の誕生日だった。(31歳没)
この日は三島女子短大生焼殺事件の服部純也死刑囚も、同時に死刑が執行された。
無駄にプライドが高かった
松村は高校も大学も中退し、何ひとつ成し遂げたことがないにもかかわらず、「プライド」や「万能感」が異常に高い人間だった。それは、以下のような公判中の発言からも垣間見ることができる。
「今回の出来事の原因は、自分の中のエリート意識。自分は特別な存在だから何をやってもいい、という思いが根底にあった」
「今まで対等に付き合うに足りない相手ばかりに囲まれてきた。同世代の人間と比べ、私はダントツに理解力があった。つまり私は1を聞いて10を知る事ができる。1を聞いて1を知る事しかできない同世代の連中とは、まるで会話が成立しなかった」
「関西の人も街も言葉も大嫌い。東京を知ってから関西人は全て嫌悪の対象になった。関西にいる自分は間違った自分。東京に生まれ、東京で教育を受けた私でも、これだけ引け目を感じているのだから、関西に生まれ関西に住む関西人どもは、もっと劣等感を感じるべき」
一審の死刑判決後は控訴したが、「(控訴したのは)身辺整理の時間が必要だから。死にたい気持ちに変わりはない」と説明し、その後、控訴は取り下げた。こうして望み通り死刑確定となった松村だが、翌年には「控訴審再開請求」をするなど、最後までちぐはぐな男だった。
裁判
2007年9月10日、京都地裁で初公判が開かれた。松村恭造被告は、罪状認否で初めて2人の殺害を認め、以下のような特異な動機を説明した。
- 昨年末に仕事をクビになって住所不定となり、安心して破滅に踏み切れると思い、恨みのあった伯母を殺した
- 大叔父に恨みはなかった
- 金品を奪えば死刑か無期懲役しかなく、罪を重くして自分を追い込めると考えた
- 自分の死を望む気持ちがあり、どうせ死ぬなら恨みのある人を殺してからにしようと思った
- 人殺しという人生初体験の大事を、極めて冷静に完遂できた。自分を褒めてあげたい
検察側は冒頭陳述で、犯行動機について「困窮した生活が続き、金品を奪うため2人を殺した」と述べた。弁護側は「強盗殺人罪は成立せず、殺人と窃盗罪に当たる」と主張した。
弁護側は、「(松村被告が)大学を中退したり、父親との関係が険悪になった」ことから、人を殺害して自殺する ”破滅” を望んだとして、松村被告の心理鑑定や精神鑑定を求めたが、京都地裁は「必要はない」と却下した。
12月5日の第6回公判で、松村被告は「3人目の殺害」を計画していたと述べたが、第7回公判(12月26日)で、その標的が「東京に住む小中学校時代の同級生」であることを明らかにした。ほかにも昨年末に勤務先を解雇されたことなどから、「社会に仕返ししよう」と考え、一連の犯行を決意したと説明。「殺すことだけ考えていた」と述べ、強盗目的を否定した。
2008年1月30日の論告求刑で、検察側は「刃物やゴム手袋なども用意した上、2人の頭部などに50カ所以上の傷を負わせた」と犯行の計画性や残忍性を指摘した。さらに「ひと言の謝罪もなく、遺族の気持ちを踏みにじっている」と遺族の処罰感情の強さを強調した。
松村被告が犯行当時、自殺願望を持ち、「恨みのある親族らを殺してから、死のうと思った」と公判で述べたことについて、「逃走していることなどから、不合理で信用できない。自己を正当化する詭弁」と批判。そのうえで、伯母殺害の動機を「金品強奪の目的以外にありえない」、大叔父についても「計画性が高く、心ある人間の所業ではない」と指摘した。
強盗目的を否認していることにも、「金や携帯電話などを奪っており、被告の供述と矛盾する」とした。さらに「第3の殺人計画」についても触れ、「史上まれにみる非道な事件で、被告の暴力的性向が大きく、更生が不可能」「2人の尊い命を奪っても良心の呵責が見受けられず、残虐非道きわまりない」と断じた。
弁護側は、殺人と窃盗の罪にとどまるとした上で「就職にも失敗し、自らを破滅させようと犯行におよんだ。刑罰を重くしようと強盗に見せかけただけ。金品の強奪を考える余裕はなかった」と強盗目的を否定した。
検察側が死刑求刑を告げた瞬間、松村被告は腕と足を組み、平然とした表情を崩さなかった。松村被告は最終陳述で「事件に至った原因の半分以上は母親を守ってくれなかった父親にある。まったく反省していない。ざまあみろと思っている。世間に借りはないから、法律を守る義務はない。(自分のことを)許せない人間は許さなくてもいい」という内容の自筆のメモ11枚を約20分間かけて読み上げた。
控訴取り下げ、死刑確定
2008年3月28日 京都地裁は松村被告に死刑を言い渡した。裁判長はその理由について以下のように説明した。
- 実家を追い出され、生活費に困った末の犯行は被告の身勝手な性格や行動が原因で、酌量の余地はない
- 凶器を準備するなど計画的。刃物で執拗に刺したり、金属棒で頭部を何度も殴るなど、強固な殺意がある
- 2人の尊い命が無残にも奪われた結果は、ことのほか重大
そして「本事件の責任は重大で、罪刑の均衡や一般予防の見地からも極刑はやむを得ない」と述べた。松村被告が「まったく反省していない。ざまあみろと思っている」と発言してきたことにも触れ、「反省の態度が認められない。暴力傾向も根深く、被告が若いことを考えても、更生を期待することは極めて困難」と指摘した。
さらに当時の松村被告は金銭に困っており、被害者宅を物色していることからも強盗殺人罪の成立を認めた。
松村被告は控訴期限の3月31日に大阪高裁へ控訴したが、その理由は「死刑判決に不満があるわけではなく、友人・知人に手紙を書く時間が欲しかった。死刑が確定すると、手紙の発信回数が制限されるので控訴した」と話した。
京都新聞社の取材に対しても、「今も死にたいという気持ちに変わりはない。控訴は身辺整理の時間が必要だったからで、取り下げるつもり」と話していた。そして、その言葉通り4月8日、控訴を取り下げ、死刑が確定した。
翌年2009年11月には控訴審再開請求をしている。しかし2010年5月、最高裁で棄却された。その後、再審請求の準備や恩赦の請求していたという。