松山ホステス殺害事件
1982年8月19日、愛媛県松山市でキャバレーのNo.1ホステスが殺害される事件が発生。この事件の犯人は、同僚ホステスの福田和子だった。彼女は被害者の持つ高価な私物を盗むため、部屋を訪れた際に首を絞めて殺したのだ。
捜査の手が迫りそうな気配を感じた和子は逃亡。石川県・福井県・愛知県などを転々とし、5459日間ものあいだ警察の目をかいくぐって潜伏生活を続けた。しかし、時効まであと21日に迫った1997年7月29日、ついに逮捕となる。
逮捕された時の和子の顔は、整形のために別人のようになっていたことも話題となった。
事件データ
犯人 | 福田和子(当時34歳) |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 1982年8月19日 |
場所 | 愛媛県松山市 |
被害者数 | 1人死亡 |
判決 | 無期懲役 2005年2月、獄中で死去(享年57歳) |
動機 | 同僚ホステスの家財道具の強奪 |
キーワード | 時効、整形、「あぶない、あぶない」 |
事件の経緯
1982年8月19日、愛媛県松山市のキャバレーに勤める福田和子(当時34歳)は、同僚のホステス・安岡厚子さん(31歳)の部屋を訪れていた。
安岡さんは店のナンバーワンのホステスで、松山市勝山町の彼女のマンションの部屋は、高価な家具であふれていた。和子が部屋に来たのは、これらの物が目当てだった。
和子は結婚して子供もいたが、不倫をしていた。彼女は不倫相手に ”裕福な家の出身” と見栄を張っていて、その嘘を繕うため安岡さんの部屋の高価な家具を奪おうと考えたのだ。和子は安岡さんの部屋で一緒に酒を飲んで油断させ、隙を見て着物の帯締めで首を絞めて殺害した。
それから、安岡さんの遺体を部屋にあったタオルケットとバスタオルでくるみ、ナイロン紐とガムテープで厳重に梱包。そして、ほとんど使われない非常階段の踊り場に、遺体を置いた。
それから部屋を物色し、現金13万円と預金通帳2冊と印鑑を盗んだ。これは後日、親戚に頼んで70万円を降ろしている。
その後、和子は夫を現場に呼び、正当防衛だったと嘘をついて遺体の処理を頼んだ。夫は自首をすすめたが、最終的には協力して遺体を車に積み込んだ。そして、松山市から20kmほど離れた山の中に遺体を埋めた。
安岡さんの部屋からは盗み出したのは、家財道具一式334点、総額951万円相当にもおよんだ。それらは事情を知らない親戚らに頼み、愛人と過ごすために借りた松山市内のアパートに運び込んだ。
この運び入れ作業は多くの人に目撃されていて、松山東警察署はこの情報をもとに強盗殺人事件として捜査を開始した。
やがて、和子にも捜査の手が迫ってきた。警察から電話に出た和子はとっさに声色を変え、子どものふりをしてやり過ごした。だが、もう逃れられないと感じた和子は、その日の夜に逃亡を決意する。家族にも気づかれないように平静を装い、ひとりでそっと家を出た。
和子が家を出てから約2時間後、家にやって来た警察が夫を重要参考人として連行。夫は犯行を自供し、死体遺棄の容疑で逮捕された。そして夫の証言を元に、山中から安岡さんの遺体がみつかった。
石川県での潜伏生活
逃亡した和子は、石川県金沢市片町のスナックでホステスとして働いた。この店では最初、採用を断られたのだが、和子は客として飲みに行き、店主に気に入られたために採用となったのだ。
一方、松山東警察署には捜査本部が設置され、福田和子を殺人・死体遺棄の容疑で全国指名手配した。顔写真も公開され、和子の逮捕は時間の問題と思われた。
しかし、和子は警察の裏をかく。彼女は、東京の病院で整形をして顔を変えてしまっていた。目を二重にしたり、鼻にシリコンを入れて高くしたことで、指名手配写真は役に立たなくなっていた。
整形後の和子は自信をつけ、見違えるように明るく、客あしらいも格段にうまくなっていった。まわりには「京都の料亭の跡取り娘で、親が決めた相手と結婚させられた。その夫のひどいDVから逃げてきた」と、嘘の身の上話で同情を買っていた。
和子は知り合いに連絡するのに、わざわざ京都まで出かけて電話するなど、細心の注意をはらって生活していた。警察はこれにだまされ、関西圏に潜伏しているものとみていた。そのため、金沢市まで捜査は及ばなかったのだ。
ただ、この時の電話音声は録音されていて、この音声がのちに逮捕の重要なカギとなる。
大胆な潜伏生活
逃亡して8か月経った頃、和子は印刷機メーカーに勤務する男性と石川県金沢市で同棲を始めた。だが半年ほど経った頃、彼女に新たな出会いが訪れる。それは老舗和菓子店の若旦那で、和子にはとても魅力的に感じた。彼女は積極的に若旦那に接近した。
やがて、和子は同棲していた男性の家から、家財道具ごと突然姿を消し、若旦那と同棲を始める。この若旦那には、「自分は、京都の老舗料理店の娘」と名乗っていた。
1985年6月、同棲を始めて9か月が経って頃、若旦那は和子のために離婚し、和子は内縁の妻として暮らし始めた。和子はとてもよく働き、接客も得意だったことから、店はそれまで以上に繁盛した。 彼女の明るさは、家族にも評判だった。
生活が落ち着いてくると、子どものことが気になりだした。大胆な性格の和子は、危険をおかしてまで、息子に会いに愛媛に帰った。再会した息子は、複雑な気持ちだった。母は全国指名手配の殺人犯、しかも、整形して顔はきれいになっている。とはいえ、息子にとっては変わらぬ母だった。
息子に一度会ってしまうと、和子は離れがたい気持ちになってしまった。そこで、彼女はなんと息子を和菓子店に住み込みで働かせようと考えるのだ。無謀とも思えた計画だったが、若旦那はこれに承諾、息子は和菓子店で見習いとして働くことになった。
和菓子店では、息子と名乗るわけにもいかず、和子の甥ということにした。こうして母子は、4年ぶりに一緒に暮らすことになった。
ついに素性がバレる
和菓子屋に来て2年半が経ち、息子と一緒に暮らす生活に和子は満足していた。しかし、若旦那はそれで良しとはしなかった。いつまでも内縁では世間体もあるので、きちんと籍を入れようと迫られたのだ。
和子は、それだけは頑なに拒んだ。そんなことをしたら、殺人犯・福田和子であることがバレてしまう。
和子はその話題になると、その場しのぎの言葉で何度もやり過ごしていたが、そのうち身内たちが不審がるようになっていく。
逃亡を始めて5年目の冬、組合の温泉旅行で、若旦那は「福田和子の指名手配のポスター」を偶然見てしまう。和子はその場はなんとか笑ってごまかした。
しかし、若旦那はどうにかできても、まわりの親戚の不審は拭えなかった。彼らは息子の荷物を調べ、運転免許証から「住所が愛媛県松山市」であることを知ってしまう。こうして、和菓子店の内縁の妻が、実は福田和子であることがバレてしまったのだ。
彼らはすぐに通報し、和子の居場所は警察の知るところとなった。1988年2月12日、逃亡から5年6か月、ついに警察が和子のところにやって来る。
和子は近所の葬式の手伝いに出かけていたが、警察の動きを素早く察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗って逃走。着のみ着のまま、息子も置いたまま、ひたすら自転車を走らせ逃亡した。
こうして、5年半にもわたる石川県での潜伏生活は幕を閉じた。
「7つの顔を持つ女」は全国逃亡
福田和子の名は再び全国ニュースで流れ、整形をしていたことで「7つの顔を持つ女」と呼ばれるようになる。指名手配写真は、もちろん整形後の写真へと変えられた。
石川県から逃亡した和子は名古屋に身を潜めた。ここではラブホテルの清掃員として働き、人目につかないようにしていたが、彼女のニュースは頻繁に流れていた。和子は石川県での失敗を教訓に、同じ場所に長くとどまることをやめた。少しでも不審がられると、すぐ姿を消すように心がけた。
1988年8月、逃亡から6年が経った。死体遺棄罪の時効はすでに成立していて、あとは殺人罪だった。
殺人罪の時効は、現在は撤廃されているが、当時は15年で公訴時効が成立していた。
和子は名前や職を頻繁に変え、同じ場所に3か月以上とどまらず、逃亡は全国にまたがった。石川県を出てから1996年までの8年間で、北海道から山口県まで15か所以上を転々としたという。そのため情報が入って警察が捜査しても、和子は去ったあとだった。1990年には、鼻のシリコンを取り除く手術をした。
時効まであと少し
1996年、事件から14年が経ち、時効まであと1年と迫った。48歳になった和子は、福井県に姿を現し、ここでは化粧品のセールスレディを装った。
警察も手をこまねいているわけではなかった。公訴時効まで1年ということで、愛媛県警は手配写真入りのテレホンカードの配布、肉声の公開、逮捕につながる情報に100万円の報奨金を支払うなど、異例の方法を取った。また、和子を整形した病院も ”400万円の報奨金” を出すとして、マスコミの報道は過熱していった。
福井県に来て半年経った頃、和子は一軒のおでん屋に通うようになる。この店では ”れい子” と名乗っていた。ある日、この店の女将が「福田和子に関する報道番組」を見て、店によく来るれい子と喋り方がとても似ている事に気づき警察に通報。しかし、時効成立まで1か月を切って慎重になっているのか、和子は店に姿を見せなくなった。
警察も、「容疑者は警戒して、もう店には来ないだろう」と考えていたが、ある日、予想に反して和子は店にやってくる。女将と常連客は協力して、警察に言われた通りに ”和子が触ったビール瓶とコップ” を怪しまれないように保管することに成功。そして、それらについた指紋を鑑定した結果、福田和子本人のものと一致した。
一方、そんなことが裏で行われているとは露にも思わない和子は、翌日も店に現れた。店は当然たくさんの警察官に見張られていた。気が付くと店は警察に包囲されていて、和子の逃げ場はどこにもなかった。そして、福田和子は逮捕された。
1997年7月29日、時効成立の21日前、5459日間の逃亡劇はこうして幕を下ろした。その後、取り調べが行われたが、起訴できたのは、公訴時効の11時間前だったという。
犯人・福田和子の生い立ち
福田和子は、1948年1月2日、愛媛県松山市で生まれた。
1歳の時に両親が離婚、母親に引き取られて愛媛県川之江市(現:四国中央市)で暮らした。母親は自宅で売春宿を経営していた。
やがて、母親が来島の漁師と再婚。義父は他の女性を部屋に連れ込み、和子はそれを何度も見ていたという。母親は島に馴染むことができず、その後、母子で今治市に移り住んだ。
その後、愛媛県内の高校に入学するものの、交際中の同級生が事故死し、自暴自棄になり3年生の1学期に退学する。
1966年、18歳の時に同棲していた男性と、高松市の国税局長の家に強盗に入り逮捕された。この罪で、松山刑務所に服役したが、ここで彼女は「松山刑務所事件」の被害に遭う。
出所後の1982年、本事件を起こし逃亡する。
逃亡中にもかかわらず、石川県では老舗和菓子店の内縁の妻として、店を盛り上げるという大胆な行動を取っている。
石川県能美郡根上町(現・能美市)の老舗和菓子屋の内妻時代、その店には、家が近所で当時小学生だった松井秀喜も客としてよく菓子を買いに来ていたという。松井は福田逮捕後のインタビューで「きれいで愛想のいい奥さんだった」と語っている。
美容整形をして全国を逃亡していたため「7つの顔を持つ女」と呼ばれた。
公訴時効が成立する21日前の1997年7月29日、福井市内の行きつけのおでん屋で逮捕。時効間近でテレビ報道が活発になり、おでん屋の店主が気づいて通報していたのだ。
逮捕後、福井駅~岡山駅までは鉄道、岡山駅~松山東警察署までは警察のワゴン車で移送された。松山東警察署までの道程は、マスコミ関係者などで大騒ぎとなった。
その後、1997年8月18日に殺人罪で起訴。公訴時効成立までは残りわずか11時間だった。
福田和子の初公判には、33枚の傍聴券に対し1574人が集まったという。そして1999年5月31日、松山地方裁判所にて無期懲役の判決が下された。その後、控訴・上告とも棄却され、無期懲役が確定した和子は和歌山刑務所に収監となった。
しかし2005年2月、刑務所内の工場で作業中、和子はくも膜下出血のため緊急入院。意識の回復のないまま3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞により死去した。(57歳没)