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三島女子短大生焼殺事件|生きたまま火だるまにした残虐事件

服部純也/三島女子短大生焼殺事件 日本の凶悪事件

「三島女子短大生焼殺事件」の概要

2002年1月22日、静岡県三島市でトラック運転手が「黒い塊から炎が出ている」のを発見。近づくと人間の足が見えたため通報した。焼死体となっていたのは19歳の女子短大生で、バイト帰りにさらわれたて強姦、そして殺害されていた。

容疑者として逮捕されたのは服部純也(当時29歳)。2人に面識はなく、たまたま見かけただけの間柄だった。服部は犯行の発覚を恐れて殺害におよんでいたが、その方法はあまりにむごいものだった。短大生は生きたまま灯油をかけられ、そして火を付けられていたのだ。金銭目的でもなく、殺人前科もない服部に下されたのは異例の死刑判決だった。

事件データ

犯人服部純也(当時29歳)
犯行種別殺人事件
犯行日2002年1月22日
犯行場所静岡県三島市川原ケ谷
被害者数1人死亡
判決死刑:東京拘置所
2012年8月3日執行(40歳没)
動機監禁・強姦の口封じ
キーワード生きたまま焼殺

事件の経緯

建設作業員の服部純也(当時29)は、子供の頃から少年院送りになるなど素行が悪く、成人後も覚醒剤を常用し、強盗致傷事件で服役した過去もあった。

2002年1月22日、服部は仕事を終えたあと、会社の同僚らと三島市内の居酒屋で飲食した。店を出たのは午後10時40分過ぎ。愛車のスバル・レガシィで同僚1人を三島市内の家に送り、沼津市の自宅へ帰ろうとしていた。

しかしその途中、服部は従業員の集合場所に弁当箱を忘れてきたことに気付く。午後11時頃、弁当箱を取りに戻るため、国道136号を南に走らせていると、同じ方向を走行している自転車に乗った若い女性が目に留まった。

女性は上智短期大学1年生の山根佐知子さん(当時19)で、アルバイトを終えて三島市梅名の自宅に帰るところだった。山根さんを好みのタイプだと思った服部は、彼女に近づいて車の中から声をかけた。

山根佐知子さんは、1982年に沼津市内で生まれた。小中学校を卒業後、進学した静岡県立三島南高等学校(商業科)では、3年間バスケット部に所属。英検準2級を取って、2001年4月から上智短期大学・英語科に推薦で入学した。知人らによると、性格は『控えめだが優しく、誠実で誰からも好かれる人柄』だったという。そして「誰かに恨まれることは絶対にない」と口を揃えた。

しかし、山根さんは服部を相手にせず、自転車をこぎ続けていた。そんな山根さんに対し、服部はあきらめるどころか ”関係を持ちたい” と考えた。服部は先回りして国道136号沿いの駐車場(三島市青木)にレガシィを停め、車を降りて歩道で山根さんを待ち伏せた。

山根さんがやって来ると、服部はその前に立ちふさがって自転車を止めさせた。そして、前輪をまたいで自転車の籠に両肘を突き、名前や年齢、学校などを尋ねた。さらに山根さんの肩へ腕を回し、山根さんの背中を押して自転車ごとレガシィの側まで連れて行った。

山根さんを拉致・監禁

山根佐知子さん/三島女子短大生焼殺事件

服部は再び自転車の前輪をまたぎながら、しつこく山根さんを誘った。だが、山根さんは自転車ともども倒れ込むと、大声をあげて逃げ出そうとした。服部はそんな山根さんの後ろ襟を掴んで引き倒したが、山根さんは悲鳴をあげながら手を振り回して抵抗した。

山根さんが強く抵抗する様子をみて、服部は強姦を決意する。山根さんの頭を脇に抱え込みながら手で口を塞ぎ、「静かにしろ」と脅しながらレガシィの後部座席に山根さんを押し込んだ。後部座席のドアはチャイルドロックが設定されていて、中から開けられない状態だった。

服部はそのまま車を発進させ、田方郡函南町軽井沢字立洞地内まで走らせた。車中では、恐怖に震える山根さんに「俺の顔を見ただろう。車のナンバーも見ただろう。警察にチクるなよ。ぶっ殺すぞ」などと脅迫していた。

午後11時40分過ぎ、服部は車を停めて後部座席の山根さんの右横に移動した。そして再び「俺の顔を見ただろう。警察に通報したらぶっ殺すぞ」などと山根さんを脅迫。山根さんが怖さのあまり抵抗する気力を失っているのを確認した服部は、山根さんの服をすべて剥ぎ取り強姦した

殺害を決意

山根さんは憔悴して声を出す気力もなく、服を着るのが精一杯の状態だった。服部はそんな山根さんに、念を押すように「警察に通報したら強姦したことを言いふらす」などと脅し、後部座席に監禁したまま三島市内まで戻った。

当初、服部は街中の人目につかない場所で山根さんを解放するつもりだった。適当な場所を探して走り回っていると、沼津市内に住む覚醒剤仲間から「(覚醒剤を打つための)注射器を持って来てほしい」と電話が入った。

すると、服部は自分も覚醒剤を打ちたくなってきた。だが、そのためには解放場所を早く見つけなければならない。その一方で、「解放すれば警察に通報され、逮捕されて刑務所に戻ることになる」と不安のほうが強くなり、最終的に山根さんを殺害することを思いついた。

服部は、犯行が発覚しないように山根さんを山に埋めるか、海や川に沈めて殺害しようと考えていた。しかし、適当な場所が思い浮かばないまま車を走らせ、覚醒剤仲間から頼まれた注射器を取りに三島市若松町の実家に立ち寄った。

その際、玄関先に灯油のポリタンクが置いてあるのに気付いた服部は、「(山根さんに)灯油をかけて焼き殺そう」と思いつく。服部は、ポリタンクと注射器を車に積み込み、人気のない場所を探して車を走らせた。

生きたまま焼殺

三島女子短大生焼殺事件・焼殺現場

日付が変わった1月23日午前2時頃、服部は三島市川原ケ谷字山田山地内の『三島市道山田31号道路』の拡幅工事現場で車を停めた。そして、山根さんが逃げたり声を上げたりしないよう、両手首を後ろ手に縛り、口もガムテープでふさいだ。こうして殺害の準備を整えると、服部は山根さんの腕を引っ張って降車させ、背中を押して未舗装の道路に座らせた。

服部は車から灯油入りポリタンクを持ち出し、山根さんの頭上から灯油を全身に浴びせた。その際、「火、つけちゃうぞ」などと言って脅したが、山根さんは身動きせず声もあげなかった。服部は、山根さんが「警察に通報しようと考えているのではないか?」と不安になり、「早く始末して仲間と覚醒剤を打ちたい」と思った。

その思いと裏腹に「これだけ脅せば、解放されても警察に通報しないのではないか」「殺せば大変なことになるから、解放した方が軽い罪で済むのではないか」とも考えたため、いったんは殺害を躊躇した。だが、結局は刑務所への逆戻りを恐れたことから、改めて山根さんの殺害を決意した。

服部は、灯油のかかった山根さんの後頭部の髪の毛にライターで点火し、炎が燃え広がるのを確認してから車でその場から逃走した。山根さんは火だるまになり、数メートル離れたコンクリートブロックの間に倒れ込んで息絶えた。

犯行後の行動

三島女子短大生焼殺事件・現在の犯行現場
犯行現場の献花台と消火器(35°8’32.4″N 138°56’35.8″E)

犯行後、服部は実家に戻って灯油入りポリタンクを元の場所に戻した。また、手に付いた灯油のにおいを覚醒剤仲間に気付かれないよう、灯油を洗い流した。そして予定通り注射器を覚醒剤仲間に届け、自らも含めて覚醒剤を使用した。

覚醒剤仲間の家へ向かう途中、服部は後続車からクラクションを鳴らされたことに腹を立て、後続車の運転手を殴打する事件を起こしている。

その後、服部は再び自宅に戻り、事件翌日(1月23日)には普段通り建設会社に出勤した。退勤後には、山根さんの自転車を沼津市の狩野川河口付近の『港大橋』中央付近から狩野川へ投げ捨てた。また、山根さんの携帯電話や財布などの所持品を、沼津市内のコンビニエンスストアのゴミ箱に捨てたり、友人宅で燃やすなどして証拠隠滅を図った。

事件はすぐに発覚

事件は、犯行後まもなく発覚している。犯行から約30分後、現場付近を通りかかったトラック運転手が黒い塊から炎が立ち上がっているのを発見した。近づいてみると強い異臭がして、炎の中から人の足が見えたことから110番通報した。

通報を受けて駆け付けた静岡県警・三島警察署の署員が、身長155~160cmの女性の焼死体を発見した。遺体は毛髪が焼け焦げ、体の表面全体が着衣とともに炭化し、身を屈めるようにして横たわっていた。

現場付近に争った形跡がなかったため、当初は自殺と事件の両面で調べていた。しかし、午後には以下のような理由から、殺人事件と断定して捜査を開始した。

  • 遺体の口元や遺体付近に落ちていたフード付きジャンパーの袖口には、粘着テープの跡が確認された
  • 焼け残った皮膚に生活反応があることから『生きたまま灯油のようなものをかけられて焼き殺された』と推定できる
  • 灯油の容器や着火装置が周囲になかった

同じころ、山根さんの両親が「娘が前夜から帰宅せず、連絡が取れない」と警察に相談。捜査員が山根さんの学用品の指紋を調べたところ、遺体の指紋と一致したため、遺体の身元は山根さんと断定された。

当て逃げ事件で服役

事件2日後(2002年1月25日)の夜、服部は函南町塚本の国道136号で、愛車のレガシィを無免許で運転中にUターンしようとして、前から来た乗用車と接触したがそのまま逃走した。相手の車の男女2人は、それぞれ全治2週間の怪我を負った。

その2日後(1月27日)にはレガシィを函南町内の自動車解体工場へ持ち込み、解体を依頼した。しかし三島署は、車のナンバーの目撃情報から服部の身元を特定。服部は(ひき逃げ事件の)捜査の手が自分に迫ったことを察知し、事故から約1か月後となる2月28日に車検証を持って三島署に出頭し、業務上過失傷害・道路交通法違反容疑で逮捕された。

服部は静岡地裁で懲役1年6月の有罪判決を受け、静岡刑務所・沼津拘置支所に服役することとなった。

捜査線上に服部が浮上

捜査本部は事件当初、手口の残忍さから『怨恨による犯行の可能性』を考え、山根さんの交友関係などを調べた。しかし、誰からも好かれる山根さんに対人関係のトラブルは見当たらず、”通り魔的犯行” の可能性も視野に入れたが、捜査は難航した。

山根さんの自転車や所持品(携帯電話・財布・バッグなど)は、遺体発見現場周辺から見つからなかった。捜査本部は「犯人が持ち去った可能性がある」とみて探したが、所持品については服部が捨てたり焼却していたため、発見されるはずがなかった。

また、犯行に使われた灯油を分析したところ、三島市内のガソリンスタンド2軒で販売されているものと成分が似ていたが、詳細な販売元は特定できなかった。事件から半年が経過した2002年7月22日、23日には地元新聞が「捜査は難航している」と報道したが、実際は科学的分析や、周辺の『夜間徘徊者・不審者リスト』などから、服部が捜査線上に浮上していた。

2002年7月11日、当て逃げ事件で服役中の服部に、警察が本件犯行の嫌疑を告げた上で唾液の提出を求め、服部はそれに応じた。これをDNA型鑑定したところ、現場の遺留物と一致。捜査本部は同日午前、服部を重要参考人として任意の事情聴取を開始し、同日中に逮捕監禁・強盗などの容疑で逮捕した。

当初、服部は取り調べにおいて、山根さんとは「事件の夜、コンビニで会った」「合意の上で性行為をした」などと供述し、強姦・殺害の容疑を否認した。翌日になって、逮捕監禁については容疑を認めたものの、殺害については「一緒にいた外国人がやった」と否認を続けた。7月25日、捜査本部は服部を逮捕監禁容疑などで静岡地検に送検した。

殺人容疑で起訴

捜査本部は、「証拠が残っている可能性が高い」として服部の車を探したが、レガシィはすでにスクラップにされていた。しかし、タイヤは産廃業者からの押収に成功し、現場付近に残されたタイヤ痕との照合を行うことができた。

また、山根さんの自転車について追及したところ、服部は 「犯行後に拉致現場に取りに戻り、1月23日夜に港大橋の上から投げ捨てた」と供述。橋付近を捜索したところ、下流の川底から自転車がみつかった。携帯電話などの所持品については「犯行後に焼いて処分した」と供述した。

ほかにも、灯油のポリタンクは供述通り服部の実家で発見され、拉致する際に使用したものと同型の紙製粘着テープの使いかけもみつかった。

こうした物証が次々と発見されるにつれ、服部は2002年7月30日までにそれまでの否認から一転して犯行をほのめかす供述を始めた。さらに追及すると、「顔を見られたので、灯油をかけてライターで火をつけて殺した」と自供。捜査本部は裏付け捜査をしたうえで、8月13日に服部を殺人容疑で再逮捕した。

8月15日、捜査本部は服部を殺人容疑で静岡地検に追送検。
9月3日、静岡地検は殺人・逮捕監禁などの罪状で静岡地裁に起訴
このころには、服部は全面的に犯行を認めたうえで「申し訳ないことをした」と反省の言葉を口にしていた。

服部純也の生い立ち

服部純也/三島女子短大生焼殺事件

服部純也は1972年2月21日、北海道上川郡上川町で4人兄弟の第三子(次男)として生まれた。その直後に家族は静岡県三島市へ移住。家庭環境は劣悪で、父親は暴力的、母親もパチンコに狂っていた。

服部は三島市内の小中学校で学んだが、中学3年生の時に窃盗の非行で初等少年院へ送致され、少年院入院中に中学校を卒業した。少年院を仮退院してからは鉄筋工などをして働いたが、17歳の時に再び窃盗などの非行で中等少年院に送致された。

中等少年院仮退院後は姉が住む沖縄県内に移住し、工員として約1年間働いた。その後、三島市に戻り、スナック従業員や土木作業員として働いたが、窃盗の非行で保護観察処分を受けた。

1992年8月、服部(当時20)は中学時代の同級生女性と結婚。2児をもうけたが、それから4か月後の1992年12月には覚醒剤取締法違反道路交通法違反の罪で懲役1年6月(執行猶予4年・保護観察付)の有罪判決を受けた。

その執行猶予期間中の1995年4月8日午後10時40分頃、服部(当時23)は知人の男(当時21)と共謀して駿東郡長泉町下土狩の路上で強盗致傷事件を起こした。服部は5月22日までに静岡県警・沼津警察署に逮捕され、6月12日付で起訴された。

服部は強盗致傷・恐喝・窃盗の罪に問われ、10月26日に静岡地裁にて懲役4年6月(求刑懲役7年)の実刑判決を受けた。これにより執行猶予も取り消され、併せて刑の執行を受けた。服役期間中の1999年1月には妻と離婚し、2001年4月に仮釈放となった。

死刑確定…そして執行

服部は仮釈放後に配送会社で働き、2001年7月頃からは元妻との関係を修復し、沼津市内の元妻宅の団地で元妻・子供2人と同居していた。2001年10月頃からは以前働いていた三島市内の建設会社で、土木作業員として働くようになった。しかし、服部の知人は「土木作業員というより、あいつの本業はヤクザですよ」と話している。

本事件を起こしたのは、土木作業員として働きだしてから約4ヶ月後の2002年1月22日~23日。そして事件の2日後には当て逃げ事故を起こし、懲役1年6月の刑を受けた。本事件での逮捕は、その服役中の7月11日。裁判では一審で無期懲役だったが二審で死刑判決に覆り、2008年2月29日、最高裁がこの判決を支持したため、服部の死刑が確定となった。

2012年8月、死刑執行

死刑囚となった服部は東京拘置所に収監された。収監中、服部は『死刑確定者らを対象に実施されたアンケート』に対し、以下のように回答していた。

「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」のアンケート

実施:2008年7月~8月

「何を言っても言い訳になるが、殺人という人として最も重い罪を犯してしまったからこそ、死刑囚となった自分は命の尊さ・大切さや、被害者や遺族の苦しみ・悲しみ・怒りを知ることができた。死刑囚こそ誰よりも命の大切さを知っていることをわかってほしい。外部交通権が制限されており、新しく改正された刑事収容施設法も現状では自分たちのことを考えた新法とはいえず、役人にとって都合のいい新法でしかない」

参議院議員・福島瑞穂が実施したアンケート

実施:2011年6月20日~8月31日

「外部交通がかなり厳しく、文通・面会などの交流が自由にできない。再審請求のための支援者が死亡したが、新たな再審支援者の外部交通も許可されず、再審請求の邪魔ばかりされている」

「死刑囚は命の大切さを他の誰よりも知っている。死刑は国家が殺人を犯すのと同じで、死刑執行方法(絞首刑)もかなり残酷だ。自分が犯した罪の重さを理解した上で毎日反省・悔悟しているが、『いつ死刑を執行されて死ぬかわからない』という気持ちを与え続けることは精神的拷問と同じで、死刑執行だけはされたくない。被害者遺族には納得してもらえないかもしれないが、生きて償いたいし、できることなら被害者遺族と直接会って謝罪したいと思う。まだ被害者・遺族への謝罪・償いができていないうちに死ぬわけにはいかない」

「(社会にいたら誘惑もあるが)『もし再び社会に出られたなら、一生犯罪を犯したり悪いことをしたりしない』という自信がある。死刑執行の恐怖に比べれば一般社会で真面目に生きることなど簡単だ。被害者遺族と同様に死刑囚も苦しんでいる。被害者遺族とは同じ立場ではないが『死刑囚の苦しみ』もわかってほしいし、『終身刑があれば被害者遺族への償いができる』ので死刑廃止を強く訴えたい。それが死刑囚ほとんどの総意だろう」

2012年8月3日、法務省が発した死刑執行命令により、服部は収監先の東京拘置所で死刑を執行された(40歳没)。遺体は遺族に引き取られている。

この日は京都・神奈川親族連続殺人事件松村恭造死刑囚も、同時に死刑が執行されている。

裁判

2002年11月12日、静岡地裁で服部純也被告の初公判が開かれた。服部被告は罪状認否で起訴事実を大筋で認めたが、「車に監禁した時点では、強姦するつもりはなかった」として、強姦目的の拉致を否認した。

第4回公判(2003年3月20日)の被告人質問で、弁護人から『灯油入りのポリタンクを持ち出した段階における心情』を質問された服部被告は、「漠然と『(山根さんが)いなくなればいい』と思ったり、脅す意図もあったが、(殺害の)明確な意識はなかった」と説明した。

また、「被害者が三島市内で一度車から飛び降りて逃げようとしたが、車に連れ戻した」と供述したが、この事実をそれまでに自供しなかった理由について問われると「罪が重くなると思ったから」と述べた。

第7回公判(7月10日)では、山根さんの両親が証人として出廷し、服部被告には「極刑を望む」と訴えた。さらに、第8回公判(8月26日)には服部被告の父親が出廷。父親は「息子がやったことは取り返しのつかないことだが、どんな判決が下されても息子には生きていてほしい」と述べた。

10月9日の論告求刑公判で、検察側は服部被告に死刑を求刑し、審理は10月30日の公判で結審した。同日に行われた最終弁論で、弁護側は「強姦・殺害を目的とした計画的犯行ではなく、犯行当時は飲酒や覚醒剤使用により正常な判断能力を有していなかった。服部被告は真摯に反省しており、矯正の余地もある」として死刑回避を求めた。

最終意見陳述で服部被告は「自分のしたことでたくさんの人に迷惑をかけて本当にすみませんでした」と述べ、犯行を謝罪した。

一審は無期懲役

2004年1月15日の判決公判で、静岡地裁は服部被告に無期懲役を言い渡した。争点となった「火を点けた時、被害者はすでに死亡しているかもしれないと思った」とする被告側の主張を退け、検察側が主張した通り「犯行の発覚を恐れ、身元がわからないように焼殺した」と事実認定し、確定的な殺意を認定した。

その上で裁判長は「(殺害方法は)焼殺という極めて異常・残虐なものだ。自己中心的な動機で酌量の余地はない」「服部被告の人間的な思考に欠けた冷酷な性格による犯行で、社会的影響は大きく、矯正教育をしても犯罪性向を改めることは困難である」と指摘した。

しかし、「服部被告が反省の態度を示していること」「犯行に計画性が窺えないこと」「劣悪な環境で育ったこと」などの情状をあげ、「規範的な人間性がわずかながら残されており、死刑とするにはなおためらいがある。終生、贖罪の日々を送らせるのが相当である」と結論付けた。

死刑を回避したこの判決について、裁判所には非難の電話が相次いだという。

検察側は2004年1月28日付で、服部被告側も2004年2月10日までに量刑不当を理由に控訴した。

控訴審の審理

控訴審の裁判長(田尾健二郎)は、2004年初夏に第一審の判決文を読んで「何の落ち度もない被害者が、アルバイト帰りに見ず知らずの男に拉致・乱暴されて惨殺されたあまりにもひどい事件だ。(死刑を回避した)原判決は本当に正しいのだろうか?」と疑念を抱き、「死刑か無期懲役か、すべての情状を判断する必要がある」と考えていた。

2004年10月14日、控訴審初公判が開かれた。検察側は「服部被告には死刑をもって臨むほかないのに、原判決が無期懲役を選択したのは著しく不当である」「冷酷・残虐な犯行で、服部被告には反省も見られない。殺人などの前科がなく、1人殺害であっても、本件で極刑を回避しては司法に対する信頼が揺らぐ」と述べた。

一方、弁護側は量刑について「途中で殺害を躊躇するなど計画性はなく、無期懲役は重すぎる」と主張した。

第2回公判(12月7日)の被告人質問で、『灯油を実家から持ち出した理由』について問われた服部被告は、「被害者を脅すためで、その時点では殺そうと思っていなかった」と述べた。しかし『殺害した理由』に関する質問には、くり返し「わからない」と答え、控訴した理由については「少しでも刑を軽くしたかった」と述べた。

第3回公判(2005年1月18日)で控訴審は結審した。この日は証人尋問が行われ、検察側の証人として出廷した山根さんの父親が、服部被告に対し「娘がされたのと同じことをしてやりたい気持ちだ。発覚を恐れて殺すなど、人間のすることではない」と述べ、一審同様に死刑を求めた。

控訴審で死刑判決

結審後、裁判長は一審判決が『死刑回避の事情』として指摘した「周到な計画に基づく犯行ではない点」「服部被告の前科に殺人などの犯罪は見当たらない点」について改めて検証し、最終的には「どの情状も『被害者を生きたまま焼殺する』という残虐な犯行態様に比べれば、服部被告に有利な情状とは認められない」という心証を固めた。

2005年3月29日、控訴審判決公判が開かれ、東京高裁は一審の無期懲役判決を破棄し、服部被告に死刑判決を言い渡した

裁判長は「服部被告は少年時代から非行をくり返し、少年院で2度も矯正教育を受け、成人後も相当長期間の懲役刑で服役したが、仮釈放を経て刑期満了後に半年足らずで今回の犯行に及んだ。そのことを考慮すれば服部被告の規範意識は著しく希薄で、更生意欲に乏しく、犯罪性行は根深いと言わざるを得ない」と指弾した。

そして「被害者は生前、誠実に生きて努力を重ねてきたにも拘らず、不幸にも服部被告の目の留まってしまったばかりに犯行の犠牲になった。体を縛られた状態で焼き殺された無念・苦痛はいかばかりかと察せられ、深い哀れみを覚えざるを得ない。遺族が強く死刑を望むのは当然だ」と指摘した。

さらに、「服部被告には反省や後悔の情がみられるが、被告に有利とすべき事情を最大限に考慮しても、残虐な殺害方法・改善更生の乏しさなどから見れば罪責はあまりに重大で、極刑をもって臨むほかない」と判断した。

弁護人は閉廷後に「被害者の数に言及しなかったのは残念。『死刑にはならない』と思っていたので不意打ちを受けた気分だ。判決は極めて重い」と述べた。そして、判例違反を主張して2005年3月30日付で最高裁へ上告した。

原判決との解釈の違い

生育環境について

一審判決:服部被告が幼少期に貧困家庭・劣悪な生活環境で生育したことがその人格形成に影響していることは否定し難く、量刑上考慮されるべき

控訴審判決:服部被告と同じ家庭環境で育った兄弟に犯歴はない。服部被告の犯罪性行は家庭・生育環境よりそれまでの生き方・考え方・生活の仕方に由来するところが大きい。加えて服部被告は事件当時30歳に近い年齢で妻と子供2人を抱える身だったから、その生い立ちに同情すべき点があったとしても限界がある

強姦について

一審判決:服部被告が強姦の犯意を生じたのは、山根さんを待ち伏せした時点ではなく、山根さんが悲鳴をあげて逃げ出そうとしたことがきっかけ。それまでは山根さんに言葉をかけて誘い続けている

控訴審判決:相手が自分の誘いに応じてくれるかもしれない』と考えたこと自体が自己中心的。誘い方も強引・執拗で、体力に物を言わせて被害者を誘おうとしたことが拉致・強姦へ発展したのだから、犯行の悪質さは『強姦の犯意を生じた時点がいつなのか』でそれほど異なるものではない

計画性について

一審判決:服部被告は当初、山根さんを解放するための場所を探していた。実家からポリタンクを持ち出した時点でも殺意は強固ではなく、山根さんに灯油を浴びせた時点でも殺害を躊躇していた。周到な計画に基づく殺人ではない

控訴審判決:服部被告は『灯油をかけて焼き殺そう』と思い立ってから殺害に至るまで手際よく、計画的な犯行に劣らぬ迅速な行動を取っている。また、監禁後に服部被告が殺害を躊躇したのは『殺害が発覚すれば重い罪で処罰される』と恐れた自己保身に基づくもので、被害者に対する慈悲の心情によるものではない。『周到に殺害を計画していない』ことを強調するのは相当ではなく、『覚醒剤を打ちたい』と考えて被害者を生きたまま焼き殺すという人間性を欠いた服部被告の行為には慄然とせざるを得ない」

人間性について

一審判決:服部被告は山根さんを殺害後、薬物を注射したり煙草を吸ったりした際に動揺して手指が震えていた事実が認められ、その事実からはなお規範的な人間性が残っているとみる余地がある

控訴審判決:犯行後には証拠隠滅を図るため灯油入りポリタンクを元の場所に戻したり、被害者の自転車を狩野川に投棄しているなど、冷静・周到な行動を取っている。その点に照らせば原判決の説示にはたやすく賛同できない

犯罪傾向について

一審判決:被告人には殺人の前科は見当たらず、そのような犯罪傾向は顕著とまでは言い難い

控訴審判決:少年院から何度も矯正教育を受け、前刑でかなり長期間服役したにもかかわらず、仮釈放から1年未満でこのような凶悪犯罪を犯している点を考慮すれば、特段に有利な事情とは認められない

死刑囚200人 最後の言葉

識者の反応

永山基準」が示されて以降、殺害者数が1人の殺人事件では『計画性が高い利欲目的の場合』や、『殺人の前科がある場合』を除いて死刑を回避する傾向が強かった。そのため、どちらにも当てはまらない服部被告に死刑が言い渡された本判決は極めて異例なものだった。

永山基準:1983年(昭和58年)に最高裁判所から示された『死刑選択基準の判例』

  • 田淵浩二(香川大学教授・刑事訴訟法):「被害者遺族の処罰感情・社会的影響を重視した内容だ。今後もこうした判決が出る可能性がある」
  • 土本武司(帝京大学教授):「注目すべき判決。複数の命でないと犯人1人の命に匹敵しないというのは不自然。この判決は重要な先例となるだろう」

最高裁は死刑判決を支持

最高裁で2007年12月17日に上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護側は死刑回避を、検察側は上告棄却を求めた。

2008年2月29日、上告審判決公判が開かれ、最高裁は控訴審の死刑判決を支持して、被告側の上告を棄却。これにより、服部被告の死刑が確定した。弁護側はこれを不服として、2008年3月10日付で判決の訂正を申し立てたが、3月17日付で棄却された。

1983年に『永山基準』が示されて以降、”殺害者数が1人” の事件で死刑が確定したのは、当時24人だったが、うち23人は金銭利欲目的(強盗殺人・身代金目的誘拐・保険金殺人)か、殺人前科がある場合に限られていた、(唯一の例外は、2004年の奈良小1女児殺害事件小林薫死刑囚)

本事件においては「利欲目的」「殺人前科」ともになかったが、最高裁で死刑が確定した ”極めて異例のケース” となった。また、『静岡地裁で一審が行われた刑事裁判』において、死刑判決が確定したのは袴田事件袴田巌死刑囚(1980年、最高裁で死刑確定)以来、28年ぶりだった。

その時、殺しの手が動く―引き寄せた災、必然の9事件

識者の反応

  • 渥美東洋(京都産業大学教授):「拷問に等しいような犯行で死刑は当然だ。犯罪が多様化しており『被害者の数だけで量刑を決められるような時代』ではない。判決は『死刑適用の具体的事例』として『新たなひとつの基準』が加わったと解釈することができる」
  • 石塚伸一(龍谷大学教授):「服部被告の矯正可能性に触れつつ死刑を選択したことは、従来より厳しいと言わざるを得ない。判決文では死刑選択の理由に後向きな表現が目立つが、控訴審の死刑判決を破棄するまでには至らなかった」
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