「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の概要
埼玉・東京で1998年8月から1989年6月にかけ、わいせつ目的で4人の幼女を殺害した宮﨑勤。遺骨を遺族のもとに届けたり、「今田勇子」名で犯行声明を送りつけるなど、マスコミを利用した劇場型犯罪としても有名な事件となった。
5人目の被害少女の父親に捕らえられ、あえなく逮捕となったが、供述では「覚めない夢の中で起きた」「ネズミ人間がやった」など、精神異常を匂わせる発言が話題となった。また、6000本近いビデオテープで埋め尽くされた自室は世間を驚かせ、「オタク」という言葉が流行した。
そんな宮﨑も裁判で死刑が確定し、そのわずか2年後に執行。最後まで反省や謝罪もなかったという。
事件データ
犯人 | 宮崎勤(当時26歳) |
犯行種別 | 連続誘拐殺人事件 |
犯行日 犯行場所 | 1988年8月22日:埼玉県入間市 1988年10月3日:埼玉県飯能市 1988年12月9日:埼玉県川越市 1989年6月6日:東京都江東区 |
被害者数 | 4人死亡 |
判決 | 死刑:東京拘置所 2008年6月17日執行(享年45歳) |
動機 | わいせつ目的 |
キーワード | 小児性愛者、ネズミ人間 |
事件の経緯
東京都五日市町(現・あきる野市)小和田に住む宮﨑勤(当時26歳)は、叔父の紹介で就職した印刷会社を3年ほどで退社し、1986年9月頃から父親の印刷会社を手伝うようになった。仕事は印刷したチラシを新聞店に届ける程度の簡単なものだった。
本来は原付バイクがあれば間に合う仕事なのだが、宮﨑が家業を継ぐ決心をした褒美として、親は日産ラングレーを買い与えた。だが、この車を得たことで宮﨑の行動半径は広がり、これが事件を引き起こす大きな要因となってしまう。
1988年5月、唯一の心の拠り所だった祖父が脳溢血で倒れてそのまま死亡する。幼少期の宮﨑は、仕事で忙しい両親に代わって祖父が面倒をみていた。祖父は宮﨑をかわいがり、いろいろなところへ連れて行ってくれた。祖父の死は宮﨑の心に大きな動揺を与え、言動に変化があらわれる。
5月21日の形見分けの席で親戚に暴言を吐き、四十九日の法要では家族と言い争って窓ガラスを割った。また、7月から11月にかけて、五日市町内のビデオショップでテープ45本を万引きしている。
【第1事件】今井真理ちゃん殺害
車を手に入れて以降、宮﨑はさまざまな場所に運転して行くようになった。1988年(昭和63年)8月22日午後3時過ぎ、宮﨑は入間市方面をドライブしていて、ひとりの幼女に目を付けた。
幼女は入間ビレッジに住む幼稚園児の今野真理ちゃん(4歳)で、この団地に住む設備設計会社社長(当時47歳)の次女だった。真理ちゃんは友だちの家に行くと言って出かけ、団地そばの歩道橋を渡ろうとしていた。
宮﨑は歩道橋を上り、真理ちゃんに「涼しそうなところへ行こう」と声をかけた。すると、幼い真理ちゃんは疑いもせず付いてきたので、宮﨑は日産ラングレーに乗せ、東京都八王子市内の小峰峠の山中に連れ込んだ。午後6時半頃、宮﨑は泣き出した真理ちゃんの首を絞めて殺害した。
翌23日、宮﨑は東京都杉並区高円寺南のレンタルビデオ店で撮影用のビデオカメラを借り、殺害現場に戻った。すでに死後硬直で固くなった遺体に、宮﨑はわいせつ行為を行い、その様子をビデオ撮影した。
【第2事件】吉沢正美ちゃん殺害
1988年10月3日午後3時頃、宮﨑は埼玉県飯能市の原市場小学校の近くで遊んでいた吉沢正美ちゃん(7歳)に声をかけた。正美ちゃんは近所に住む運転手(当時40歳)の次女で、小学1年生だった。
宮﨑は「道がわからなくなったので、教えてくれるかい?」と騙して正美ちゃんをラングレーに乗せることに成功。そのまま八王子市の新多摩変電所まで走り、さらに裏手のハイキングコースを歩いて山林内に連れ込んだ。
午後5時頃、宮﨑は正美ちゃんを絞殺し、遺体から衣服をすべてはぎ取ったうえでわいせつ行為におよんだ。だが、この時点ではまだわずかに息があったようで、足が小刻みに動いていたという。その後、遺体は小峰峠の山中に捨てた。
翌日、その場所に戻ってみると、動物がどこかへ運んだのか正美ちゃんの遺体はなかった。
正美ちゃん殺害について、宮﨑は「何ともいえぬスリルがあった」と供述したが、詳細については精神鑑定の際も「よく覚えていない」「一番印象がない」と述べるなど不明瞭である。
【第3事件】難波絵梨香ちゃん殺害
1988年12月9日午後4時半頃、埼玉県川越市の団地(川越グリーンパーク)敷地内で遊んでいた幼稚園児の難波絵梨香ちゃん(4歳)に、「暖かいところに寄っていかない?」と声をかけてラングレーに誘い入れた。絵梨香ちゃんは、この団地に住む会社員(当時35歳)の長女だった。
車を走らせていると絵梨香ちゃんが泣き出したので、入間郡名栗村の「県立少年自然の家」に駐車。そして、ヒーターで車内が暑くなってきたのを利用して服を脱がせた。午後7時過ぎ、ストロボを使って写真を撮っていると、絵梨香ちゃんがまた泣き出したので、車内で馬乗りになって絞殺後、わいせつ行為におよんだ。
日産ラングレーが脱輪
その後、遺体を捨てる場所を探して車を発進させたが、駐車場から約300m上がったカーブで、宮﨑はラングレーを側溝に脱輪させてしまう。慌てた宮崎はその場で遺体を運び出し、斜面を6~7m登った地点に遺棄した。
この時、車で通りがかった元中古車販売業の男性2人が、脱輪したラングレーに気付き、タイヤを引き上げる作業を手伝った。宮﨑は何もせず突っ立っているだけで、男性らが引き上げたあとも礼も言わずにラングレーに乗り込み走り去ったという。
絵梨香ちゃんの遺体発見
12月15日午後1時40分頃、「県立少年自然の家」の職員が、全裸の絵梨香ちゃんの遺体を発見する。遺体のそばには絵梨香ちゃんの衣服や靴が置かれていた。これまで3人の幼女が行方不明になっていたが、遺体がみつかったのはこれが初めてだった。
この時、テレビで絵梨香ちゃんの父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た宮﨑は、ほかの被害者の遺体も遺族のもとに送ろうと考えた。
遺体が発見されたことで、宮﨑の車(紺色の日産ラングレー)の脱輪を助けた男性の証言がクローズアップされた。だが、男性は「脱輪していたのは白のハッチバック、トヨタ・カローラⅡだった」と証言。また、絵梨香ちゃんが行方不明になった際、「不審な40歳ぐらいの男と一緒にいた」との目撃情報もあり、宮﨑に結び付かないこれらの情報は、捜査を困難にしてしまう。
被害者宅に葉書が届く
絵梨香ちゃんの遺体発見と同じ日(12月15日)、宮﨑は新聞から拾った文字を『魔がいるわ』と並べ、これを拡大コピーして貼り付けた葉書を、第1事件被害者の真理ちゃん宅に送りつけた。これは『入間川』の5文字を並び替えたものであった。
まがいるわ(魔がいるわ) → いるまがわ(入間川)
12月20日には、絵梨香ちゃんの家にも『絵梨香 かぜ せき のど 楽 死』の文字が並べられた葉書が届く。前回同様アナグラム(文字を並び替え遊び)の可能性が指摘されたため、専門家の協力のもと解析がおこなわれた。その結果、文字をローマ字に直したうえで並び換えると『生き返させられず気の毒』と読めることがわかった。(実際にはUの字が1つ足りていない)
絵梨香 かぜ せき のど 楽 死 → 生き返させられず気の毒
ERIKA KAZE SEKI NODO RAKU SI → IKIKAE SASE RAREZU KINODOK
これらの怪文書は写植や字体、用紙などが特殊なものであることから、「犯人は印刷関係者ではないか」とみられた。
真理ちゃん宅に謎の段ボール
翌1989年1月中旬頃、宮﨑は今野真理ちゃん(第1事件)の殺害現場から頭蓋骨などの骨を持ち帰り、自宅前の畑でゴミや家具と一緒に燃やした。
そして2月7日午前0時頃、真理ちゃん宅の玄関前に、以下の物を入れた段ボール箱を置いた。
- 真理ちゃんの遺骨
- 『真理 遺骨 焼 証明 鑑定』と印刷されたB5判の紙
- 真理ちゃんの服やサンダルの写真
東京歯科大が人骨片のうち計10本の歯を鑑定した結果、一度は真理ちゃんのものでないと発表したが、3月1日、真理ちゃんのものと断定した。この段ボール箱は特殊なもので、ビデオ仲間が宮﨑宅に送った箱だったが、この人物が宮﨑の住所を失くしたこともあり、受け取り人である宮﨑を割り出すことはできなかった。
アナグラムで「宮﨑勤」の名前が…
また、宮﨑の逮捕後、B5判に印刷された「真理 遺骨 焼 証明 鑑定」の文字をすべてローマ字表記にして並べ替えると、以下のアナグラムが完成することがわかった。「MARI IKOTSU YAKU SHOUMEI KANTEI」
- T・MIYASAKI HAKOTSUME IENI OKURU → T・宮﨑 箱詰め 家に送る
- MIYASAKI TSUTOMU HAKONI IRE KIE → 宮﨑勤 箱に入れ 消え
- MIYASAKI TSUTOMU KIREINI HAKOE → 宮﨑勤 綺麗に 箱へ
専門家によると、27文字のローマ字を並べ替えて、「宮﨑勤」のフルネームが出てくる確率は1兆分の1以下だそうで、意図的に作られたことがわかる。
「今田勇子」名の犯行声明
2月10日、「所沢市 今田勇子」の名で、インスタントカメラで撮影した真理ちゃんの顔写真を添付した犯行声明(B4判3枚)が、朝日新聞東京本社(東京都中央区築地)に届いた。翌11日には、真理ちゃんの母親にも同じものが届いた。
のちに宮﨑は、「今田勇子」という名前について、「いまだからいう(今だから言う)」という意味を込めたものだと明かしている。そして、女性名にしたのは捜査をかく乱させるためだった。
犯行声明には「真理ちゃんを入間川に沈めて殺した」など、事実と異なる経緯が書かれていた。警察は文面から、「子供を生めない女性による犯行」との見方に傾き、捜査は振り回されることになる。
第2の書簡「告白文」
3月11日、真理ちゃんの葬式が執り行われたこの日、「今田勇子」名での第2の書簡『告白文』が朝日新聞東京本社と吉沢正美ちゃん宅に届く。
「犯行声明」「告白文」は、事件の詳細についてかなり詳しく書かれていて、これがもし事実なら、捜査の有力な手がかりといえた。だが、専門家の多くは「犯人は事件を自身の作品と考えているのではないか。内容を鵜呑みにはできない」との見方が大方を占めていた。
このように事件は、マスコミを利用して日本全国の視聴者を観客とする、いわゆる『劇場型犯罪』の様相を呈してきた。
両書簡とも極端に角張った利き手と反対の手で書かれたとも思える筆跡が特徴だった。「どうして写真だけでは済まなくなったか」を聞かれた際、第一次鑑定では「よくわかんない」、最後の被告人質問では「急に子どものころが懐かしくなった」と、証言が曖昧だった。
【第4事件】野本綾子ちゃん殺害
1989年6月6日、宮﨑は埼玉ではなく、東京都江東区の東雲団地付近で女の子を物色していた。
野本綾子ちゃん(5歳)は、この団地に住む会社員(当時37歳)の長女で、この日は午後4時30分頃に保育園から自宅に帰り、母親に友だちの家に遊びに行くと言って家を出た。その後、午後5時50分頃に通っていた保育園前で先生とあいさつを交わし、午後6時過ぎ、保育園そばの階段を降りると、そこには宮﨑が乗ったラングレーが停まっていた。
宮﨑は綾子ちゃんに「写真を撮ってあげるよ」と言ってラングレーに誘い入れた。それから車を出し、約800m離れたプレハブ倉庫前の路上に停車。車内でチューイングガムをあげるなどしたあと、綾子ちゃんを絞殺した。
宮崎は当初、殺害した理由を「手の障害をからかわれたから」と供述したが、のちに「(初めから)殺してからわいせつ行為をするつもりだった」と証言を変えている。
帰る途中、杉並区高円寺南のレンタルビデオ店でビデオカメラを借り、午後9時頃に帰宅。午後11時頃、綾子ちゃんの遺体を車のトランクから自室に運び込んだ。そして全裸にして体を拭いたあと、陰部に指を入れるなどしてビデオや写真を撮影した。
綾子ちゃんの遺体発見
6月8日、綾子ちゃんの遺体は腐敗で悪臭がひどくなってきたため、宮﨑は遺体をバラバラにして、胴体部分を埼玉県飯能市の宮沢湖霊園の公衆トイレ脇に、頭部と手足は自宅近くの御獄山の杉林に遺棄した。
6月11日、宮沢湖霊園から胴体部分が発見され、胃の内容物などから野本綾子ちゃんと断定。同日、警視庁深川署に捜査本部が設置され、埼玉県警と合同捜査が行われることになった。また、埼玉県警に群馬・栃木・茨城の各県警から210人の警官が応援派遣された。
6月27日頃、宮﨑は御獄山に戻って綾子ちゃんの頭蓋骨を拾い、自宅の印刷工場の流し台で頭髪を取り除いて水洗いし、そのあと一部を東京都奥多摩町梅沢の山林に、一部を奥多摩町河内の山林に棄てた。
被害少女の父親が私人逮捕
7月23日午後4時半過ぎ、八王子市美山町の日枝神社の敷地で遊んでいた姉妹に、宮﨑は「おじさんはカメラマン。写真を撮らせて」と声をかけた。まず姉妹の警戒心を解くため、4枚ほど普通に写真を撮ると、姉(当時9歳)に「ここで待ってて」と言い、妹(当時6歳)だけを道路を渡った先の林道へ連れて行った。
林道を少し進んだあたりで、宮崎は妹を全裸にして写真を撮ろうとした。一方、残された姉は不審に思い、自宅に戻って親に伝えると、それを聞いた会社員の父親(当時37歳)は現場へ急いだ。これに気付いた宮崎は、あわてて林道の奥に逃走するが、父親が「車のナンバーを覚えたから逃げても無駄だ」と大声を出すと、宮﨑は観念して姿を現した。
激怒する姉妹の父親に「警察を呼ぶのは勘弁してください」と宮崎は懇願したが、父親の知人が警察に通報。駆け付けた警察官に引き渡された宮﨑は現行犯逮捕となった。
野本綾子ちゃん殺害でも逮捕
1989年8月7日、東京地検は宮﨑を八王子市美山町の姉妹に対する猥褻誘拐・強制猥褻罪で起訴した。
当時、連続幼女殺人の犯人は40歳ぐらいの男とみられ、車も目撃情報から「白のハッチバック」とされていた。宮﨑は当時26歳で、愛車のラングレーは「紺色のセダン」だったことから、容疑者としてみられていなかった。
しかし、車のトランクから血液反応があり、これが宮﨑のものではないことが判明。8月9日、取調官が追及すると、宮﨑は綾子ちゃん殺害を認める供述を始めた。
8月10日、自供通り、東京都奥多摩町の山林で綾子ちゃんの頭蓋骨が発見される。同日12時15分、宮﨑は綾子ちゃん殺害でも逮捕され、深川署へ移送された。
このことが発表されると、宮﨑の自宅に報道陣が殺到した。父親は「息子の無実を信じている」と話し報道陣の要望に応じて宮﨑の自室を公開。部屋中を埋め尽くした5793本のビデオと多数のマンガ本で、窓までつぶれてしまった異様な光景は人々に衝撃を与えた。これ以降、宮﨑は「オタク」と呼ばれるようになり、”オタク=犯罪者予備軍” のようなイメージが世間に植え付けられた。
警察は宮﨑の氏名・住所を発表しておきながら、宮﨑の部屋への立ち入り禁止措置を講じていなかった。父親から自由に出入りすることを許可された報道陣は、部屋からあらゆるものを持ち帰ってしまい、そのまま戻ってこないものもあったという。
正美ちゃん殺害は否認
警察は6000本近いビデオテープを、74人の捜査員と50台のビデオデッキをフルに稼働させ、2週間かけてすべて確認した。そのほとんどはテレビ番組の録画などだが、宮﨑自身が撮影した事件に関するものが計88本あった。
8月11日、綾子ちゃん事件で再逮捕となった宮﨑は、13日に「話すことがある」と言って、神妙な面持ちで今野真理ちゃんと難波絵梨香ちゃんの殺害を認める供述を始めた。そして、深川警察署長宛てに2通の上申書を書き終えると、「気持ちが楽になった」とほっとした表情をしたという。
8月21日、宮﨑の27歳の誕生日のこの日、押収したビデオテープの中から今野真理ちゃんの遺体を撮影したものが発見された。8月23日には野本綾子ちゃんを撮影したビデオテープもみつかった。
しかし、この時点で遺体の見つかっていない吉沢正美ちゃん(第2事件)の殺害を、宮﨑は否認していた。
誠意のない供述
8月24日、宮﨑は東京地検で鑑定留置が必要かどうかを決めるため、嘱託医による「簡易精神鑑定」を受けた。診断の結果は「精神分裂病の可能性は否定できないが、現段階では人格障害の範囲」とされた。
取り調べ中、宮崎は黙秘をしたり、小さな嘘を無数についた。また、指摘されるまで自分から犯行を語ることもなかった。黙秘は「ドラマでよく見るから、やってみたかった」、自ら供述しないことについては「覚えていなかった。忘れていた」などと言い訳した。
つまり、宮﨑は警察にバレていないことを自供するつもりはなく、この期におよんで少しでも罪を軽くしようと考えていたのだ。このように、取り調べに応じる宮﨑の態度からは、反省している様子は微塵も感じられなかった。
だが、捜査のプロである取調官を欺けるはずもなく、宮﨑は少しずつ凶行について語っていく。野本綾子ちゃんの遺体を部屋に持ち帰ったことについては、「そばに置きたかった。その間は自分のものにできるから」と説明、理由は「大人の女性に相手にされないから」と話した。
今野真理ちゃんの自宅に遺骨を置いた理由については、「仏心が起こった」と答えた。葬式があげられるように遺骨を返したというその口ぶりは、まるで他人事のようだった。
また、宮﨑が犯行場所や死体遺棄を埼玉県に集中させたのは、捜査の目を自分の住む東京に向けさせないためだと明かした。
4人全員の殺害を認める
9月1日、警察庁が一連の幼女殺害事件を「広域重要117号事件」に指定。犯人逮捕後の指定は異例であった。翌2日には、東京地検が綾子ちゃん殺害について起訴した。
宮﨑のついた嘘は ”小さなもの” だけではなかった。彼は証拠を突き付けられるまで、吉沢正美ちゃんの殺害には関与してないと断言していたのだ。
取り調べに当たった刑事は、宮﨑に対して父や兄のように時にはおだて、時には叱るなどして心を通わせながら自供を引き出してきた。それが功を奏したのか、9月5日、事件当日の ”車の目撃情報” や ”タイヤ痕” を確認していることを突き付けると、宮﨑はようやく正美ちゃん殺害を認める供述をした。
宮﨑が否認を続けたのは、正美ちゃんの遺体がみつかっていないからだった。遺体が発見されない以上、犯行を立証できないと考えていたのだ。
9月6日、自供通り、東京都五日市町の山林で正美ちゃんの白骨化した遺体を発見。9月13日には同様の場所から、真理ちゃんの手足の骨などが発見された。
9月29日、埼玉県警が正美ちゃん・絵梨香ちゃんの殺害で宮﨑を逮捕、東京地検が真理ちゃん殺害で宮﨑を起訴した。10月19日には正美ちゃん・絵梨香ちゃん殺害で宮﨑を起訴、これで被害者4人全員についての起訴が完了した。
宮﨑勤の生い立ち
宮﨑勤は1962年(昭和37年)8月21日、東京都青梅市の公立総合病院で体重2165gの未熟児として生まれた。当時、家には祖父母と両親、結婚前の叔母3人が住んでいて、のちに妹が2人誕生している。(3歳下と8歳下)
「勤」という名前は祖父が名付けた。祖父は体の弱かった息子(宮﨑の父親)のようではなく、力強い子に育ってほしいと願い、「力」という文字の入った「勤」を選んだ。
宮﨑家は曾祖父が村会議員、祖父は町会議員、父親もPTA会長や地元消防団副団長の任に就くなど、地元の名士の家系だった。東京都西多摩郡五日市町小和田(現・東京都あきる野市小和田)の自宅は、1000平方メートルと広く、周囲には広々とした畑地を持ち、経済的にもかなり裕福だった。
父親は1954年(昭和29年)に印刷会社「新五日市社」を設立し、新聞の折り込みのチラシ広告を印刷していたが、1957年(昭和32年)には、五日市町を中心にした週刊のミニコミ紙『秋川新聞』を創刊した。
『秋川新聞』は、宮﨑が野本綾子ちゃん殺害を認めた1989年(平成元年)8月9日の直前の第1727号(8月6日付)が最後となった。
宮﨑は神経が過敏で寝つきが悪く、少しの物音ですぐ目を覚まし、手足を震わせてよく泣いた。そんな時、共働きで忙しい両親の代わりに面倒を見るのは、祖父と住み込みの男性だった。この男性は当時30歳ぐらいで、子どもの頃に脳性麻痺を患ったため両脚に障害を持ち、軽度の精神障害もあったが、宮﨑と一緒になって遊んでくれた。
祖父は宮﨑の手を引いて畑や川、山に連れて行った。いつも宮﨑の世話をしてくれて、いろんなことを教えてくれたのも祖父だった。宮﨑はそんな祖父が好きで、心の拠り所にしていた。
手の障害が人格形成に影響?
宮﨑は3歳の頃、手に障害があることが判明する。宮﨑には「両側先天性橈尺骨癒合症(とうしゃくこつゆごうしょう)」という、両手の掌を上に向けること(”頂戴”のしぐさ)ができない先天性の障害を持っていた。めずらしい病気で、手術の成功率が1%と低いこともありそのまま放置された。
宮﨑は4歳半の時、バスで1時間かけて私立『秋川幼稚園』に通うが、手の障害は幼稚園のお遊戯やおやつを貰うことにも支障があった。また、普通に茶碗を持つこともできず、トイレなどにも苦労した。買い物の際も、釣り銭をうまく受け取ることができなかった。
このように、生活のさまざまな局面で苦労があったため、宮﨑は障害について両親に訊いたことがあったが、具体的な説明をしてくれなかった。それ以来、こんな手になったのは両親のせいだと思うようになった。
1969年(昭和44年)4月、五日市町立五日市小学校に入学。しかし、手の障害に加え、内向的な性格と協調性のなさで、なかなか友達ができなかった。放課後も自分の部屋にこもってマンガを読んだり、ゲームをして遊んだ。近所の人は、宮﨑が外で友達と騒いでいる姿を一度も見たことがないという。当時、小学生が自分専用の部屋やテレビを持つことはめずらしく、近所では宮﨑だけだった。
学校の成績は良いほうで、欠席も風邪などで休むぐらいだった。だが、家のことを書く作文は、家業の印刷関係のことは詳し過ぎるほどなのに、家族のことがまったく書かれていなかったという。
中学・高校時代
1975年(昭和50年)4月、宮﨑は町立五日市中学校に進学したが、相変わらず友達はいなかった。
宮﨑は1、2年は陸上競技、3年の時は将棋クラブに入っていた。当時の同級生は宮﨑について「将棋は強かったが、たまに負けると顔を歪めて物凄く悔しがった。そんな時は将棋の本をどっさりと買い込み、腕を磨いてから必ず再挑戦するほど負けず嫌いだった」と振り返る。一緒に遊ぶ時も自分勝手さが目立ち、そんな性格のせいか、「宮﨑が同窓会に出席するなら行かない」という者が結構いたそうだ。
また、男子だけで女の子の好みやエッチな話をする時も宮﨑は乗ってこず、何を考えているのかわからなかったという。
1978年(昭和53年)4月、東京都中野区の明治大学付属中野高校に入学、片道2時間かけて通学した。手の障害を気にして女子がいない男子校にしたのだという。高校時代の同級生は、宮﨑について以下のように話す。
- 銀縁メガネをかけた薄気味の悪い奴
- 授業中に先生に指名されると、緊張で声がワナワナと震え、オドオドして口篭もっていた
- いつも落ち着かない眼差しでキョロキョロと周囲を見たり、先生に叱られた時などはビクッとしてブルブル震えていた
- 何しろ暗いヤツで、休み時間に他の奴らが騒いでいても一人で居眠りしているかノートにマンガを描いていた
- 怒りっぽくて滅多に笑わないのに、教室に飛び込んできた虫を宮﨑のほうに押しやり「踏んでみろ」とからかったら躊躇なく踏み潰し、ニヤッと笑ったんでゾッとした
宮﨑は手の障害のことで精神的に疲れ、さらに長距離通学による肉体的疲労が重なって帰宅するとカバンを放り投げて寝るようになった。ほとんど勉強せず、部屋にこもってビデオ録画したり、マンガを読み耽った。やがて、家族ともほとんど口をきかなくなり、意思表示もしなくなった。
怠慢で傲慢、自分勝手な性格
宮﨑は明大への推薦入学を希望していたが、どの学部も推薦入学はできなかったため、1981年(昭和56年)4月から中野区の東京工芸大学短期大学部の画像技術科に推薦入学した。
短大2年生の時、宮﨑は短大の友人と行動していて井之頭公園で偶然、小学3年生の女児と仲良くなった。女児はすっかり宮﨑に懐き、夕方に別れる時の宮﨑は寂しそうだった。その様子を見た友人は「宮﨑は小さい子とは波長が合うんだな」と感じたという。
1983年(昭和58年)4月、宮﨑は叔父(父親の弟)の口利きで東京都小平市の印刷会社に就職した。会社では印刷機のオペレーターとしての業務や、印刷物の梱包などを担当。作業は決して難しくなかったが、宮﨑の勤務態度は無気力で怠慢だったため、同僚らの評判は芳しくなかった。
突然「帰ります」と言って退社したこともあったが、口をきいてくれた叔父がこの会社の得意先だったこともあり、特に咎められることもなかったという。
1986年(昭和61年)1月、宮﨑が23歳の時、原因不明の左顔変形の神経マヒにかかった。3月には会社を依願退職させられ、宮﨑は自室に籠ってしまう。父親が家の仕事を手伝わせようとしても、短大や印刷会社で充分に技術を習得していなかったため、ほとんど何もできなかった。
1986年7月に運転免許証を習得し、9月頃から宮﨑は家業の印刷会社を手伝うようになった。仕事は「チラシ広告の原稿取り」や「刷り上ったチラシを新聞店に届ける」などの簡単な内容で、のちに『秋川新聞』の配達もするようになったが、午前中に仕事が終わり、午後は暇だった。
自分勝手で仲間に嫌われ…
宮﨑はこのころ、アニメの同人誌を約500部作るなど漫画の世界にも興味を示したが、自分本位な性格のため仲間に嫌われ、同人誌は1号だけで終わった。
父親は、宮﨑に4月から11月にかけて4回、見合いをさせている。父親は渋る宮﨑を何とか説得して出席させたが、宮﨑は「どうも」と言ったきり下を向いてほとんど相手と話をしなかったため、全て相手から断られた。
12月末、親が仕事用として宮﨑に紺色の日産ラングレー(約180万円)を買い与えた。宮﨑は当時すでに使用が禁止されていた暗い色のフィルムを車の窓ガラスに貼り、外から車内が見えないようにした。この車を得たことが宮﨑の行動範囲を広げ、事件を起こす要因になったことは言うまでもない。
宮﨑は相手の都合など考えず、いきなり車で訪ねて友人をドライブに誘った。ドライブといっても景色のいい道を行くわけでもなく、荒っぽい運転で好き勝手に走るだけ。車内では特に会話もなくラジオやカセットを聴いていた。
宮﨑は、逆に友人から誘われた際は、「仕事が忙しい」と理由を付けてすべて断っていた。こうした身勝手さはドライブ中にもあらわれていて、”稲川淳二の心霊話” の録音を流された友人が、「消してくれ」と言うと降りるよう言われたという。
宮﨑は西多摩地区から都心・埼玉県へと走行範囲を次第に広げていった。ビデオショップにも頻繁に出入りするようになり、複数のビデオサークルの会員になった。
ビデオサークルでは、会員同士が ”自分の居住地域で放送されないテレビ番組の録画を代行し合う” のが利点だが、宮﨑は自分の頼みは聞いてもらっても、相手からの要望には応じなかった。ビデオもサークル会員から借りるだけで、自分は一切貸さないといった自分勝手な性格が災いして仲間外れになっていった。
祖父の死が事件の引き金?
1988年(昭和63年)5月11日、祖父が犬の散歩中に脳溢血で倒れ、5日後の5月16日に死亡した。祖父の死は宮﨑に大きな衝撃を与え、それ以降、行動に変化が現れる。
5月21日、宮﨑は形見分けの席で親戚に暴言を吐き、7月3日の四十九日の法要では家族と言い争って窓ガラスを割った。近所の女の子をカメラで撮影するようになったのも、祖父が亡くなってからだった。7月から11月にかけて、五日市町内のビデオショップでテープ45本を万引きしていることも確認されている。
8月22日(宮﨑が26歳になった翌日)、初めての幼女殺害に手を染める。被害者は入間市に住む今野真理ちゃんだった。その後、同年10月3日に飯能市で吉沢正美ちゃんを、12月9日には川越市の難波絵梨香ちゃんを殺害した。
12月18日、宮﨑は父親に「集金した金が見当たらない」と問われ激高。「バカ野郎!」と叫んで暴れ出し、父親の頭髪をつかんで車のドアに頭部を叩きつけた。父親は入院し、頭部切開の手術を受けている。その見舞いに行く途中で母親にも注意され、宮﨑は怒りだしてラングレーの車内で母親に暴力をふるった。
1989年(平成元年)2月7日、宮﨑は真理ちゃん宅に遺骨を入れた段ボール箱を置いた。10日には世間を騒がせた「今田勇子」名義の犯行声明文を朝日新聞社に送った。このころ、埼玉県川越市のディスカウントショップでビデオテープ5本を万引きしている。
1989年(平成元年)3月、同人誌の展示即売会「コミックマーケット35」に、宮﨑は「E・T・C大腕」というサークル名で参加。自作の漫画本『マンモスコング・月光仮面』を出展し、知人には6冊売れたと話したという。
「コミックマーケット35」とは、東京都中央区晴海の国際見本市会場で開催された同人誌の展示即売会。全国から約8900の漫画サークルが参加して、約7万人の若者が訪れた。総売上は数億円にものぼる。
6月6日、江東区の野本綾子ちゃんを殺害。7月23日、八王子市で幼い姉妹に対するわいせつ行為でついに逮捕となる。その後、2006年1月17日に最高裁で死刑が確定、2008年6月17日に執行された。(45歳没)
事件後の宮﨑勤の親族
宮﨑勤の逮捕後、彼の家族や親族は世間の厳しい目にさらされ、普通の生活ができないほど追い詰められた。
- 宮﨑勤の2人の妹:姉妹に対して「お前たちも死ね」「殺してやる」といった内容の嫌がらせの手紙や電話が殺到。長女は勤めていた会社を辞め、結婚間近だった婚約を自ら破棄。次女は在学中の看護学校にいられなくなり、自主退学に追い込まれた。
- 宮﨑の叔父1(父親の長弟):仕事を退職したうえ、持っていた5つの会社の役員をすべて辞職。会社は妻の名義に変えた。
- 宮﨑の叔父2(父親の次弟):次弟には娘が2人いたが、宮﨑姓を名乗ることの悪影響を考えて妻と離婚。娘らを妻に引き取らせ、苗字を変えさせた。
- 宮﨑の伯父(母親の兄):2人の息子は警察官と高校教師だったが、それを週刊誌で暴露されたため、2人とも辞職を余儀なくされた。
父親の自殺
宮﨑の家族は、逮捕の1年後に引っ越した。4年後(1994年)、宮﨑の父親は自宅を売った代金を被害者の遺族に支払う段取りをつけると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋 (水面までの高さ30m)から飛び降り自殺した。
父親は生前、「自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、関係のない親族まで非難され、辞職や離婚に追い込まれたことに苦悩している」とマスコミに心情を明かしていた。
事件前から父親と交流があった新聞記者は、「加害者の家族が直面する現実を目の当たりにした。加害者家族は、罪を犯した本人以上の苦痛にさいなまれることを知った」と語っている。
父親の自殺を知らされた宮﨑は、「スーッとした。私を貰ったか拾ったかして、勝手に育てたのだから、バチがあたったんだと思う」と言い放った。弁護人が、悲しくないのかを聞くと「その逆です。悲しいとは思わない。死んでくれてスーッとした」と断言した。
取り調べの際も、父親を「父の人」、母親を「母の人」と呼ぶなど、親と認めていないような口ぶりだったという。両親は拘置所の面会に約250回も通った一方、「私選弁護人をつけてほしい」という息子の要望に父親は拒絶していた。
裁判
1989年8月24日、宮﨑勤は東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受けた。結果は「精神分裂病の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」とされ、これを受けて検察は起訴に踏み切った。
裁判に長蛇の列
1990年3月30日、東京地裁にて宮﨑勤被告の裁判が始まった。世間の関心が異常なまでに高いこの裁判は、50席の一般傍聴席に1591人の希望者が並んだ。
罪状認否で宮﨑被告は、「殺意はなかった。わいせつ目的で誘拐したことはない」と起訴事実の一部を否認。「綾子ちゃんの頭部と手足を御獄山の山林に遺棄したか」と問われた際には、「両手は焼いて食べた」と衝撃的な供述をして法廷に緊張が走った。事件全体については、「覚めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか……」と述べた。
4月25日の第2回公判では、裁判長に「何か言いたいことは?」と聞かれ、「ビデオテープ、車、免許を返してください。車に乗れなくなると困るので、油(ガソリン)を入れといてください」と言って周囲をあきれさせた。
その後の被告人質問では、誘拐した時の心境を「女の子に出会って、急に子供の頃に帰ったような気持ちになった。一心同体になってドライブの中にあった」などと説明した。
殺害した理由を問われると、宮﨑被告は「信頼していた女の子が泣き出して急に裏切った時、全身がネズミ色で、顔もネズミの『ネズミ人間』が出て来て、逃げ帰る時、女の子が倒れていたような気がする」と、あたかも ”殺したのは自分ではなくネズミ人間” とでも言いたいような、意味不明の発言をした。
また、遺体を ”肉物体” と呼び、切断した行為は「子供の頃にテレビで見た、改造人間の改造手術」と説明。さらに「女の子の(遺体の)血を飲んだ」と言ったり、「夢の中に子供たち(被害者)が現われ、ありがとうと言っている」とも供述した。
宮崎被告は公判の間、法廷内でのやり取りには興味を示さず、常に便箋に何かを描き続けていた。ただ、”被告人質問” については「晴れの舞台」と表現したことから、「異常性を意図的に演出している」と疑う声もあった。
2度の精神鑑定
1990年12月より、宮﨑被告の精神鑑定が実施された。この鑑定は、過去の動物虐待などの異常行動を焦点に、精神科医5人と臨床心理学者1人によって行われた。
宮﨑被告は被告人質問で、「祖父を復活させるため、(祖父の)骨を食べた」と話し、その理由を「復活した時、骨がだぶってしまうから」と説明していた。この件については、供述が曖昧なため事実ではないとみなされた。
1992年3月31日、精神鑑定書が提出され、「宮﨑被告は人格障害」との結果が示された。祖父の骨を食べた件については、弁護側は「墓石が動かされていた」ことを根拠に ”事実” だと主張したが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した。
1992年12月18日より、弁護側の依頼により宮﨑被告の2回目の精神鑑定が行われることになった。この再鑑定は3人の鑑定医により実施され、1994年12月に鑑定書が提出された。その結果、鑑定医の1人は統合失調症、残りの2人が解離性同一性障害との鑑定だった。
第一審判決は死刑
検察側は論告で「これまでの不可解な言動は、自己の異常性を強調するため虚偽の事実を述べたものだ」と主張し、死刑を求刑した。一方、弁護側は「犯行当時、心神喪失もしくは心神耗弱だった」として、死刑回避を求めた。
1997年4月14日、第一審判決公判で、東京地裁は宮﨑被告に求刑通り死刑を言い渡した。裁判長は「極端な性格的偏り(人格障害)はあったが、精神病の状態にはなかった」とする第1回鑑定を採用し、「理非善悪を識別し、それに従って行動する能力を持っていた」と判断した。
また、「食人行為は虚偽の疑いが濃厚」とする検察側の主張を認め、そのような異常な行為を供述したのは ”拘禁の影響” で、犯行動機については ”わいせつ目的” と認定した。
死刑確定「何かの間違い」
控訴審で弁護側は、犯行当時の責任能力を争うととともに、「取り調べ中に警察官から暴行を受けた。自白を強要されており、捜査段階の供述は信用できない」として、自白に依拠した一審判決には事実誤認があると主張した。
2001年6月28日、東京高裁は一審判決を支持し、弁護側の控訴を棄却した。自白の内容については「内容が具体的で詳細」と述べ、犯人しか知り得ない事実も含まれているとして信用性を認めた。
控訴審判決後、宮﨑は「(判決は)何も聞いてません。寝ていました」と感想を寄せた。
最高裁で死刑確定
最高裁の弁論で、弁護側は宮崎被告の幻聴が ”単語” から ”会話” に変わり、2002年から向精神薬の投薬を増やしても改善しないことを挙げ、「事件当時から慢性的な精神疾患なのは明らか」と主張。審理を高裁に差し戻し、再度の精神鑑定を行うよう求めた。
対する検察側は、「直接の証拠を残さずに4回もの犯行を繰り返している。犯行当時、病的な精神状態だった形跡はない」と反論した。
2006年1月17日の判決公判で、最高裁は上告を棄却し、宮﨑被告の死刑が確定した。裁判長は「宮﨑被告に責任能力があるとした一審・二審の判決は正当として是認できる。自己の性的欲求を満たすための犯行で、動機は自己中心的で非道。酌量の余地はない」と断罪した。
面会にて、臨床心理士の長谷川博一氏が死刑が確定したことを伝えると、宮﨑は「何かの間違い」「無罪になる」と動揺せず、「残忍だと勘違いされた」せいだと答えた。そして「本当は、私は優しい人間だと、(世間に)伝えてほしい」と言ったという。