「制服警官女子大生殺人事件」の概要
1978年(昭和53年)1月10日、東京都世田谷区で現職警視庁警察官による殺人事件が発生した。
松山純弘巡査(当時20歳)は、ある女子大生に好意を寄せて覗き見をくり返していたが、ポルノ映画を見た興奮からこの女子大生に強姦することを決意。巡回連絡を装い部屋に侵入して襲いかかり、あげくの果てに殺害してしまう。
この事件は「警視庁始まって以来の汚点」とされ、当時の警視総監が引責辞任する一大警察不祥事に発展した。
事件データ
犯人 | 松山純弘(当時20歳) 読み:まつやま すみひろ |
犯行種別 | 強姦殺人事件 |
犯行日 | 1978年(昭和53年)1月10日 |
犯行場所 | 東京都世田谷区経堂2丁目 |
被害者数 | 1人死亡 |
判決 | 無期懲役 |
動機 | 強姦目的 |
キーワード | 現職警察官 |
「制服警官女子大生殺人事件」の経緯
1977年夏、警視庁巡査・松山純弘(当時20歳)はパトロール中に偶然見かけた女性に好意を寄せるようになる。その女性とは清泉女子大学4年生の長谷川優子(22歳)さん、背の高い美人の女性だった。彼女は東京・世田谷区経堂2丁目のアパート「東荘」で一人暮らしをしていたが、すでに婚約者がいた。
松山は長谷川さんのことを見初めて以来、たびたび部屋を覗きに行くようになった。長谷川さんもそれに気づいて、婚約者に「若い警官にしょっちゅう部屋を覗かれている」と相談を持ちかけていた。
年が明けた1978年1月8日、松山は新宿歌舞伎町にポルノ映画を見に行った。その興奮から長谷川さんのことが頭から離れなくなってしまう。今までのように「見るだけ」ではなく、それ以上の行為を望んでしまったのだ。
それでも普通なら想像する程度で終わるものだが、松山は違った。翌9日の勤務中、彼は犯行を決意するのだ。松山は「制服姿で巡回にきたといえば信用してもらえる」と考え、10日午後に長谷川さんのアパートに向かった。
到着すると長谷川さんの部屋の両隣が留守なのを確認してから部屋のドアをノック、派出所から巡回連絡に来た事を告げて、ドアを開けさせた。
松山巡査は話をしながら部屋の様子を確認した。そして彼女以外に誰もいないことがわかると、突然部屋に押し入り内側から鍵をかけた。驚く長谷川さんを強姦しようと襲いかかった松山に、彼女は必死に抵抗する。その手が窓に当たってガラスが割れた。この音でアパートの住人に気付かれたと思った松山は、口封じのためストッキングで首を絞めて長谷川さんを殺害してしまう。
殺害後、長谷川さんを強姦したうえで強盗に見せかけるために長谷川さんの服をタンスから部屋にまき散らし、さらに財布から8650円を盗んだ。
身支度を終えて部屋を出ようとした時、松山はガラスの割れ目から家主の女性が部屋を覗いているのに気づいた。彼はとっさに第1発見者を装い、「女性が殺されている。至急110番してください」と依頼。家主が通報している隙に松山はその場を離れ、経堂駅前派出所の勤務に戻った。
制服姿で殺害
通報を受けて駆け付けた北沢署員が見たのは、窓際のベッドの下に倒れている長谷川さんの姿だった。彼女は暴行されたうえにストッキングで絞殺されており、部屋には物色された形跡もあった。
北沢警察署は殺人事件として特別捜査本部を設置した。
その後の捜査で、第一発見者は家主ではなく「若い警察官」で、家主はその警察官に頼まれて通報したことがわかった。そしてその警察官とは、この事件の捜査にも加わっていた松山巡査であることが判明する。
松山巡査は事情聴取に対し、「1月10日午後4時半頃、現場アパート近くをパトロール中にガラスの割れる音を聞いたので駆け付けたところ、長谷川さんの遺体を発見した」と話した。
しかし、この供述には大きな矛盾点があった。勤務中の警官なら、被害者を発見した時点で無線で署に知らせるのが普通である。それをわざわざ民間人に110番通報させたというのは、どう考えてもおかしい。
ほかにも時間が合わなかったり、話が二転三転することから、不審に思った取調官が松山巡査を追及し始めた。家主が言うには、事件発見時の松山巡査は服装がかなり乱れており、制服のボタンがちぎれていたという。松山巡査は犯行を否定していたが、顔のひっかき傷を指摘されると犯行を認めた。ひっかき傷は長谷川さんを襲った時、抵抗されて付いたものだった。
松山巡査は逮捕されるとともに、即日懲戒免職となった。
さらに調べを進めると、制服から長谷川さんと同じ血液型が検出された。松山巡査はパトロール中に住人不在の部屋を見つけると、侵入して現金などを盗む空き巣も数件行なっていた事が発覚した。
犯人・松山純弘について
松山純弘は1957年(昭和32年)1月28日、鹿児島県指宿市小牧で生まれた。実家は理髪店を営んでいた。
学性時代から素行は悪かった。中学3年の時に洋品店に盗みに入り、高校1年の時にはタバコを吸って停学、バイクの無免許運転で家庭裁判所送致となっている。高校3年の時にはバイク事故や不純異性交遊も起こした。
指南西中学を経て指南商業高校に進学。卒業後は警察官になるために上京し、警察学校で1年間訓練したのちに警視庁北沢署に配属された。警察官になってからも、国士舘大学経済学部2部に通学した。
警察寮に住んでいたので家賃など生活費はあまりかからなかったが、性風俗やキャバレー通いなどで給料の大半は消えていった。そしてそんな遊興費を稼ぐため、パトロール中に空き巣をくり返していたという。
制服姿で民家を訪れ、家人がいれば家族構成などを尋ねるなどして立ち去るが、留守の場合は中へ入り物色。こうした窃盗事件が5件、盗んだクレジットカードで買い物・飲食をする詐欺事件も23件あった。
事件を起こしたのは1978年1月10日、当時は経堂駅前派出所に配属されていた。
裁判で無期懲役が確定し、現在も千葉刑務所に服役中である。
刑務所で精神を病んだ?
「31年ぶりにムショを出た―私と過ごした1000人の殺人者たち」という本の中で著者の金原龍一氏が松山純弘について記述している。
金原氏は1976年にギャンブルで莫大な借金を背負い、知人に借金を断られて逆上、知人を殺害して強盗殺人罪で無期懲役判決を受けた。この本は出所するまでの31年間の刑務所生活について書かれており、その間に出会ったムショ仲間として松山純弘も登場する。
これによると松山は刑務所で精神を病み、千葉刑務所と八王子医療刑務所を行ったり来たりしているという。
私は千葉刑務所に入ってすぐ松山と話す機会があったが素人目にも明らかに精神に変調をきたしているようだった。
「ふ、ふ、富士山に、ぶ、ぶ、ブタが、と、と、とんでいるみたいです・・・・」案の定というべきか、その後まもなく松山は八王子に送られた。「かわいそうだが、あいつはもうだめかもしれんな・・・」みな、口々にそう言ってた。ところが10年くらいして再び千葉の工場で松山を見たときは本当に驚いた。
「おい、ワシのこと覚えとるか?お前八王子から戻ってきたんか?」私が声をかけると「は、は、ハイ・・・も、もう、あ、あそこ行きたくあ、あ、ありませんよ」ドモリのほうはますます酷くなっていたが、わけのわからない発言はなくなっていた。
「ぼ、僕にはもう、ま、孫がいますよ・・・・」「ええっ?お前、孫がいるん?」事件当時の松山は20歳で、もちろん独身だった。だから「孫がいる」というのはおそらく本人の夢か希望だろう。いや、彼が孫を夢見る年齢になったということなのかもしれない。
何しろあれから30年以上経っているのだ。
事件の影響
「制服姿の現職警察官」が勤務中に起こしたこの事件は、世間や警察関係者に大きな衝撃を与えた。警察は交番勤務警察官の「巡回連絡」を暫く中止している。
1978年1月19日、国家公安委員会と警視庁は上司の監督責任を問い、当時の警視総監・土田國保を減給処分、警視庁幹部3名も処分された。また、北沢署の署長も引責辞任した。
警視総監の処分はこれが戦後初めてのケースだった。土田國保警視総監は、1978年2月に引責辞任している。
犯人の松山純弘元巡査は、一審の東京地方裁判所で求刑死刑に対し無期懲役の判決を受けている。松山は控訴するも1982年11月、東京高等裁判所で棄却。上告は取り下げたため、無期懲役が確定した。
また、東京都の公務員が職務中に起こした犯罪ということで、東京都は国家賠償法に基づき、長谷川さんの遺族に4360万円余りの損害賠償金を支払った。