再審で無罪が確定した死刑囚は4人ですが、いずれの事件も警察による不正がありました。
「暴力や拷問による自白の強要」、「証拠の捏造」、「警察と癒着した証拠鑑定人」など、一度目を付けられると、どうあがいても死刑判決から逃れることができなかったのです。
ここに紹介する4人は最終的に無罪となりましたが、本人もその家族も取り返しがつかないほど人生を大きく狂わされてしまいました。それでも4人はまだいいほうで、無実を信じてもらえないまま生涯を終えたケースもあったかもしれません。
現在、袴田事件で死刑が確定した袴田巌さんの再審が行われている。再審開始を決定した裁判長が「捜査関係者による証拠捏造の可能性」に言及したことが大きな話題となった。袴田さんは5人目の再審無罪となる可能性が高いとみられている。
免田栄さん|免田事件
1948年12月29日 | 免田事件発生 |
1949年1月13日 | 別件逮捕 |
1950年3月23日 | 第一審・死刑判決 |
1951年3月19日 | 控訴審・死刑判決 |
1951年12月25日 | 最高裁・死刑確定 |
1980年12月11日 | 再審開始決定 |
1983年7月15日 | 差し戻し一審・無罪 |
1983年7月28日 | 無罪確定 |
1948年(昭和23年)12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(夫76歳、妻52歳)が殺害される事件が発覚した。夜警に出ていた祈祷師の四男が自宅前を通りかかった際、うめき声に気づいたのだ。夫婦の14歳と12歳の娘2人も重傷を負わされ、現場からは現金も盗まれていた。
犯行時刻は12月29日深夜から翌12月30日午前3時の間とみられた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現・あさぎり町)に住む免田栄さん(当時23歳)を玄米一俵の窃盗容疑で逮捕したが、実際は「祈祷師一家殺傷事件」への関与を疑われた別件逮捕だった。
警察は免田さんに拷問と脅迫を加え、自白を強要する。追い込まれた免田さんが犯行を認めたため、1月16日、祈祷師一家4人への強盗殺人などの容疑で再逮捕した。
免田さんは取り調べの過酷さを、「睡眠を与えられずぶっ続けで調べられた」「アリバイを主張すると捜査員に床に蹴倒され、踏んだり蹴ったりの暴行を受けた」「真冬に暖房のない部屋でシャツ一枚で取り調べを受け、寒さのあまり体が硬直して言葉も出ない状態だった」などと語っている。
1月28日、免田さんは起訴され、2月17日から裁判が始まった。すると免田さんは一転して犯行を否認し、「事件当日は特殊飲食店の女性と一緒にいた」とアリバイを主張。しかし、これは認められず、1950年3月23日の第一審判決は死刑だった。
日本初、死刑囚の再審無罪
その後の控訴・上告も棄却され、1951年12月25日に最高裁で免田さんの死刑が確定する。免田さんは無実を訴え再審請求をくり返すも、いずれも棄却されてしまう。だが、第6次再審請求の棄却に対する抗告審にて、福岡高裁がこれを取り消して再審を開始する決定を行った。さらに最高裁が検察側の特別抗告を棄却して、再審公判が始まった。
免田さんは、再審請求中に国を相手に、「無罪を裏付ける重要な証拠である鉈、マフラー、手袋等の重要証拠の返還」を求めて提訴したが、国は「紛失した」として返還を拒んだ。
再審公判では、免田さんが主張する事件当日のアリバイが認められた。また、「捜査段階の自白」、「検察側の新証人の証言」、「警察の血液鑑定」について、いずれも信用できないとされた。免田さんは死刑判決から実に34年振り57歳にして釈放された。
その後、検察側が控訴を断念したため無罪が確定。死刑囚が再審で無罪になるのは、この事件が初めてだった。だが免田さんは釈放後も、いわれなき誹謗中傷に苦しめられたという。「元死刑囚」の烙印は簡単には消えず、世間の目は厳しいものだった。職にも就けず、街では視線をそらされ、中傷の手紙や電話も続いたという。
そんな免田さんは2020年12月5日、老衰のため入所していた高齢者施設で他界した。(享年95歳)
免田さんは「自分が犯人にされたのは、人吉警察署の益田刑事が売春の手伝いをしているのを知ってしまったから」だと主張していた。
谷口繁義さん|財田川事件
1950年2月28日 | 財田川事件発生 |
1950年4月1日 | 別件逮捕 |
1952年2月20日 | 第一審・死刑判決 |
1956年6月8日 | 控訴審・死刑判決 |
1957年1月22日 | 最高裁・死刑確定 |
1979年6月7日 | 審理差し戻し決定 |
1984年3月12日 | 差し戻し一審・無罪確定 |
1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現・三豊市)で、闇米ブローカーの男性(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
その後1ヶ月間、捜査に進展はなかったが、4月1日、隣町の三豊郡神田村で農協強盗事件が発生し、谷口繁義さん(当時19歳)と他1人の男性が逮捕された。警察はこの2人を闇米ブローカー男性殺害の容疑で取り調べを始めるが、ひとりはアリバイが証明されて釈放となった。
しかし、谷口さんのアリバイには疑惑があるとして、取り調べは続けられた。谷口さんは約2ヶ月間、足を縛られ手錠をしたまま長時間正座させられたり、食事を減らされるなどの拷問を受け、やってもいない犯行を自白。8月23日に起訴となった。
1950年11月6日の高松地裁の初公判で、谷口さんは「自白は拷問によるもの。アリバイも成立する」として冤罪を主張した。対する検察側は、(谷口さんが)犯行時に着用したとするズボンに「被害者と同じO型の血痕が付着している」と有罪を主張したが、これは取り調べ中にはまったく出ていない話であった。
この血痕鑑定は、当時日本の法医学の ”権威” であった古畑種基東京大学教授によるものであったが、実際の検査は大学院生が行っていた。古畑教授は、捜査側に都合のよい鑑定ばかりを出す「御用学者」とも評されていた。
この物的証拠は弁護側から谷口の衣類押収の際に捏造されたものと指摘されたが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明である。
この「物的証拠」と「捜査段階の自白」が信用できるとして、1952年(昭和27年)2月20日、高松地裁は死刑を言い渡した。被告側は控訴したが1956年(昭和31年)6月8日に棄却され、1957年(昭和32年)1月22日、最高裁も上告を棄却し、谷口さんの死刑が確定した。
死刑確定後、谷口さんは死刑設備のある大阪拘置所に移送された。その後、高松地検が「死刑執行起案書」の作成に必要な記録を紛失したため、谷口さんの処刑は無期限延期の状態となった。
一方、谷口さんは1964年(昭和39年)に、新しい鑑定技術が開発されたことを知り、「ズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」との内容の手紙を高松地裁に出した。その手紙は放置されていたが、5年後(1969年)、高松地裁の矢野伊吉裁判長によって発見された。
矢野裁判長は再審に乗り出したが、開始直前に強い反対運動が起こり、暴言を受けるなどしたため裁判長を辞職。谷口さんの弁護人となって、新たに再審請求をおこなった。
審理は差し戻しへ
再審請求に際して、矢野弁護士は以下のような主張をした。
- 長期勾留と拷問による自白強要
- 捜査機関が自白調書を不正作成している
- 犯行を告白した手記は偽造(漢字がほとんど書けず、作文能力も稚拙な谷口さんが書いた文章とは思えない)
- 物的証拠を捏造している
- 高松地検による公判不提出捜査記録の破棄
- 「弟と一緒に就寝していた」とのアリバイがある(親族の証言のため不採用)
1976年(昭和51年)10月12日、最高裁は「谷口さんの自白に矛盾がある」として、審理を高松地裁に差し戻した。1979年(昭和54年)6月7日、高松地裁は再審開始を決定し、これに対する検察側の即時抗告を1981年3月14日に棄却。こうして再審が始まった。
再審公判では、谷口さんは改めて「自白は拷問によるもの」と訴え、矢野弁護士は自白と現場検証の矛盾を突いた。また、東大の教授が「谷口さんの衣類に別の血痕が混じっている」ことを新技術により解明、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また、捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。
再審にて無罪確定
1984年(昭和59年)3月12日の判決で、高松地裁は谷口さんに無罪を言い渡した。
判決理由は「被告人の自白は真実ではないとの疑いがある」「唯一の物的証拠であるズボンも、事件当日に着用していた証拠はない」と説明。谷口さんは獄中生活34年目にして釈放となり、故郷の財田町に戻った。
その後、検察側は控訴を断念したため、谷口さんの無罪が確定した。
矢野弁護士は無罪判決を聞くことなく、1983年3月に他界している。(享年71)
その後も谷口さんは財田町で暮らしていたが、2005年3月、脳梗塞などを患い香川県琴平町の病院に入院。同年7月26日に心不全のため死去した。(享年74)
本事件の捜査を担当した元特別高等警察出身の警察官らは、1946年に発生した殺人事件「榎井村事件」も手がけていたが、こちらも1994年に再審無罪となっている。
赤堀政夫さん|島田事件
1954年3月10日 | 島田事件発生 |
1954年5月24日 | 別件逮捕 |
1958年5月23日 | 第一審・死刑判決 |
1960年2月17日 | 控訴審・死刑判決 |
1960年12月26日 | 最高裁・死刑確定 |
1983年5月23日 | 審理差し戻し決定 |
1986年5月30日 | 再審開始・死刑の執行停止を決定 |
1989年1月31日 | 差し戻し一審・無罪判決 |
1989年2月10日 | 無罪確定 |
1954年(昭和29年)3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で、卒園記念行事の際中に佐野久子ちゃん(当時6歳)の行方がわからなくなり、その3日後、大井川南側の山林で遺体で発見された。久子ちゃんには暴行された形跡があり、胸部を何かの凶器で殴られ殺害されていた。
1954年5月24日、岐阜県稲葉郡鵜沼町(現・各務原市)で静岡県警が重要参考人とみていた赤堀政夫さん(当時25歳)が職務質問され、正当な理由も無く身柄を拘束された。赤堀さんには軽度の知能障害と精神病歴、また窃盗の前歴も2回あった。
静岡県警の紅林麻雄警部補らは、赤堀さんを窃盗で別件逮捕し、密室で拷問を行うことで久子ちゃん殺害の自白を強要した。その苦痛から逃れるため、赤堀さんは身に覚えのない犯行を認めてしまった。
紅林麻雄警部補は静岡県警の警察官で、無実の人に拷問をくわえて自白を強要することで、数々の冤罪事件を生み出した人物である。(くわしくはコチラ)
1954年7月2日の第一審初公判で、赤堀さんは自白は拷問によるものと訴え、「自分はこの事件に関していかなる関与もしていない」と無実を主張。しかし、1958年(昭和33年)5月23日、静岡地裁は赤堀さんに死刑を言い渡した。
赤堀さんは控訴するも、1960年(昭和35年)2月17日に東京高裁はこれを棄却、同年12月5日には最高裁も上告を棄却したため、12月26日、赤堀さんの死刑判決が確定した。
審理差し戻しを決定
赤堀さんは、1961年(昭和36年)8月17日に初めての再審請求をして以降、計4回の再審請求を行うもいずれも棄却された。しかし、第4次再審請求棄却に対する即時抗告にて、東京高裁は1983年(昭和58年)5月23日付で静岡地裁に審理を差し戻すことを決定した。
1986年(昭和61年)5月30日、静岡地裁は、「遺体の状況から、自白には信用性や真実性に疑問が残る」などの理由から、再審開始と死刑の執行停止を決定。これに対し、検察側は即時抗告したが、1987年(昭和62年)3月25日に棄却され、最高裁に特別抗告しなかったため、再審開始が決定した。
再審は1987年10月19日から計12回の公判が開かれ、1988年8月9日に結審した。そして1989年1月31日の判決で、静岡地裁は赤堀さんに無罪を言い渡した。赤堀さんはこの日の12時過ぎ、逮捕以来34年8か月ぶりに釈放された。静岡地検は1989年2月10日に「無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」として控訴を断念、赤堀さんの無罪が確定した。
齋藤幸夫さん|松山事件
1955年10月18日 | 松山事件発生 |
1955年12月2日 | 別件逮捕 |
1957年10月29日 | 第一審・死刑判決 |
1959年5月26日 | 控訴審・死刑判決 |
1960年11月1日 | 最高裁・死刑確定 |
1979年12月6日 | 再審決定 |
1984年7月11日 | 差し戻し一審・無罪確定 |
1955年(昭和30年)10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼する火災が発生した。焼け跡からこの家に住む男性(当時54歳)、その妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)、長男(当時6歳)の一家4人の焼死体が発見された。
司法解剖の結果、長男を除く3人の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置された。しかし捜査は進展を見せず、1ヶ月後には行き詰ってしまう。そこで、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、東京都板橋区に勤務する斎藤幸夫さん(当時24歳)が浮上した。
仕事が長続きせず、親から貰う小遣いで遊んでいた斎藤さんには、悪い評判が囁かれていた。警察は「金に困った斎藤が、強盗目的で事件を起こした」と決めつけたのだ。12月2日、警察は斎藤さんの身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を ”傷害事件” として扱い、実際は東京で働いているのに、これを ”逃走” とみなして逮捕状を請求、別件逮捕に踏み切った。
それから斎藤さんに対する、拷問まがいの取り調べが始まった。連日の厳しい取り調べに斎藤さんの心は折れていく。やがて、同房者から「やったことにして裁判で本当のことを言え」と吹き込まれたのがきっかけで、斎藤さんは犯行を認めてしまう。
12月8日、警察は強盗殺人・放火の疑いで斎藤さんを逮捕、12月30日に起訴した。斎藤さんは裁判で事実を話せば、無実が証明されると信じていた。しかし、仙台地裁は自白を強要したことを隠した警察の言葉を信じ、1957年(昭和32年)10月29日、死刑判決を言い渡す。
決定的だったのは、斎藤さんの家から血痕のついた掛け布団が押収されたことであった。だが、これは当然ながら斎藤には身に覚えのないことだった。その後、1959年(昭和34年)5月26日、仙台高裁が控訴を棄却、1960年(昭和35年)11月1日に最高裁が上告を棄却し、死刑が確定した。
無罪を訴え再審請求
斎藤さんは無罪を訴えて再審請求を開始したが、第1次請求は棄却される。しかし、家族や支援者はあきらめず、特に母親のヒデさんは、老体にもかかわらず毎日のように街頭で息子の無実を訴え、法務大臣との面会も実現させる。
事件を担当した刑事たちは順調に出世しており、中には勲章を授かった者すらいた。ヒデさんはそんな刑事たちのもとを訪れ、証言を撤回するように迫った。そんな苦労が報われたのか、第2次再審請求が認められ、1979年(昭和54年)12月6日に再審が決定する。仙台高裁も1983年に検察側の即時抗告を棄却して再審開始が確定、同年7月から再審公判が開始された。
再審公判において、「掛け布団の血痕」も再検証された。すると、押収後の日時によって血痕の数が異なっているうえ、形状にも不審点があることが明らかになる。そもそも掛け布団は、斎藤さんの兄弟の物だと家族は主張し続けていた。
掛け布団の鑑定は、法医学の権威だった古畑種基東京大学教授と三木敏行(古畑の一番弟子)によって行われていたが、古畑が関わった複数の事件で冤罪が発覚し、信憑性は落ちていた。
違和感に満ちた自供テープも公開され、さらに「取り調べで罪を認めても、裁判で否定すれば無実が証明される」と吹き込んだ前科5犯の同房者が、警察のスパイだったことも判明する。
1984年(昭和59年)7月11日、差し戻し審判決は無罪。斎藤さん(当時53歳)は28年7ヶ月にもおよぶ獄中生活から釈放され、7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消えた。
その後、斎藤さんは故郷に戻り、一時期は仙台市の弁護士事務所で働くなどした。やがて、鹿島台町の自宅に戻り、清掃員などをしながら母親のヒデさんと暮らした。「アムネスティ日本支部」などの団体で講演活動もしていたが、死刑囚として過ごした間の年金は支給されず、晩年は生活保護を受給していた。
2006年7月5日、斎藤さんは多臓器不全のため他界。(享年75)母親のヒデさんも2008年12月24日、101歳で入所先の施設で死去した。