「大阪心斎橋通り魔殺人事件」の概要
2012年6月10日、大阪・心斎橋の繁華街で男女2人が無差別に殺害される事件が発生した。
「人を殺せば死刑になれると思った」逮捕直後はそう話していた犯人・礒飛京三(当時36歳)だったが、裁判員裁判で希望通りの死刑判決が下されると、一転して「死刑は怖い」と控訴した。死刑回避のためか、遺族に謝罪文も送りつけた。
そして迎えた控訴審判決で、大阪高裁は死刑を破棄。最高裁もこれを支持したため、無期懲役が確定した。”覚醒剤後遺症による幻聴が原因”、 ”計画性のない衝動的な犯行” というのが死刑破棄の理由とされた。
事件データ
犯人 | 礒飛京三(当時36歳) 読み:いそひ きょうぞう |
犯行種別 | 通り魔殺人事件 |
犯行日 | 2012年6月10日 |
場所 | 大阪府大阪市中央区「心斎橋」 |
被害者数 | 2人死亡 |
判決 | 無期懲役 |
動機 | 覚醒剤の幻聴に従った |
キーワード | 覚醒剤後遺症、幻聴 |
事件の経緯
覚醒剤取締法違反の罪で1年10か月の実刑を受けた礒飛京三(当時36歳)は、2012年5月24日、新潟刑務所を満期で出所した。その足で宇都宮市に行き、以前働いていた内装業の経営者に電話で再雇用を頼んだが断られてしまう。その代わり、別の就職先を紹介してくれたが、礒飛はその気にならなかった。
昼過ぎ、礒飛は宇都宮保護観察所を訪れた。刑務所を満期出所した礒飛には、ここを訪ねる義務はなかったが、寝泊りする場所を求めてやってきたのだ。応対した職員がいくつかの更生保護施設に連絡したがどこも満室で、最終的に薬物依存者を支援する民間団体『ダルク』が受け入れを了承した。
礒飛は19歳で覚醒剤の使用を始め、そのせいで幻聴や妄想などの症状に苦しむようになった。そのため、刑務所では向精神薬を処方されていた。
ダルクとは、1985年に作られた日本初の薬物依存症者の回復のための施設。(一時期、元タレントの田代まさしが世話になったことで広く知られるようになった)
翌25日、山深い場所にある那須町のダルク施設に入所した。しかし、施設には「外出禁止」、「通帳・印鑑、キャッシュカードは預ける」などの厳しい規則があり、これに承服できない礒飛は6月8日に同施設を退所。同日午後1時頃には那須塩原市で漬物店を営む親戚宅へ出向き、働かせて欲しいと頼んだが「店は暇だから」と断られた。
親戚はとりあえず自宅に招き入れ、礒飛の兄たちと電話で連絡を取らせたが、長兄からはダルクに戻るよう言われただけで迎えにも来てくれなかった。午後8時頃、落胆した様子の礒飛を近くのホテルまで車で送り、3万円を手渡した。
仕事を求めて大阪へ
礒飛は過去に刑務所で知り合ったAから「一緒に仕事をしよう」という手紙を受け取っていたことから、大阪にいるAを頼ることにした。翌9日、大阪まで出向いた礒飛はAやその知人と合流し、仕事の内容を聞いたところ、どれも違法で怪しげなものばかりだった。
10日未明まで彼らと行動を共にしていた礒飛だったが、そのうち「刺せ、刺せ」という幻聴が聞こえ始めた。午前3時頃、A宅で寝ようとしても眠れなかった礒飛は、「自殺しようか、栃木に帰ろうか、声に従おうか」と考えを巡らせていた。すると、「刺せ」という声はさらに強くなっていき、午前10時過ぎに体を起こすと、今度は「包丁を買え」という幻聴が聞こえてきた。
Aらが外出してひとりになると、礒飛は「自殺したい」との思いが強くなったりもしたが、やがて「栃木に帰って生活保護を受けよう」という気持ちになり、昼過ぎにA宅をあとにした。付近のコンビニATMで、ほぼ全額の17万円を引き出し、しばらくすると再び自殺願望が湧き上がってきたため、デパートで包丁1本を購入した。
デパートを出て自殺するのに適当な場所を探していると、ちょうど良さそうな路地があった。その場所で礒飛は包丁を取り出し、刃先を腹に向けたものの、やはり自分を刺すことはできなかった。
自殺をあきらめて再び歩いていると、頭の中の「刺せ、刺せ」という声は次第に激しくなっていった。
無差別に男女2人を殺害
礒飛は「自殺もできないし、いっそのこと声に従おう」と考えて心斎橋通りを西に進み、大阪市中央区東心斎橋の路上で紙袋から包丁を取り出した。そして午後1時頃、礒飛はたまたま通りかかった音楽プロデューサーの南野信吾さん(当時42歳)をターゲットに決め、いきなり無言で襲い掛かった。
南野信吾さんは1996年、所属していたロックバンドがエピックソニーと契約してメジャーデビューを果たした。解散後はソロ活動やバンド活動を経て、2007年に入った会社の音楽部門でレーベルマスター兼プロデューサーを務め、ニトロプラスがリリースするゲームソフトの音楽を担当した。
事件当日は、心斎橋のライブハウス「ミューズホール」で開催される ”レーベル発足5周年記念ライブ” を訪れるため、居住している東京都東久留米市から来阪していた。
南野さんは助けを求めたが、礒飛はそのまま何度も刺し続けた。続いて、礒飛は逃げる群衆の中から自転車を押して歩いている飲食店経営の佐々木トシさん(当時66歳)に狙いを定めた。近くにいた会社員が「危ない!逃げろ!」と声をかけたが、礒飛は逃げようとする佐々木さんを背後から何度も刺した。
佐々木さんが動かなくなると、まだ息のある南野さんに馬乗りになり、再び刺し続けた。そこへ駆けつけた警察が「やめろ、道に伏せろ」と叫ぶと、礒飛は抵抗することなく道に伏せた。
警察が事情を聞いたところ、礒飛は「人を殺せば死刑になれると思った。誰でもいいから刺したかった」と2人を刺したことを認めたため、殺人未遂容疑で現行犯逮捕された。(その後、殺人容疑に切り替えられた)
礒飛京三の生い立ち
礒飛京三は1975年6月21日、栃木県那須塩原市で材木商を営む両親の三男(3人兄弟)として生まれた。礒飛が幼い頃に母親が亡くなり、10歳以上歳の離れた兄2人も独立したため、小学校以降は父親と暮らしていた。
礒飛は小学校に上がった頃から、自分の言い分が通らないと大声を出したり、乱暴するようになった。中学校でも言動が荒かったが、それでも1年生の時は勉強や部活動に熱心に取り組んでいた。しかし2年生になると不良と行動を共にして、喫煙や窃盗などの問題行動をするようになった。さらに3年生の頃にはシンナーの吸引を始めた。
高校に入学して間もなく、校内暴力などで謹慎処分を受け、その頃から毎日のようにシンナーを吸うようになった。さらに16、17歳からは大麻の使用も始めた。17歳の時(1992年9月)にはシンナーや傷害の事件で検挙され、保護観察の処分を受けた。ちょうどその頃、交際していた女性と同棲を始めたが、女性に殴る蹴るなどのDVを毎日のように振るっていた。
礒飛は高校1年の夏休みから内装のアルバイトを始め、その後すぐに高校を中退。内装の仕事は真面目だったが、暴走族に入って18歳で総長となっている。そして暴走族を引退した19歳頃、暴力団組員となって覚醒剤を常用し始めた。
20歳の時に交際女性が妊娠し、21歳で父親になったことから女性と入籍した。だが、その後も女性に対する暴力をやめなかったため22歳で離婚。23歳の時、父親が倒れて入院したことがきっかけで、再び父親と同居するようになった。その頃から、また内装業の仕事を再開した。
覚醒剤で妄想・幻聴が…
25~26歳の時、やめていた覚醒剤を再び始め、次第に使う頻度が増えていった。すると、その影響からか礒飛に妄想や幻聴の症状が現れ始める。
妄想の内容は「暴力団〇〇会の総裁は自分のおじであり、裏で日本を支配している。自分はそんな『偉大なる不二家(ふじけ)』の跡目である」といったもので、のちの裁判(第一審)まで続いていた。
28歳頃からお経や子供の泣き声などの幻聴が聞こえるようになり、さらには「腕立て伏せをしろ」「下の部屋に行け」という自身に対する命令が聞こえるようになった。礒飛は、この幻聴が覚醒剤のせいだと自覚していながら、これから逃れようと覚醒剤の量を増やしていった。
礒飛は父親とアパートの2階に住んでいたが、30歳の時(2006年8月)「下に行け」という幻聴が聞こえたことから、1階住民の部屋に押しかけ通報された。その際、覚醒剤使用が発覚したため、同年4月には「覚醒剤使用および所持の罪」で懲役1年6か月(執行猶予3年)の判決を言い渡された。
執行猶予が付いたため自宅アパートに戻ることができたが、1か月半後には覚醒剤を再開。6月には「物音や叫び声がうるさい」と1階の部屋に苦情を言って騒いだため、またもや住民に通報された。この時も覚醒剤の使用が発覚し、9月には懲役1年4か月の実刑判決を受けた。この服役中、喧嘩が原因で懲罰を5回受けている。
納得のはずの”死刑”に控訴
2009年6月、服役を終えて出所すると再び内装業の仕事に就いたが、翌2010年5月初めにまたもや覚醒剤を使用するようになる。そして5月15日には「下の部屋に行けば不二家のことについて話が通っている」という幻聴に従い1階の部屋に押しかけたところ、「警察を呼ぶ」と言われて車で逃走。さらに「市役所に行け」という ”声” を聞いて市役所へ向かった。
幻聴の内容は「市長に会えば、父親の事で話が通っている」といったものだった。そこで、警備員に市長に会わせるよう求めたが、拒否されたため警備員を暴行して逮捕となった。そして2011年8月、懲役1年10か月の実刑判決を受けて、新潟刑務所で服役することとなった。服役中、礒飛は向精神薬を処方されていた。
2012年5月24日、36歳の礒飛は満期で刑務所を出所したが、その約2週間後となる6月10日、本事件を起こした。『自分にふさわしい刑は死刑』として臨んだ一審(裁判員裁判)判決は死刑だったが、控訴審で大阪高裁がこれを破棄して無期懲役となる。その後、最高裁が支持したため、礒飛の無期懲役が確定した。
控訴審において、遺族(南野信吾さんの父親)から「『死刑がふさわしい』と言っておきながら、なぜ控訴したのか?」と質問された礒飛は、「ふさわしいが、死刑になるのは怖い」と答えている。
裁判で無期懲役に
2015年5月25日、大阪地裁で裁判員裁判の初公判が開かれた。争点は「刑事責任能力の程度と量刑」に絞られた。礒飛京三被告は、起訴内容を認め「『刺せ』という幻聴に従おうと思った」と動機を説明したうえで、「取り返しのつかないことをした」と謝罪した。
6月18日、検察側は「幻聴の影響は乏しく、完全責任能力があった」と説明、「殺人の中でも悪質で残虐性が高く結果も重大」として礒飛被告に死刑を求刑した。一方、弁護側は「覚醒剤の後遺症による幻聴に強く影響された。犯行当時は心神耗弱状態だった」と反論し、死刑回避を求めた。
2015年6月26日、大阪地裁は「無差別殺人は極めて残虐で、死刑を回避する理由が見いだせない」として、求刑どおり礒飛被告に死刑判決を言い渡した。
裁判長は「礒飛被告には犯行当時、覚醒剤使用の後遺症による幻聴があった」と認めながらも、その影響は限定的で完全責任能力があったと判断した。
公判中、「自分にふさわしい刑は死刑しかないと思う」と述べていた礒飛だったが、判決後に「死刑が怖くなった」という理由から控訴した。
死刑判決を破棄
2017年3月9日の控訴審判決で、大阪高裁は「自己中心的ではあるものの、精神障害の影響を認めるとともに、これまでに死刑判決が適用された無差別通り魔殺人とは異なる」として一審の死刑判決を破棄、礒飛被告に無期懲役を言い渡した。
裁判長はこの判断について、「凶器を購入したのは犯行直前で、犯行の計画性は低く、精神障害の影響も否定できない」と説明。幻聴の影響に加え、計画性の低さを重視し「死刑が究極の刑罰で真にやむを得ない場合に限って許されるという基本原則を適用すると、死刑の選択は躊躇せざるを得ない」と述べた。
この判決に対し、傍聴席からはブーイングのようなどよめきが起きた。その後、検察側・弁護側ともに最高裁判所に上告した。
最高裁で無期懲役確定
2019年12月2日、最高裁は検察・弁護側双方の上告を棄却。これで礒飛被告の無期懲役判決が確定した。
裁判長は、無差別殺人の残虐性と刑事責任の重さは認めつつ、「二審判決が甚だしく不当とは言えない」との判断を示した。また、本事件が覚醒剤中毒の後遺症による幻聴が原因の ”計画性のない衝動的な犯行” であったことからも、「生命軽視の度合いが甚だしく顕著だった、とまでは言えない」と結論付けた。
第一審の裁判員裁判で死刑判決が出たのは、本事件が6例目だったが、そのすべてが上告で死刑判決が破棄されている。