富山・長野連続女性誘拐殺人事件
1980年、富山県・長野県で若い女性2人が相次いで失踪する事件が発生した。
犯人は宮崎知子(当時34歳)。身代金目的で被害者を言葉巧みに誘い、赤いフェアレディZに乗せて誘拐していた。そして、睡眠薬で眠らせて殺害、そのうえで身代金を奪おうと計画するも失敗。
彼女は逮捕され、裁判では犯行を否認して交際相手の男に罪を着せようとするが、これも失敗。結局、死刑判決が下された。
事件データ
犯人 | 宮崎知子(当時34歳) |
事件種別 | 連続殺人事件 |
発生日 | 1980年2月25日、3月5日 |
発生場所 | 富山県・長野県 |
被害者数 | 女性2人 |
判決 | 死刑:名古屋拘置所に収監中 |
動機 | 身代金目的 |
キーワード | 誘拐、赤いフェアレディZ |
事件の経緯
交際相手と共同で始めた事業もうまくいかず、借金の返済に窮していた宮崎知子。手っ取り早く大金を手に入れようと考えた宮崎は、保険金殺人などを試みるも失敗する。
そこで次に考えたのが、若者をターゲットにした身代金目的の誘拐だった。子供と違って力づくというわけにはいかないので、うまい話で自分の車に乗せる手口を想定。顔を見られることは避けられないので、誘拐した後は殺害するつもりだった。
1980年2月11日と19日には、金沢・富山で20代の若い男性をドライブに誘い出すことに成功したが、犯行を実行できずに断念した。そのため、ターゲットは男性よりも女性がいいと考え、若い女性の物色を開始する。
第1事件:富山事件
1980年2月23日午後7時15分頃、宮崎知子(当時34歳)は富山駅近辺で、誘拐できそうな若い女性を探していた。そんな宮崎の目に留まったのが、富山県八尾町の県立八尾高校3年・長岡陽子さん(18歳)だった。
陽子さんは、春から金沢市の調理師専門学校に進学予定で、友人とその学校に下見に行った帰りだった。友人と別れたあとはバス待ちのため、「富山ステーションデパート」で時間をつぶしていた。
宮崎は陽子さんにそれとなく声をかけた。そしてしばらく会話したのち、「いいアルバイトがある」と言葉巧みに陽子さんを食事に誘った。陽子さんも「遅くなったら車で送る」と約束されたこともありこれを了承、2人でレストラン「銀鱗 豊田店」に行くことになった。
食事をしながら宮崎は、アルバイトの面接を装って身代金要求に必要な情報をうまく聞き出した。その後、自宅に送り届ける素振りを見せつつも、”アルバイト先” である、自身が経営するギフト店(北陸企画)に寄り道した。
宮崎は、「遅くなったから」と言い訳して、北陸企画の事務所に泊まることをすすめた。陽子さんは、明日送ってくれるならと、泊まることにした。
翌24日、陽子さんは家族に電話をして、「アルバイトに誘われて、その事務所にいる」ことを伝えた。陽子さんは家に帰るつもりだったが、この日、宮崎は息子の授業参観があったようで、忙しそうだった。
なんとなく、送ってもらえる雰囲気ではないことを感じた陽子さんは、結局この日も事務所に泊まることになった。
家に送ると見せかけ・・・
陽子さんが事務所を出たのは、事務所に着いてから2日後の25日だった。彼女は昼頃、「これから帰る」という報告と、今いる事務所が「北陸企画」という会社であることを、電話で親に伝えている。
午後4時頃、宮崎は公衆電話から陽子さん宅に身代金要求の電話をかけた。ところが両親は不在で、電話に出たのは陽子さんの祖父だった。そのため、宮崎は陽子さんの母親の勤務先へ電話を試みるも、電話番号を聞き誤ったため果たせなかった。
夕方ごろになって、2人は赤いフェアレディZに乗り込み、”家に送っていく” という名目で車を走らせた。しかし、宮崎には陽子さんを送り届ける気など毛頭なかった。
宮崎は、家に送ると見せかけながら車を走らせた。そしてその道中、陽子さんに睡眠薬を服用させ、眠らせることに成功する。睡眠薬は前日に近所の薬局で手に入れていた。
深夜になっても、陽子さんはぐっすり眠っていた。宮崎は車を停車させ、陽子さんの首を絞めて殺害。遺体は岐阜県吉城郡古川町の戸市川の縁に遺棄した。陽子さんのハイヒール・バッグなどの遺留品は、翌26日に公園に捨てた。
一方、陽子さんの両親は、娘が家に帰ってこないことを心配して北陸企画を訪れている。しかし、この時応対した宮崎は無関係を装ったため、両親は派出所に行って事情を説明。宮崎も呼び出されて話をしたが、彼女はここでも無関係を主張してやり過ごした。
翌27日午前10時過ぎ、宮崎は身代金を要求するため、再度公衆電話から陽子さん宅へ電話した。しかし今回も祖父が出たため、「午前11時に富山市内のレストランに父親が来るように」と伝言した。
これを聞いた父親は、”娘の失踪と関係がある” と判断して指定場所で待機したが、いくら待っても誰も現れなかった。「どうせ、父親に話が伝わってないだろう」と考えた宮崎は、指定場所に行かなかったのだ。
第2事件:長野事件
最初の身代金強奪に失敗した宮崎は、3月4日、次のターゲットを探して長野駅周辺で女子高生や短大生に声をかけたが、うまくいかなかった。
だが、翌5日の午後6時30分頃、帰宅のバス待ちをしていた信用金庫勤務・寺沢由美子さん(当時20歳)を言葉巧みに食事に誘い出すことに成功する。由美子さんは仕事を終えて、長野市南長野石堂町「千石前」バス停にいるところを宮崎に声をかけられ、フェアレディZに乗り込んだ。
自分が ”誘拐” されてることなど、考えもしない由美子さんは、食事などで宮崎と数時間をともにした。やがて宮崎は「遅くなって疲れた。明日の出勤までには必ず送る」との口実で彼女を車中泊させ、缶ジュースと睡眠薬を飲ませた。
由美子さんが寝てしまうと、宮崎は長野県青木村に停車したフェアレディZの車内で、由美子さんを絞殺。遺体は山中に遺棄した。
翌日(6日)、宮崎は由美子さんの家族に身代金を要求する電話をかけた。そして、「明日の朝10時、長野駅に3000万円持ってこい」と指示した。
家族は警察に通報、これを受けて長野県警は、7日朝に特別捜査本部を設置した。
7日午前10時、長野駅の構内放送で家族が呼び出される。宮崎からの電話だった。家族が10万円しか用意できなかったことを話すと、宮崎は怒って「12時まで待つ」と言い、自宅で電話連絡を待つよう指示した。
言われた通り自宅で待機していると、昼過ぎに電話が鳴った。
電話の内容は、「2000万円を持って、長野駅から午後4時38分発の列車で高崎駅まで来い」という指示だった。だが、高崎には多数の警察が張り込んでおり、それに気づいた宮崎は危険を察知して接触を断念した。
事件発覚
2つの事件では、どちらも犯人から電話があり、それはテープに録音されていた。警察はこの電話音声を鑑定した結果、同一人物であることが判明。2つの事件は同一犯の犯行と断定した。さらに、両事件ともサングラスの女が、赤いフェアレディZに乗っている姿を目撃されていた。
3月6日、戸市川に釣りに来ていた男性らが、女性の遺体を発見、翌日、陽子さんの遺体との確認がされた。陽子さんの足取りは、富山市内の「北陸企画」に泊まると家族に伝えて以降、途絶えていた。
このことから、警察は3月8日~10日までの間、経営者の宮崎知子と彼女の交際相手・北野宏(当時28歳)に対し、任意出頭を求めて事情聴取を行った。2人は取り調べで、陽子さんとの面識を全面的に否定。富山警察署は3月10日、捜査本部を設置して捜査を開始した。
その結果、宮崎と陽子さんらしき人物が、2月25日夜、死体遺棄現場近辺で目撃されていたことが判明。ほかにも、北陸企画の玄関ガラス戸から陽子さんの指紋が検出され、さらには所有のフェアレディZ車内から陽子さんの毛髪が発見されるなどの進展があった。
3月30日、宮崎は陽子さん殺害を自供したため逮捕となる。続いて由美子さんの殺害についても自供。この事件については、当時交際の北野との共謀だったと供述した。
富山事件の逮捕から3日後の4月2日、長野県青木村の林道の崖下に ”死体らしきもの” があるのを通りかかった男性が発見。それが由美子さんのものであると確認された。
4月21日、宮崎と北野は富山事件についても逮捕され、本格的な取り調べが始まった。
犯人・宮崎知子の生い立ち
宮崎知子は、1946年2月14日、富山県上新川郡月岡村上千俵(現:富山市上千俵)で生まれた。
両親は内縁関係にあり、宮崎は長女だったが、中学2年になるまで父親から認知されなかった。父親は自転車店を経営、母親はその店の一角で傘の修理業をしていた。
複雑な家庭環境で育った宮崎ではあるが、富山市立月岡中学校時代までは学年トップクラスの成績だった。しかし中学校になった頃から、てんかんの発作を起こすようになり、睡眠薬を常用するようになった。性格は内向的で親しい友人もなかったが、このころから虚言癖が表れはじめた。
1961年4月、富山県立富山女子高等学校に入学、1964年3月に同校を卒業。高校では水泳部に所属していた。「親元を離れて生活したい」との希望から、東京経済大学を受験して合格したが、両親に反対され大学進学は断念。そのため、富山県内で生命保険会社の事務員として勤務している。
その後、埼玉県にいた姉を頼って上京。埼玉県上尾市に転居し、化粧品会社の美容部員として働いた。1967年頃に4歳年上の自動車セールスマンの男性と知り合い、1969年8月6日に結婚。12月7日には長男を出産している。
宮崎は、1972年に卵巣嚢腫・子宮筋腫の手術で入院している。その入院中、夫が浮気したため別居、長男と富山市上千俵の両親宅で暮らすようになり、1974年8月14日に離婚。11月には、腸癒着性腹壁ヘルニアで手術している。
翌1975年1月に父親が死去した。それ以降、前夫からの送金と母親の収入に頼る生活となる。
北野宏との出会い
1977年9月15日、宮崎は売春するようになったが、その客のひとりである北野宏(当時28歳)と交際するようになった。北野は電気工として働いており、すでに結婚して妻がいた。1978年、宮崎と北野は100万円ずつ出資してギフト店の経営(北陸企画)を始めるも、すぐに経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負ってしまう。
本事件では ”北野との共犯” と主張して、罪を着せようとするも失敗している。北野にはアリバイがあり、「北野は何も知らないまま行動を共にしていただけ」ということが認定された。
宮崎は借金返済のため、かつて勤務した保険会社で得た知識を悪用して保険金殺人を目論む。ターゲットは結婚相談所で紹介された男性Aで、2度にわたって試みるも、どちらも未遂に終わっている。
- 1979年3月、宮崎は結婚相談所を介して交際したことのある男性Aを標的に、保険金殺人を計画した。男性Aに頼んで災害死亡時5000万円の生命保険に加入させ、5月頃、山菜採りの名目で男性Aを富山県中新川郡上市町の山中へ誘い出した。崖から転落死させるつもりだったが、適当な場所を見つけられず断念した。
- さらに8月には、近所の薬局でクロロホルム液を購入して、これを使用した保険金殺人を目論んだが、これも失敗している。この時は「乱交パーティーの練習をする」との口実で、富山市岩瀬浜付近の海岸に男性Aを誘い出し、クロロホルムを吸わせて海中で溺死させようとした。しかしクロロホルムが効かず、未遂に終わっている。
やがて、返すあてのない借金をしてまで、展示会で見て気に入ったフェアレディZを購入。このころから誘拐で大金を得ることを考え始める。
そして1980年2月25日、富山事件を起こした。裁判では最高裁で死刑確定。現在は名古屋拘置所に収監中である。
死刑囚同士で養子縁組
彼女は死刑囚として収監されるようになった以降の1998年7月、今市4人殺傷事件で死刑判決を受けた藤波芳夫死刑囚と養子縁組している。
死刑囚同士の養子縁組は、過去にこの一例しかない。宮崎は「藤波」姓に変わっていた。その後、別の支援者との養子縁組により、2000年1月時点では「迫」姓になっている。
また、宮崎死刑囚は、死刑囚アンケートの回答で、以下のような不満を訴えている。
「処遇は理由も原因も言われず平成2年か3年頃から突然変わり、弁護人に話をしてもあまりに酷く信じてくれない!
精神科云々、と言われることが。再審どころでなく異常処遇をなんとかして欲しい。
とにかく誰か来てくれ!!
突然の急変でショックストレス症状で字が書けなくなり、言葉も喋れなくなり、弁護人にも連絡も出来なかった。
生活面で不満なことは全て処遇の指示と言われ、体調関係なく殆ど放置状態、薬も中止、取り上げられた。
24時間、男女2人態勢で特別装置と監視カメラ、威嚇、嫌がらせ、早く死ねと言われる。
さらには裁判書類を全部取り上げられ、裁判できない。その結果期日までに出せなくて却下された。」
事件はドラマ化された
1992年6月26日、日本テレビ系列でこの事件をもとにしたドラマが放送された。
タイトルは「実録犯罪史シリーズ “最期のドライブ” 富山長野女子高生・OL連続誘拐殺人事件」
主演は宮崎知子役に室井滋、交際相手の北野宏役は玉置浩二が好演した。
裁判
富山事件において、宮崎知子被告は当初、長岡陽子さんを誘拐した事実を認めていた。しかし、公判段階になって否認に転じ、交際相手の北野宏に罪を着せるような供述をしている。
- 2月12日頃に「レストラン銀鱗」で、陽子さんを北野から初めて紹介された。
- 2月23日午後6時、北野から頼まれて陽子さんを富山駅に迎えに行き、事務所に連れて行った。
- 陽子さんは北野が紹介した売春アルバイトをしていたと思っていた。その期間中、陽子さんの世話をしていただけで、事務所に引き留めたことも、自宅に送ってやると言ったこともない。
- 自分は陽子さんを誘拐しておらず、彼女はいつでも帰宅できる状態だった。
- 25日午後11時30分頃、事務所で北野に陽子さんを託し自分は帰宅した。翌26日午前4時前に北野から電話で北陸企画に呼び出され、殺害、死体遺棄の事実を告げられた。
長野事件においても、宮崎は北野の関与についての自供を二転三転させている。
当初は殺害を認めたものの、4月1日~11日までは否認に転じ、12日には再度認めている。最終的には、誘拐した由美子さんを睡眠薬で眠らせたのは自分だが、その後合流した北野が由美子さんを殺害、2人で死体を遺棄したと供述している。
しかし、北野は別の場所での目撃証言があった。さらに、3月5日午後11時30分から翌6日午前0時55分まで視聴していたテレビ番組について、内容を正確に述べていることから殺害に加担していないと認められている。
第一審
逮捕前後の2人の供述などを証拠として、検察は2人を身代金目的誘拐罪と殺人罪などで起訴した。
1980年5月13日、富山地裁で初公判が行われた。検察側は冒頭陳述で「富山・長野の両事件とも両被告が身代金目的の誘拐を事前共謀し、誘拐を宮崎知子、殺害は北野宏、死体遺棄は両被告が実行した」とし、「北野が犯行を主導し、宮崎が従った」と主張した。
罪状認否で、宮崎は誘拐を否認。北野は「誘拐殺人などは全く知らない」として無罪を主張した。
1985年3月6日、長野事件について北野のアリバイを認め、検察側は冒頭陳述の内容を変更。
「両被告は事前共謀をしたが、誘拐、殺害、死体遺棄、身代金要求の実行行為はすべて宮崎が行った」としてこれまでの主張の構図を一転させ、「主導者は宮崎で、北野は共謀共同正犯」とした。
1987年4月30日、検察は宮崎に死刑、北野に無期懲役を求刑した。宮崎は「富山事件は北野の単独犯行。長野事件では誘拐・死体遺棄・身代金要求は行ったが、殺害は北野が1人でやった」と北野主導説を主張。一方、北野は宮崎単独犯説を述べ、これまでどおり無罪を主張した。
1988年2月9日、判決公判が開かれ、富山地裁は宮崎に死刑を言い渡した。
一方、北野については
・富山事件で、犯行前後に2人が頻繁に電話連絡している
・長野事件で、身代金受け渡し現場に2人が一緒に来ている
ことについて「宮崎から嘘の儲け話を聞かされて、そのためだと信じて行動を共にしていた。事件には全く気づかなかった」とする北野の証言を真実性が高いと判断。実行も共謀も行っていないとして、北野に無罪を言い渡した。
検察は北野について控訴、宮崎は自身について控訴した。
宮崎は死刑、北野は無罪
1992年3月31日、控訴審判決で、名古屋高裁は弁護側・検察側ともに控訴を棄却した。
宮崎は上告したが、検察は上告しなかった。これにより、北野の無罪が確定した。
1998年9月4日、最高裁判決では、一審・二審の死刑判決が支持され、宮崎被告の死刑が確定した。
女性死刑囚としては、戦後7人目だった。
現在は、死刑囚として名古屋拘置所に収監中である。宮崎はこれまで5度にわたって再審請求を行っているが、すべて棄却されている。
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