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つくば母子殺人事件|エリート医師がなぜ?望まない結婚の最悪な結末

つくば母子殺人事件・野本岩男 日本の凶悪事件

「つくば母子殺人事件」の概要

子どもができたから、仕方なく結婚」本命ではない女性と結婚した”エリート医師”。
初めから愛もなく家庭を顧みない夫、条件付きで不倫を認めた妻。こんなちぐはぐな生活が、いつまでも続くはずもなく、夫婦は最悪な結末を迎える。
たび重なる激しい口論の果て、夫の野本岩男(当時29歳)は妻を殺し、幼い子供2人も殺害してしまう。遺体は海に投げ捨てたものの、浮かんできて発覚。そして逮捕。
家族を皆殺しにするほどの強い殺意は、いったいどこから湧いてきたのか?

事件データ

犯人野本岩男(当時29歳)
犯行種別殺人事件
犯行日1994年10月29日
場所茨城県つくば市真瀬
被害者数3人死亡
判決無期懲役
動機不倫
キーワード医者

事件の経緯

野本岩男映子さんが出会ったのは1990年夏、医師や看護婦らが参加するテニスサークルの飲み会だった。野本は春に卒業したばかりの25歳の研修医、映子さんは27歳の看護助手だった。野本は交際中のOLがいるにもかかわらず、映子さんに興味を持ちデートに誘った。

映子さんには2人の子どもがいて、それを知った時は驚いたが、野本は交際を続けた。その後、秋頃には半同棲するようになっている。しかしOLと別れたわけでもないので、しばらくは三角関係が続いたということになる。

野本は女性にだらしなく、OLからしてみれば二股をかけられるのは映子さんで3人目。映子さんともそのうち終わるだろうと考えていたが、それは誤算だった。1991年1月頃、映子さんは妊娠してしまうのだ。

映子さんは2人の子どもを前夫に引き渡し、野本との結婚を望んだ。しかし、野本はそれは本意ではなかった。彼は32、33歳頃までは結婚せずに自由にいろんな女性と交際したいと考えていた。

実は映子さんの妊娠は、この時が2度目である。
1度目は野本が中絶を希望して、映子さんはそれに従っていた。

子どもができた以上、OLは身を引くしかなかったが、野本は必至で引き留めようとした。「映子とは別れる」といいながら、彼女に会い行き続けた。そして映子さんには「一番はお前じゃない」といいながらも同棲も解消できずにいた。

子どもが生まれる

つくば母子殺害事件

そうこうしているうちに時は過ぎ、1991年11月18日に長女愛美ちゃん)が生まれる。
2人は出産の条件として、「映子さんと籍は入れない」と約束を交わしていた。映子さんは子どもの誕生後もそれを守り、望みは子どもの認知だけだと伝えた。

そんなところを健気に感じた野本は、子どもができたこともあって、突然映子さんとの結婚を決意する。こうして2人は名実ともに夫婦となったが、婚姻届けを出した翌日12月1日から、野本は元から予定されていた研修のため日立市に単身赴任した。

1ヶ月もすると野本の女癖が本性を現す。赴任先の看護婦Aと交際を始めたのだ。彼女には寮の鍵を渡して掃除・洗濯・料理までしてもらい、まるで妻のようだったが、本当の妻である映子さんには鍵は渡していなかった。野本はほかにも2人の女性と関係を持つようになったが、当然映子さんにはバレてしまう。

1992年2月18日には、詰め寄る映子さんに「セックスする場所がないから、仕方なく部屋に入れた」と言い訳をし、映子さんと籍を抜きたいとまでいう始末だった。

幸せな3か月

豊和麗病院
野本が勤務していた豊和麗病院(現在は別の病院になっている)

看護婦Aとは9カ月ほどで別れた。
映子さんは第2子を妊娠したため、3か月ほど入院する。野本はその間、長女の愛美ちゃんの世話や映子さんの面倒もみて、しばらくは普通の夫らしい生活となった。
1993年2月18日に生まれた子どもは男の子。名前を優作と名付けた。

この3か月は映子さんにとって、唯一幸せな結婚生活だったという。しかし、これも長くは続かない。半年もすると、野本はとっかえひっかえ複数の女性と関係を持つようになるのだ。

このころ茨城県坂東市沓掛の豊和麗病院に転勤するのだが、その中に、野本が特に気に入った看護婦Bがいた。彼女は結婚していたので、互いに深みにはまらないように交際したが、野本は数十万円もするような贈り物を何度もしている。当時の野本の月収は、手取りで約100万円。そのうち40万円を家に入れ、残りを自由に使っていた。

やがて看護婦Bとの仲が病院内で噂されるようになると、看護婦Bの方から離れていき、交際は終わった。この病院は野本の父親や親戚から紹介された病院だった。そんな病院で、噂の件で副院長から注意を受けていても、野本は未練たっぷりでしつこく誘ってきたという。

隠そうともしない浮気

つくば母子殺害事件

このころになると野本は浮気を隠そうともせず、言い争いは絶えなかった。野本はいつ離婚してもいいと考えていたが、映子さんは別れる気はなかった。そのため、映子さんは野本に最大限の譲歩をして、夫婦間のルールを提示した。

  • 女を作っても外泊しない
  • 週末は浮気をしない
  • 自分のことも愛する

野本はいつも「わかった、わかった」と気のない返事をしてやり過ごしていた。

1994年3月のことだった。
赴任してきた時から気になっていた4歳年下の看護婦Cから、ある相談を受ける。彼女は別の医師と交際中だったが、その医師がほかの看護婦とキスしている現場を目撃してしまったというのだ。
その医師は他県への転勤が決まっていたこともあり、これはチャンスと考えた野本は彼女にこうアドバイスする。

「彼は君と結婚する気はないと言っていた。早く別れたほうがいい」

しかし、これは彼女を自分のものにするための嘘だった。その日から毎日Cに電話をかけ、「妻とは別れるから」と口説くようになった。
根負けしたのか、気持ちが芽生えたのか、2人は8月頃に交際を開始する。看護婦Cは、前出の医師とはすでに別れていた。

修羅場を演じる2人

野本は映子さんに対し、「我が強く、経済観念が無く、家事や育児を十分にしない」と評価していた。それに比べて控えめな性格の看護婦Cに、野本はさらに惹かれていった。
付き合いだして3週間後、野本はついに妻との約束を破って外泊する。当然、映子さんは激怒した。映子さんは、離婚に応じてもいいから看護婦Cと話させろと言い出した。

2時間あまり責められたあげく、野本は看護婦Cに電話して映子さんに代わった。映子さんは彼女との面談を希望し、2人は映子さんの車で会って話した。

面談を終えて、帰って来るなり映子さんは「別れない」という。そして、もし離婚するなら慰謝料1億円と養育費月100万円を提示した。映子さんは看護婦Cの母親にまで電話し、別れないなら訴訟を起こすと宣言した。

野本は映子さんに憎しみを感じていた。しかしなんとか妻を鎮めるため、家族をディズニーランドや旅行に連れていくなど、良き夫を演じたりもした。その一方で看護婦Cに「妻とは絶対別れるから、一緒になろう」と泣きながら訴えたこともあった。

互いに不満が限界に

野本岩男/つくば母子殺害

1ヶ月ほどは小康状態が続いた。とはいえ何も問題は解決しておらず、映子さんの心の中は穏やかではなかった。きっかけさえあればいつでも爆発する状態だったのだ。

10月23日、野本が職場の旅行で買ってきたおみやげに、映子さんがケチをつけたのが始まりだった。

「おみやげが食べ物なんて愛情がない」

このセリフから口論が始まり、映子さんは自分に対する愛情はないのかと責めた。野本が「愛情があるわけでなく離婚もできないので、仕方なく一緒に生活を続けている」と本心をぶちまけると、映子さんは激怒。「あなたを刺して私も死ぬ」と叫びながら包丁を持ち出し、屋外まで野本を追いかけ回す始末だった。この口論のあと映子さんは塞ぎ込み、夕食も作らない状態になった。

10月28日午後8時頃、仕事から帰宅した野本は弁当を食べ、子どもと遊んだりしながら過ごした。そのうち子ども達が寝るために2階にあがってしまうと、自分もソファで寝てしまう。

”最後”の口論

午前4時前、野本は映子さんの声で起こされる。彼女は「私と一緒に寝るのが嫌なの」とからんできたため、2人は再び口論となった。しかし、これが ”最後の喧嘩” となる。

ヒステリックになった映子さんは、「病院長に直接話して、あなたと看護婦Cの2人とも病院を辞めさせてやる」とわめきたてた。
10月29日午前5時30分頃、言い争いの果てに、映子さんは包丁とロープを持ち出し「いっそのこと私を殺せばいい」と口走った。そして自分の首にロープを巻きつけてみせたり、「殺さないなら明日病院に行って病院長に会う」などと言い、野本に対し精一杯の挑発をくり返した。

自分も悪いとはいえ、野本は限界だった
「こいつはあくまで俺を破滅させる気だ」追い詰められた彼は、とっさにロープで映子さんの首を絞めた…。

子どもたちまで

映子さんはもう息をしていなかった。野本は一番最悪な形で、映子さんから解放されたのだ。

野本は次いで子供2人にも手をかけた。「父親が殺人者では不憫だと思い殺した」と、野本はのちに供述している

だが、事件後に看護婦Cと北海道旅行に行こうとしたことを考えると、にわかには信じられない。

3人を殺したあと、自殺・・・自首・・・いろいろ考えたが、そのうち出勤時間が近づいてきたので、とりあえず病院へ行くことにした。その後、午後に一旦帰宅する頃には、”遺体は海に捨てるしかない” という気持ちが固まっていた。

10月30日、遺体の処理は夜に行うことにした野本は、新宿歌舞伎町まで出向いてストリップやソープランドに立ち寄った。その後、午後11時頃に帰宅すると3人の遺体を車に乗せ、31日午前0時50分頃、首都高速で大黒ふ頭へと向かった。

そして午前2時頃、大黒線下りの京浜運河上に架かる橋の非常駐車場から遺体を海中に投げ込んだ
翌11月1日には、看護婦とともに北海道旅行を予約している。

事件の発覚

つくば母子殺害・遺体発見場所
大黒ふ頭(3人の遺体を遺棄・発見されたあたり)

殺害後、野本は捜索願をすぐには出さなかった。映子さんは何もいわずに子供と実家に帰ることがあったので、すぐに騒ぐとかえって怪しまれると計算したのだ。

数日経ってから、野本は映子さんの実家に電話した。そして「実家に帰っていない」ことを初めて知ったような演技をして、警察に捜索願を出した。

11月3日、横浜市鶴見区の京浜運河で映子さんの遺体が発見された。遺体には、浮かび上がらないようにするための鉄アレイが括りつけられていた。さらに11月7日に長女の愛美ちゃん(2歳)の遺体が映子さんの遺体発見現場の近くで見つかり、11月12日には横浜港近くで長男の優作くん(1歳)が発見された。

3人の遺体は足の裏が汚れておらず、靴も履いていなかった。そのため警察は3人は室内で殺されてそのまま海に遺棄されたとみていた。さらに映子さんはパンティストッキングやピアスも付けておらず、また争った形跡もなかったことから ”自宅で殺害された” 可能性が高かった。

そうなると夫である野本は、容疑者ということになる。取調官は野本の右手に小さな傷をみつけ追及するも、野本は飼い犬のゴールデンレトリーバーに噛まれたと説明。しかし警察は納得はしない。

警察は3人が失踪したあとの野本の行動を調べた。この時活躍したのが「Nシステム」。主要道路を走行する車のナンバーをすべて記録する「自動車ナンバー自動読取装置」だ。Nシステムの移動履歴には、彼が10月31日早朝に大黒ふ頭まで走行した ”証拠” が残っていた。

この証拠を突き付けられた野本は観念する。当初、犯行への関与を否定していた野本は、11月25日にようやく自供を始めた。

野本岩男の生い立ち

野本岩男
野本岩男

野本岩男は、1965年に茨城県岩井市の農家で次男として生まれた。
幼少期から聡明で、小学校時代は「神童」と呼ばれるほどの秀才だった。地元の小・中学校をトップクラスの成績で卒業。1983年、県立水海道第一高等学校を卒業すると、一浪して筑波大医学部に入学。1990年、大学卒業後は研修医となり、筑波大付属病院などで働いていた。

その年の夏頃、医療関係者のテニスサークルの飲み会で映子さんと知り合う。
野本は女性には非常にマメで積極的。しかし女性にだらしなく、同時に複数の女性と交際することに罪悪感を感じないような男だった。彼からしてみれば、映子さんもそんな女性のひとりだったが、映子さんのほうは本気だった。

当時、彼には交際中のOLがいた。なのに映子さんとも付き合うことになったのは、野本の女癖の悪さゆえだった。そもそも2人の関係は、そういった ”倫理観念のなさ” から始まっていた。

治らない女癖

映子さんが妊娠した時、一度は中絶させているが、2度目の妊娠では罪悪感があったのか、出産に同意している。ただし映子さんと籍は入れないという条件だった。しかし、なぜか出産後に入籍する気になっている。

正式に夫婦となっても、野本は女遊びをやめなかった。以後、事件までの約3年間、野本には常に女の影があり、次第にそれを隠そうともしなくなった。そんな態度に、夫婦は激しい口論が絶えなかった。

殺害の3日前(10月26日)、長女の愛美ちゃんが、2人の度重なる喧嘩を目の当たりにして幼い胸を痛めたのか家出していた。その後、近所の人に送って来てもらった時、長女は自宅に着いても「自分の家はここではない」と言ったという出来事があった。

1994年10月29日、くり返される口論に終止符が打たれる。この時、野本は29歳、映子さんは31歳だった。野本は家族3人を殺害、裁判で無期懲役が確定する。

苦しい家計

野本の年収は1000万円~1300万円だったといわれている。これだけあれば十分裕福な暮らしができるはずだが、野本家はそうではなかった。

野本は神戸や大阪に投資目的でマンションを購入。しかし思うような利益がでないばかりか、これが負債となってのしかかる。さらに次々と愛人を作って大金を使っていた。そのため、金銭的にはあまり余裕がなかったという。

一方、映子さんのほうも浪費癖があったといわれている。

野本岩男の現在

現在、野本は服役中だが、どこの刑務所にいるのかは不明である。ちなみに、初犯で刑期10年以上の囚人が収容されるのは以下の5か所。

  1. 山形刑務所
  2. 千葉刑務所
  3. 長野刑務所
  4. 岡山刑務所
  5. 大分刑務所

茨城県の事件なので千葉刑務所か、無期懲役囚が半数を占める岡山刑務所という線が濃厚である。

仮釈放については、野本の場合「マル特無期」という非公式な慣習によって、認められない可能性が高い。

妻・野本英子さんについて

野本英子さん・愛美ちゃん・優作くん

映子さんは東京都大田区で、会社員の家庭の長女として生まれた。

1982年に私立女子高を卒業。専門学校に進学したが、翌年1月、蕎麦屋の息子と知り合い、退学して結婚。土浦市内で夫と蕎麦屋を開業した。しかし夫婦仲が悪くなり、1989年3月に離婚する。

その後10月頃から映子さんは看護師になるため、昼は筑波メディカルセンターで受付のバイトをしていた。そして翌年1990年夏、医療関係者が参加するテニスサークルの飲み会で、野本と知り合った。

野本は若い間は結婚せずに遊ぶ方針だったが、映子さんはそうではなかった。野本は映子さんのペースにはまって、子どもができてしまい、結婚までせざるを得なくなった。

性格的にも我を通す一面があり、夫婦が険悪な仲になったことについて裁判長は、「被告人ひとりの責任とは言えない」と述べている。

裁判で無期懲役

1996年2月22日、横浜地裁は「医師という社会的地位にありながら、3人も殺害し、死体を遺棄。その後、偽装工作するなど極めて重大な犯罪。しかし衝動的な犯行で深く反省している」と野本に無期懲役を言い渡した。検察側の求刑は死刑だった。

判決理由で裁判長は「倫理観念もなく浮気を重ね、夫婦げんかの果てに憎しみを募らせた。医師として生命の貴重さを学んだはずにもかかわらず、3人の命を奪った。遺族が受けた精神的衝撃、苦しみは大きい。夫や父親の情を感じさせない無慈悲な行為で、罪の意識を欠くこと甚だしい」と厳しく指摘した。

子どもたちの殺害については、「母親を亡くし、父親が殺人者となった子供たちの将来を不憫に思った衝動的な犯行」とした。
夫婦の不和については「互いに自己の考え方・観念等のみにとらわれた、夫婦2人の行動が要因となっており、被告人ひとりの責任とは言えない」と述べた。

さらに判決理由として、裁判長は以下のように述べている。

  • 犯罪を繰り返すような強い反社会性がない以上、被告の人格面を理由に刑罰を重くすることはできない
  • 逮捕後、犯行を自供してからは素直に事実を明らかにしている
  • 公判を通じて殺害の重大性や自己の人格の未熟さを認識し、深く反省・悔悟している

検察、弁護側ともに控訴したが、1997年1月30日、東京高裁で双方とも棄却。
野本は上告するも、2月14日にこれを取り下げ、無期懲役が確定した。

大学時代の友人は「温厚で明るい好青年だった」、病院の上司や患者は「熱心で親切な先生だった」と証言し、裁判では3000を越える減刑嘆願書が届けられていた。

犯行の不可解な点

俵結びの謎

3人の遺体はビニール袋に入れられ、紐で結ばれていた。
そのひとつの結び目が「俵結び」になっていたことで、共犯者の存在を疑われた。

俵結び:昔の農家の手法で、米を俵にする時の特殊な結び方。裁判当時、農家でも50歳以上じゃないと知らないとされた。

実況見分をした時、野本が梱包を再現した結び目は3つとも縦結びであり、俵結びではなかった。野本に俵結びができないなら、いったい誰がやったのか?
ネットなどでは、農家を営んでいた野本の父親の名前が取り沙汰された。しかし、父親が逮捕された事実はない。単に野本が結べないふりをした可能性もあるが、その場合、「誰に何の得があるのか?」という疑問が残る。

鉄アレイの不可解

3人の遺体はそれぞれ袋に入れられ、重石として鉄アレイがくくりつけられていたという。
しかし人間は死後、ガスが大量に発生する。そのため、鉄アレイ数個程度では浮かび上がってしまうのだ。医師である野本が、そのことを知らなかったというのは理解しがたい。(大学で法医学の授業があるとのこと)

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