家族内に解決の難しい大問題が起きた時、無理やり一家心中という解決法を選ぶ父親がいます。一家心中しようとするのは、たいていの場合なぜか ”父親” 。「家族は自分のもの」と考える傾向が強いのでしょうか?
無関係の家族まで巻き添えにするのは「殺人者の家族として生きるのはつらいだろう」と考えてのことのようです。でも、これはかなり身勝手な考え方ですね。
日本では殺人の半数は親族間で起きているそうです。嫌でも「切れない関係」であるからこそ、小さな諍いが大きな問題に発展するのかもしれません。
1.宮崎・高千穂6人殺人事件
2018年11月25日、宮崎県高千穂町押方の民家で、一家が惨殺される事件が発生した。殺されたのはこの家に住む家族5人と、知人・松岡史晃さん(44歳)の合計6人。
家族はひとりを除き、全員が殺害されていた。そのひとりとは、この家の主・飯干昌大(42歳)だった。警察は「昌大が6人を殺害して逃亡した可能性がある」として、周辺を捜索。その結果、約3km離れた神都高千穂大橋の下の川で、昌大の遺体が発見された。昌大は橋から飛び降りたとみられている。(橋から水面までは115m)
- 昌大の父親・保生さん(72歳)
- 昌大の母親・実穂子さん(66歳)
- 妻・美紀子さん(41歳)
- 長男・拓海さん(21歳)
- 長女・唯さん(7歳)
のちの調べでは、この日の午後9時頃、松岡さんは電話で呼び出されて昌大の家に行ったことがわかっている。夫婦は日ごろから言い争いが絶えず、松岡さんはその仲裁に行って事件に巻き込まれた可能性があった。
真相は誰にもわからない
この事件は、事情を知る者は全員死亡していて真相はわからない。
夫婦間に問題はあったようなのだが、周囲でそれを詳しく知っているのは、松岡さんひとりだけのようなのだ。昌大は寡黙なタイプで自分のこともあまり話さなかったらしく、会社の社長でさえ「松岡さんと昌大の接点もわからない」という。
だが、いくつかの推測はあり、結局は不倫などの問題がこじれたのではないかと噂されている。ネットの地域サイトでは、事件前から昌大夫婦の中傷などが書かれていた。
2.中津川一家6人殺傷事件
高齢の毒親に追い詰められて、家族全員を殺害するという事件が、岐阜県中津川市で起こった。
犯人は原 平(当時57歳)。問題の発端は、原の妻に対する母親のイジメ、いわゆる「姑の嫁いびり」だった。
原には弟がいて、もともと母親は弟家族と同居していたが、やはりここでも問題を起こしていた。そのため、耐え兼ねた弟夫婦に放り出される形で、原の家にやってきたのだった。そんな事情があっても母親は反省するどころか、問題を起こし続けた。
「妻の料理は一切食べず自炊」、「妻を泥棒呼ばわり」などというのはまだ我慢できた。しかし、妻が植えた花を片っ端から引っこ抜いたり、妻が風呂に入れないよう浴槽に脱糞、生ごみを入れる、など常軌を逸したイジメが連日のように続いた。
やがて家の外でも問題を起こすようになり、原は精神的に追い詰められていく。そして、彼は母親を殺害することを決意するのだ。本来は母親ひとりがいなくなれば済むことだが、残された家族が「殺人者の家族」として生きるのはつらいだろうと考え、原は妻以外の全員を殺す決意を固めた。
妻が居ぬ間に決行
2005年2月27日、妻が友人たちと日帰り旅行に行くこの日を決行日とし、妻を駅まで送ったあと実行に移した。原は長男(33歳)、母親(85歳)、飼い犬の順で自宅の家族を殺害。そのあと別に暮らす娘(30歳)と2歳の長男、まだ生後3週間の長女まで殺害した。最後に娘の夫(39歳)も殺そうとしたが失敗し、逃げられてしまう。
だが原は追うことをせず、自宅風呂場で自殺を図るも駆け付けた警察によって保護された。逃げた娘の夫の通報により、事件は発覚していたのだ。
裁判では無期懲役が確定した。5人殺害した刑罰としては「死刑が相当」という意見も多くあったが、私利私欲の犯罪ではない点や、精神的に追い詰められていたことが考慮されたようだ。
現在は長野刑務所にて服役中である。
はじめから妻を標的に入れなかったのは「”後始末”したことを見届けてもらおう」という気持ちからだという。
3.日立妻子6人殺害事件
自分が不甲斐ないばかりに妻を別の男に取られた男が、一家心中を図るという事件が茨城県で起こった。
小松博文(当時32歳)は妻の恵さんとの間に子どもが4人、恵さんの連れ子1人も合わせると7人家族の大黒柱だった。ところが小松はどんな仕事も長続きせず、いつもギリギリの生活。そんな状況でもパチンコには行くような性格だった。
そのため、小さい子供がいるにもかかわらず、恵さんも働かざるを得なかった。当初は昼の仕事に就いていた恵さんだが、これを辞めたあとは少しでも収入のいいスナックのアルバイトを始めた。小松は夜の仕事には反対だったが、生活のためには仕方なかった。
最初の頃はアルバイトを終えると、恵さんはまっすぐ帰宅していた。だが、そのうち帰りが遅くなり、ついには明け方になることも増えてきた。また、「客にもらった」という物を持ち帰ることも多くなった。
胸騒ぎがしてスナックまで車を走らせると、店は終わっているのに恵さんの居場所がわからないこともあった。小松はいつしか、何か嫌な予感がするようになっていた。
別の男の存在
ある時、恵さんが車に置いていった携帯を覗き見した小松は、恵さんには親しくしている男性がいることを知ってしまう。問い詰めると彼女はそれを否定しなかったが「体の関係はない」という。
小松は相手の男性とも会って話をするが、やはり恵さんと同じ言い分だった。とはいえ、恵さんの気持ちはその男性に向いていることがわかり、小松は悩んだあげく身を引くことにした。小松は家を出ることにし、恵さんはその男性とこの家で暮らすことに決まった。
数日後、小松はホームセンターでロープや包丁を購入。購入の理由は「自分の自殺用に買った」と、のちの取材で話している。
そして最後の夜がやってきた。家族と ”最後の晩餐” をして、子どもたちと恵さんは眠りについた。夜が明けたら小松は出ていく予定だった。だが明け方、家族を別の男に渡したくない気持ちがどんどん高まっていく。そして、自殺用に買ったはずの包丁で、小松は家族を次々と刺していった。それからガソリンを撒いて火をつけ、一家心中を図った。
炎にまかれて自身も死ぬ覚悟だった小松だが、服に火が付いた時、本能的に服を脱ぎ捨てて外に出てしまう。そして、どうしていいかわからなくなり、車で警察に行き自首したのだった。
犯行の記憶を失う
起訴後、日立署に勾留されていた小松は、持病の肺高血圧症によって倒れ、一時心肺停止状態に陥る。命に別状はなかったが、その後遺症で小松は記憶の一部が欠落してしまい、「家族を殺したのは自分」ということも覚えていなかった。
そんな状態でも「公判は維持できる」と判断され、裁判は始まった。当然のことながら、記憶がなくても犯行の事実は消えない。小松が罪を逃れることはできず、一審で水戸地裁が下した判決は死刑。
現在、小松博文は控訴中である。