加古川7人殺害事件
2004年8月2日、兵庫県加古川市の住宅地で惨劇が起こった。
長年の近隣からのいじめに耐えてきた藤城康孝は、怒りを爆発させ、親類ら7人を殺害したのだ。藤城は、自宅に火をつけて逃走。その後、自殺を図ろうとしたところを保護された。
裁判では、妄想障害や心神耗弱を主張するも、死刑が確定。
のどかな田園風景が広がる住宅地で起きた、衝撃的な復讐殺人事件である。
*2021年12月21日死刑が執行された。日本の極刑「死刑」について
事件データ
犯人 | 藤城康孝(当時47歳) |
犯行種別 | 大量殺人事件 |
犯行日 | 2004年8月2日 |
場所 | 兵庫県加古川市西神吉町大国 |
被害者数 | 7人死亡、1人重傷 |
判決 | 死刑:2021年12月21日執行(65歳没) |
動機 | 親類への長年の恨み |
キーワード | 被害妄想 |
事件の経緯
藤城康孝(当時47歳)は、まわりから邪魔者扱いされていると感じており、恨みを抱いていた。それは少年時代から続く根深いものであり、恨む対象は本家の人間やその周辺だった。
母親はこの土地に嫁いできた当初から、本家にいじめられていたという。しかし、それを考慮しても、藤城の恨みの深さは異常だった。
この事件は、地方特有の陰湿な諍いと、藤城の執念深く凶暴な性格が起こした、最悪な結末を迎えた事件だったといえる。
藤城は中学時代、日常的に暴力沙汰を起こし、その矯正のために三重県の全寮制高校に入学させられた。卒業後は自宅に戻り職を転々としていたが、事件の約4年前から自宅敷地内に小屋を建て、自家製のパン屋を始めている。
作ったパンは母親の勤め先で販売するなどして、一時は軌道に乗ったが1~2年ほどで廃業。その後は閉じこもりがちになった。
藤城は、自分の家族が本家から見下され、嫌がらせのような扱いを受けてきたことに、常に強い憤りを持っていた。そのため、怒鳴ったり石を投げるなど、周囲とのトラブルが絶えなかった。
殺害計画の実行
凶行は、2004年8月2日午前3時半頃に起こった。
藤城は包丁1本と金槌を持って、自宅の東隣にある叔母の藤城とし子さん(80)宅に、脚立を使って2階から侵入。母をいじめ、家族に嫌がらせをし、すべての元凶を作ったのはこの叔母だと、藤城は考えていた。
最初の被害者は、とし子さんの次男・義久さん(46)だった。藤城は、就寝中の義久さんの部屋に入り、気付いて目を覚ました義久さんを金槌で殴った。そして義久さんの命乞いを聞き入れず包丁で刺殺した。
それから1階に降り、何事かと起きてきたとし子さんを金槌で殴打。とし子さんは倒れて動かなかったので、死んだと思って部屋をあとにした。
藤城利彦さん宅に移動
その後、藤城はいったん自宅に戻って包丁を持ち替え、自宅から少し西にある藤城利彦さん(64歳)宅に向かった。到着すると、玄関の横の窓が開いていたので、そこから家の中に侵入した。
この時、藤城は妹に電話で犯行を告白したという。
藤城は、まず初めに就寝中の利彦さんを包丁で殺害。次に奥の部屋に移動し、起きてきた妻の澄子さん(64歳)を刺殺した。さらに離れで寝起きしている長男・伸一さん(27歳)のところに行き、寝ている伸一さんを起こしたうえで包丁で刺して殺害した。
そして最後に長女の緑さん(26歳)を手にかけるため母屋に戻った。騒ぎに気付いた緑さんは部屋のドアを押さえて抵抗したが、藤城はドアに体当たりして室内に押し入り、緑さんを刺殺した。
犯行を終え自宅に戻った藤城は、助けを求めるとし子さんの声が聞こえたため、再度彼女の家に侵入。そこには、騒ぎを聞いて駆け付けたとし子さんの長男・勝則さん(55歳)がいた。
藤城は勝則さんも包丁で刺殺し、次に見かけたその妻(50歳)を襲った。数回刺したが、この妻だけは藤城を馬鹿にしたことはなかったし、放っておいても死ぬと考え、とどめを刺すのは思いとどまった。
その後、1階に降りたところ、死んだと思っていたとし子さんが立っていた。彼女は藤城を見て逃げようとしたが、門扉のあたりで追いつかれ、刺されて死亡した。
犯行後、自殺しようとしたが・・・
これら一連の犯行は、わずか40分の出来事だった。
自宅に戻った藤城は、畳や布団の上にガソリンをまいてライターで火をつけ全焼させている。同居の母親(当時73歳)は、直前に避難していて無事だった。
実はさらなる殺害計画があったのだが、疲れたこともあり、どうでもよくなってそれは中止している。
放火した直後、藤城は軽自動車で4km離れたところに住む弟の家に向かった。弟には「人をたくさん殺した。母親のことを頼む。わしは死ぬ」と言って謝った。
藤城はその場でガソリンを被って自殺しようとしたが、弟に制止されて思いとどまり、立ち去っている。
その後、現場から700mほど離れた加古川バイパス西インター付近で、赤信号のため停車した際、後ろにパトカーが止まった。藤城はとっさに自殺を考え、車を急発進させて壁に衝突させた。そして、助手席に火をつけたところ、火は積んであったガソリンに引火し、一気に炎が広がった。
驚いた藤城が思わず車外に出たところを、パトカーの警官に保護された。
藤城は両腕に重度の火傷を負っていたため、神戸大学医学部附属病院に入院した。
そして回復を待って、8月31日、退院と同時に逮捕された。
犯人・藤城康孝の生い立ち
藤城康孝は1956年12月5日生まれ。父親は大手製鋼会社に勤めていた。彼には生まれつき「てんかん」の持病があり、表出性の言語障害があった。(言葉の理解はできるが、うまく表現ができない)
そのせいか、些細なことにカッとして興奮しやすい性格だった。
藤城の攻撃性は、小学生時代にはすでに発揮されており、嫌がらせを受けた相手を包丁を持って追いかけるなどしている。また中学生の頃、嫌がらせをしてきた同級生と喧嘩になり、持っていた刃物で切り付けた。
こういった暴力性を矯正させたいと考えた両親は、 厳しい指導で知られる三重県の全寮制高校に入学 させた。にもかかわらず、因縁を付けたり嫌がらせをしてくる同級生に対し、刃物で腹部を刺したことがあった。
ほかにも、頭に血が上ると刃物を持ち出して振り回したことが何度かある。このような出来事のあと、注意や叱責を受けても、腹立ちが治まらず、反省や後悔をすることはなかったという。
卒業後は地元に戻り、飲食店などで働くが人間関係の問題等で長続きせず、職を転々とした。最終的には、自宅でぶらぶらするという生活をしている。
20代の頃には、母親の工面した金で料理の勉強のため海外に渡るが、1ヶ月足らずで帰国した。
事件の4年前、自宅横のプレハブ小屋でパン製造を始め、できたパンは母親の勤務先の工場などで販売していた。しかし、藤城は1~2年でパン屋をやめてしまう。母親が理由を尋ねると「業が沸いて(腹が立って)しかたがない、カタをつける」と答えたという。
そして、その後さらに凶暴になっていった。
増していく凶暴性
藤城は、母に苦労をかける父に対し怒りの念を持っていた。そのため、些細なことで殴りかかろうとしたり、包丁を投げつけるなどの行為をしていた。
危険を感じた父親は、製鉄会社を退職後「このままでは息子に殺される」と言い残して、家を出ていった。
1988年頃からは、弟や妹も独立して母親と2人で暮らしていた。藤城は、父以外の家族には優しかったが、嫌がらせをしてくる相手には凶暴だった。特に本家やその周囲の人間に対しては問題行動が多く、警察に相談されることもあった。加古川署には、近隣住民からの相談が4件あったという。
犯行は数年前から計画し、ガソリンを少しずつ購入して保管していた。このガソリンは本事件で自宅の放火に使われている。
- 車のドアを開閉する音や飼い犬の鳴き声を巡り、近所の家に怒鳴り込んだ
- 近所の80代女性と飼い犬を巡ってトラブルになり「殺してやろうか」と脅した
- 住民らが立ち話をしていると「自分の悪口を言うな」と怒鳴り込んできた
- 畑仕事をしている人に石を投げつけるなどし、その住民は警察に相談した
- 刃物を持った姿を近隣住民に見かけられている
- 藤城対策として、地域住民の要請で警察がパトロールを増やしていた
母親は、靴下工場のパートで生計を立てていた。藤城が問題を起こすたびに周りに頭を下げ、藤城が人命救助で表彰された時は「あの子にもええとこあるねん」と嬉しそうに話していたという。
藤城の凶暴性が増していった頃、心配した弟から転居を勧められた。しかし、藤城は「周囲の嫌がらせに屈することになる」と言って、これに応じなかった。
拘置所でも異常な言動
藤城は公判中、取材に来た記者に対し「拘置所職員からのいじめ」を訴えていた。彼の訴えは以下の内容だった。
- トイレを使用していると、小窓から覗いてくる → 拘置所の収容者が監視されるのは当然
- 手紙をコピーして回し読みする → 外部とのやり取りが検閲されるのは規則
- 食事・トイレなど、すべてに制限をかけてくる → 被収容者は何をするにも許可が必要
- 買った弁当の中身がどちらかに寄っている → たまたまか思い込みでは?
- 喋り方(言語障害)を咎められる →「聞き取りにくい」と注意を受けたのでは?
ほかにも「食事しなかったら、無理やり鼻から入れられた」といった、にわかにには信じられない内容のものもある。藤城は視察委員会にも訴えを手紙に書き、「拘置所に注意してもらった」という。しかし、そのせいで逆恨みされて、もっとひどいいじめを受けるようになったとも話している。
<参照>絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集― (著)片岡健
藤城は大阪拘置所に収監されていたが、2021年12月21日死刑が執行された。(享年65歳)
この日は群馬パチンコ店員連続殺人事件の高根沢智明死刑囚、小野川光紀死刑囚も同時に執行されている。
被害者との揉め事
藤城とし子さん(80)一家との関係
被害者3人:とし子・勝則・義久
1964年、母親が嫁いできて以降、出自の違い等から露骨な嫌みを言っていた。また、近隣住民に対し母親の悪口を言いふらしたすることも日常茶飯事だった。とし子の夫は藤城の父親と兄弟だったが、嘘を言って兄弟仲を悪くさせたり、嫌がらせともいえる仕打ちを重ねていた。
分家するとき、「土地や家は、母屋から無償で譲渡される」のがこの地区の慣習だったが、とし子はこれに反対した。そのため、藤城の家はいつまでも本家の所有だった。
また、とし子の2人の息子との間にも、諍いが多かった。事件の犠牲になった55歳の勝則と46歳の義久である。
彼らには、幼少時から暴力を振るわれたり、見下されていると感じていた。実際に、とし子と息子たちは、藤城の一家を軽んじ、見下すような言動をすることがあった。
現場:34°47’38.7″N 134°49’03.0″E
藤城利彦さん(64)一家との関係
被害者4人:利彦・澄子・伸一・緑
利彦(64)の妻・澄子らは、井戸端会議で日常的に藤城の母親の悪口を言っていたようだ。母親が通りかかるとちらちらと視線を送り、母親が会釈してもそそくさとその場から去るような行動を取っていた。
利彦の息子・伸一(27)の停めた車が邪魔で、藤城の車が出せなくなった時、利彦と揉めて罵り合いになったことがある。母親が藤城をなだめようと出てくると、伸一が母親に「くそ婆、黙っとれ」と罵ってきた。
その後も藤城に対して、謝るどころか挑発的な態度だったという。
裁判
第一審・神戸地裁
初公判は2005年1月28日に開かれた。裁判の争点は、責任能力の有無であった。
弁護側は「近隣住民から迫害を受けているという被害妄想に陥り、妄想性障害の状態だった。犯行当時は心神喪失か心神耗弱の状態だった」と主張した。
これに対し神戸地裁は、精神鑑定を実施、「藤城は妄想性障害」と診断し「犯行時、物事の是非や善悪を判断する能力は著しく低下していたが、完全に喪失はしていなかった」とする結果を公表した。
検察側はこれを不服として、別の鑑定人による再鑑定を求め、神戸地裁はそれを認める決定をした。
2009年2月26日に論告求刑公判が開かれ、検察側は「犯行当時、藤城に刑事責任能力はあり、命によって罪を償うべきだ」として死刑を求刑した。
2009年4月9日の最終弁論公判で弁護側は「親類らからの被害妄想を募らせた犯行で、責任能力はなかった」と主張。また、検察側の「親類への長年の恨みが動機」との主張には、「7人を殺害するほどの動機とは考えられない。藤城は犯行当時、妄想性障害のため心神喪失か心神耗弱の状態だった」と述べ、無罪もしくは死刑回避を求めた。
2009年5月29日に判決公判が開かれた。
神戸地裁は「親類らに理不尽な扱いを受けていると感じ、殺意を抱くことは一般的にあり得る程度のことである」として、検察側が実施した精神鑑定を採用した。
そのうえで「精神障害ではなく、人格障害の特徴にすぎない。冷酷かつ残忍な犯行で、7人の尊い生命が奪われた結果は重大である」として藤城の完全責任能力を認定し、求刑通り死刑判決を言い渡した。
藤城は、これを不服として控訴した。
控訴審・大阪高裁
控訴審初公判は、2010年2月26日に開かれた。
弁護側は一審同様「限定的な責任能力しかなかった」と主張し、死刑判決の破棄を求めた。
一方、検察側は控訴棄却を求めた。
藤城は一審同様、裁判官からの全ての問いかけに対し、返答を拒否した。
2012年7月13日の公判で、新たに藤城の精神状態を診断した精神科医が「藤城は事件の約2年前から妄想性障害となり、近隣住民とのトラブルを機に事件を起こした。犯行当時、善悪の判断能力は著しく低下しており、心神耗弱状態だった」という鑑定結果を報告し、完全な責任能力を認定した第一審判決とは別の見解を示した。
2012年12月26日に、控訴審最終弁論が開かれた。
弁護側は改めて「犯行当時、善悪判断が難しい心神耗弱状態だった。第一審判決が完全な責任能力を認めたのは誤り」と死刑判決の破棄を求めた。
検察側は「妄想に基づく犯行ではない」として控訴棄却を求めた。
2013年4月26日に控訴審判決公判が開かれ、大阪高裁は一審の死刑判決を支持して、控訴を棄却。
裁判長は、妄想性障害は認めた一方で、見過ごせない攻撃性や、障害が犯行当時の行動制御能力に著しい影響を及ぼしていたとは言えない、と結論付けた。
判決後、会見した弁護人は「精神鑑定で心神耗弱と診断されたにも拘らず、このような判決が出て驚いている」と批判し、最高裁判所へ上告した。
上告審・最高裁
2015年3月27日に上告審口頭弁論公判が開かれた。
弁護側は「親族や近隣からのいじめに影響を受け、過剰反応した妄想性障害で、犯行時は心神耗弱状態だった」と死刑回避を主張した。
検察側は「犯行は計画的で、完全責任能力を認めた一審・控訴審の判決に誤りはない」と上告棄却を求めた。
上告審判決公判は、2015年5月25日に開かれた。
最高裁は、妄想性障害を認定したうえで、「障害が犯行に一定の影響を与えたことを考えても、刑事責任はあまりにも重大」として完全責任能力を認定し死刑判決は妥当だと結論付けた。
これにより、上告は棄却されたため、死刑判決が確定することとなった。
藤城は判決を不服とし、最高裁に判決訂正申立書を提出したが、2015年6月10日付で棄却されている。
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