「交際2女性バラバラ殺人事件」概要
邪魔になった愛人を殺害してバラバラにした兼岩幸男。
だがこの事件は発覚せず、3年9か月後にはまた別の愛人を同じ目にあわせる。しかし今度はDNA型鑑定により身元が特定され、兼岩と交際していたことも判明した。
彼は逮捕・起訴され、裁判が始まった。初公判後、兼岩は最初の事件でも関与が疑われることとなり、追及されたあげく自供を始める。ひとりは「自殺だった」、もうひとりは「正当防衛」と主張した兼岩だったが、判決では死刑が確定した。
事件データ
犯人 | 兼岩幸男(当時41歳) |
犯行種別 | 殺人事件 |
犯行日 | 1999年8月15日、2003年5月25日 |
犯行場所 | 愛知県蟹江町、愛知県一宮市 |
殺害者数 | 2人死亡 |
判決 | 死刑:名古屋拘置所に収監中 |
動機 | 男女関係の清算 |
キーワード | バラバラ殺人 |
「交際2女性バラバラ殺人事件」の経緯
1987年頃、兼岩幸男は保険会社の代理店研修を通じて、夫と子がいる渡辺愛子さんと知り合い、不倫関係となる。 兼岩は1989年頃、渡辺さんに手伝ってもらい結婚仲介業を始め、翌年にはその業務を行う株式会社を設立した。
兼岩は渡辺さんとの結婚を考えたが、本人から「子供もいるし、夫が別れてくれない」と言われて断念、1992年7月に別の女性と結婚する。結婚直前、渡辺さんは自殺するふりをし、兼岩の結婚をやめさせようとしたという。だが結局、渡辺さんとの関係は、結婚後も続くことになる。
1994年9月に双子の子どもが誕生したが、11月には会社が倒産。兼岩は債権者の取り立てから身を隠すため、自宅を出て妻とも連絡をとらず、渡辺さんと生活するようになった。
兼岩は1995年2月頃からスーパーで働き、渡辺さんも銀行でパート勤務をして生計を立てるようになった。だがパチンコで浪費するなど、いつも金が足りなかった。兼岩は破産手続中で、消費者金融等が利用できなかったので、渡辺さん名義のクレジットカード等で借金を重ねた。
その年の10月頃に転職。そして妻子と共に生活するようになった。給料は妻に渡して小遣いをもらう生活になったが、渡辺さんとの生活費や遊興費は、渡辺さんの収入と彼女名義のクレジットカード等の借金で補充していた。
1996年11月頃、兼岩は渡辺さんから、「アルバイト先のスナックのマスターと恋仲にある」と告げられる。彼は嫉妬心から、翌年1月頃に親戚から金を借り、愛知県蟹江町に渡辺さんと2人で住む部屋を借り、5月以降は一緒に暮らすようになった。そのため、兼岩は会社の同僚から借金するようになる。
やがて1999年6月頃からは、寿司の宅配のアルバイトもするようになったが、同僚に借金していることを会社に知られ、7月に退職を余儀なくされた。
渡辺愛子さんを殺害
その後、回転寿司等の外食チェーン店「アトム」の幹部社員募集に学歴を詐称して応募、1999年8月9日に採用されることになった。兼岩はせっかく入社できた大手企業だったので、ここから人生をやり直す気持ちだったが、そうなると渡辺さんが邪魔に感じ始めた。2人の生活のため、渡辺さんは勤務する銀行のクレジットカードで多額の借金をしていたからだ。
1999年8月10日、この日はカードの決済日だった。兼岩は返済の金を用意できなかったことを渡辺さんに伝えると、彼女は「親から金を借りてこい、自分が行ってやろうか」などと罵ってきた。渡辺さんは、”自分が勤務する銀行のクレジットカード” ということで神経質になっていたのだ。
兼岩は「アトム」に採用された件を、渡辺さんには言ってなかったが、もし知られたら「この女に台無しにされるかも知れない」と思った。そして ”渡辺さんと借金が消えれば一石二鳥” だと考えるようになった。
1999年8月15日、渡辺さんの怒りは収まらず、「女ひとり囲えんのに、大きな顔をせんといてよ。こんなんなら、マスターのとこ行こうかな」となじり、飲んでいたビールの缶を投げ付けてきた。兼岩は激高し、渡辺さんへの殺意が芽生えてしまう。兼岩は彼女の腹部に馬乗りになり、首を絞めて窒息死させてしまった。
その後、遺体はバラバラにして、愛知県小牧市の造園業者の焼却炉や、名古屋市中川区の河川敷近くの草むらに遺棄した。
1999年8月29日、小牧市の焼却炉から遺体の一部が見つかる。愛知県警は死体損壊・遺棄容疑で捜査したが、身元は分からなかった。
渡辺さんの家族は捜索願を出していたが、このころはまだDNA型鑑定が本格稼働しておらず、身元の確定には至らなかった。
外食チェーンで出世
1999年11月、兼岩は「アトム」の開発部部長に昇進した。だが翌年12月、慕っていた上司の失脚にともない左遷となる。そのため会社を退職、そして同月、外食チェーンの「焼肉屋さかい」に入社し、2001年2月には開発本部長に抜擢されるなど出世していった。
兼岩は「アトム」で得た「出店計画などの出店情報」を手土産に、「焼肉屋さかい」に有利に就職できたといわれている。
外食産業では、ライバル会社の出店情報を経営戦略に活かすのが常套手段であり、「アトム」の持つ出店情報等は、かなり価値のあるものだったのだ。
そんな中、兼岩は2002年3月頃、異業種交流会で村井栄子さんと知り合った。やがて2人は肉体関係を伴った交際を始めた。9月には共同で清掃管理会社を設立。村井さんが社長となり、兼岩が実質的に経営した。
その年の11月、愛知県一宮市赤見に村井さんのためにマンションを借りた。村井さんは離婚して独身だったので、次第に兼岩との結婚を強く迫るようになった。だが兼岩は、平成2003年3月頃から別の女性とも交際をするようになった。
兼岩は開発部長の地位を利用し、取引業者からバックリベートを得たり、会社の取引に自身が設立した有限会社を介在させるなどして利益を得るという、「背信的取引」をしていた。
そのことを村井さんは知るようになり、兼岩はこの背信行為を「焼肉屋さかい」に公表しないことと引き替えに ”結婚を迫られている” と感じるようになる。さらに別の女性との交際のこともあって、兼岩は村井さんを疎ましく思うようになった。
2003年5月15日、兼岩の背信的取引が上司に発覚する。しかし、すぐに解雇されなかったことから安堵して、今後は自身の会社を ”単体で利益を上げられる会社” にしようと考えるに至った。
兼岩は、「焼肉屋さかい」で集めた出店計画を、コンビニ運営会社に横流ししたうえ、下請けから集めたリベートやキックバックを資金に、村井さんをコンビニ店のオーナーにするなどしていた。
村井栄子さんを殺害
5月24日、交際していた女性と名古屋市のマンションで過ごしていると、村井さんから頻繁に連絡が入った。仕方がないので翌25日午前0時頃、村井さんのマンションに向かった。
兼岩は、村井栄子さん(当時49歳)をなだめようとしたものの、村井さんは、結婚しないと「焼肉屋さかい」に情報の横流しをしていることや、愛人を囲っていることをばらし、兼岩の妻にも不倫を全部バラすと脅した。
兼岩は激高し、村井さんの殺害を決意する。
午前1時30分頃、村井さんに馬乗りになって首を絞めて殺害。浴室で遺体を解体し、26日、岐阜県柳津町の境川や愛知県の雑木林に分けて遺棄した。
6月2日、岐阜県羽島市の境川左岸で遺体の一部が発見される。DNA型鑑定の結果、これが村井さんのものであることを特定、当時、村井さんと交際していた兼岩に対し、村井さんの死体損壊、遺棄等の嫌疑がかけられた。
初公判後に前の殺人を自供
2003年7月15日朝、捜査員が兼岩の住む名古屋市西区内のマンションに赴き、任意同行を求めた。こうして岐阜県警・羽島警察署にて取り調べが始まった。
午前中、兼岩はほとんど黙秘していた。午後になって村井さんの死体損壊・遺棄を認める供述を始めるも、殺害については否認していた。だが、夕食後の取り調べで、兼岩は殺害についても認める供述を始めた。
翌16日、死体損壊・遺棄容疑で逮捕。後に殺人で再逮捕された。9月10日、村井さん殺害で起訴されたが、このころの兼岩は一貫して、村井さんの死体損壊・遺棄・殺害を認める供述をしていた。
2003年10月、岐阜地裁で第一審初公判が始まる。その裏で、岐阜県警は過去に兼岩と交際していた渡辺さんが失踪していることを把握し、兼岩の関与を疑うようになった。
そして10月28日、兼岩を取り調べたところ、渡辺さんの殺害を認める供述をした。そのため12月5日、渡辺さん殺害でも逮捕、26日に起訴された。
兼岩幸男の生い立ち
兼岩幸男は1957年(昭和32年)10月30日、愛知県桑名市下深谷部で生まれた。
父親が韓国人、母親が日本人の私生児で、生活は貧しく、いじめられたりもした。高校卒業後は、大学進学はあきらめて自衛隊に入る。(兼岩は母親の籍のため、日本国籍)
父親が韓国人であることは、25歳の時に知ったという。
1987年頃、兼岩は保険会社の代理店研修で最初の被害者となる渡辺愛子さんと知り合う。彼女は結婚して子供もいたが、不倫関係となる。
1992年7月に別の女性と結婚。しかし、その後も渡辺さんとの関係は続いた。
1994年9月に双子の子どもが誕生。同年11月、兼岩は経営していた会社が倒産したため、債権者の取立てから身を隠すため、自宅を出て渡辺さんと生活を始める。
その後、いったん妻子の元に戻ったが、1997年1月頃、愛知県蟹江町に部屋を借りて渡辺さんと暮らすようになった。この生活のため、渡辺さんは、クレジットカードで多額の金を借りるようになった。
兼岩は、破産手続きをしていて借金ができない状態だったので、渡辺さんが兼岩の代わりに借金を重ねた。
交際相手を次々と殺害
1999年8月9日、回転寿司等の外食チェーン「アトム」に就職。それと前後して、渡辺さんは借金返済について強く迫るようになった。それを邪魔に感じた兼岩は、渡辺さんを殺害。
その後の2002年3月頃、異業種交流会で当時独身の村井栄子さんと知り合い、不倫関係になる。村井さんは結婚願望が強く、兼岩は次第にそれをうっとおしく感じ始めた。
2003年5月25日、村井さんは「結婚しないなら会社の不正行為や不倫のことを周りにバラす」と脅したため、激高した兼岩は彼女を殺害する。
兼岩は殺害後、2人ともバラバラにして各所に遺棄していたが、6月2日、川から発見された遺体の一部がDNA型鑑定で村井さんと判明、交際していた兼岩は逮捕となった。その後、公判中に渡辺さん殺害についても追及され、自白。
裁判では最高裁まで争った。渡辺さんについては「自殺だった」、村井さんについては「包丁で襲ってきたので正当防衛」と主張したが、認定されず2011年11月29日、死刑が確定となる。
現在は名古屋拘置所にて収監中である。
兼岩幸男が獄中で描いた絵
兼岩幸男が2009年に獄中で描いた絵。
兼岩が控訴審で死刑判決を受けたのは2008年9月で、最高裁で死刑が確定したのが2011年11月。
絵を描いたのはその間の期間ということになる。
このような仏様のイラストばかり7点を「極限芸術ー死刑囚は描くー(2017年)」展に出展していて、上記はそのうちの3点である。
絵だけを見ると、これが ”恐ろしい殺人鬼” が描いたとは、とても思えません。本当に人間って奥深いです。
スマホの待ち受けにしたら縁起が良さそうな気さえしますが、死刑囚が描いたと思うとちょっと敬遠してしまいます。
兼岩は経歴詐称や不正はしていたものの、上場企業で出世するなど手腕はあったようです。女性にもモテるようだし、真面目に生きていたらけっこう幸せな人生だったのでないでしょうか?
仏様ばかり描いているのは、被害者への弔いなのか、それとも自身の「死の恐怖」を和らげるためなのか、心情を聞いてみたいものです。
兼岩幸男の川柳
- 拘置所を 出るに出られぬ 死刑囚
- 俺だって 好んで落ちた わけじゃない
- さまざまな 事思い出す 取り調べ
- 「言ってない」調書を見れば 指印あり
- 真実は 机上論では わかるまい
- あきらめて おいでと待ってる 天の河
- 冤罪を 晴らして新たな 春の中
名古屋拘置所 兼岩幸男・作
裁判
2003年10月、岐阜地裁で一宮市の村井栄子さん殺害についての初公判が開かれた。
兼岩幸男被告は、起訴事実を全面的に認めた。
岐阜県警は、兼岩被告が過去に交際していた渡辺愛子さんが失踪中であることを把握、兼岩被告の関与を捜査していた。
初公判後の10月28日、兼岩被告を取り調べたところ、渡辺さんの殺害を認める供述をする。そのため12月5日、渡辺さん殺害でも逮捕、26日に起訴となった。
2004年11月8日の公判では、1999年の渡辺愛子さん殺害を一転して否認、ただし死体遺棄については認めた。さらに12月13日の公判で、渡辺さんは自殺していたと主張。そして「警察官による自白の強要や、黙秘権の侵害があった」と訴えた。
弁護側は2006年3月24日の公判で、情状鑑定の実施を申請したが、岐阜地裁は却下。
検察側は「2人の殺害は確定的殺意に基づく、計画的かつ残虐な犯行」、「執拗かつ残虐な犯行で、反省の態度も認められない」と断じた。
最終弁論で弁護側は、「渡辺さんは自殺だった。事前に殺害や遺体の解体・遺棄を計画したこともない」と無罪を主張。村井さん殺害については「衝動的・突発的犯行で、犯罪の発覚を恐れて慌てて遺体を処理した」と計画性を否定した。
兼岩被告は最終意見陳述で「いかなる事情があっても、人をあやめたり自殺をさせたりする状況になってしまったことについて釈明はない」と述べた。
2007年2月23日の判決公判で、裁判長は「短絡的、自己中心的で身勝手な犯行で、情状酌量の余地はない」「確定的殺意に基づく残酷かつ冷酷な犯行。社会に与えた影響は大きく、極刑をもって償うしかない」と述べ、死刑を言い渡した。
「渡辺さんは自殺だった」とする主張には、「遺体を切断して遺棄し、誰にも言わないことが、自らの行為を隠ぺいするためであるのは社会通念上明らか」と指弾した。また、「自白の強要」や「黙秘権の侵害」についても、これを認めず、「黙秘権の告知がなくても任意性に問題はない」とした。
上訴審
2008年2月20日の控訴審初公判で、弁護側は、「渡辺さんは自殺。犯行時間などから兼岩被告に殺害は無理だった」として、「一審判決は事実誤認、量刑も不当」と訴えた。
検察側は控訴棄却を求めた。
7月9日の弁論で、弁護側は村井さん殺害について「相手が包丁に手をかけたので、やむなく首を絞めた。正当防衛か過剰防衛だ」、「被害者は包丁を持ったまま体当たりしており、殺害行為を招いた落ち度があった」と訴えた。
また取り調べの違法性を指摘し、「自白の証拠能力は認められない」と述べた。
一方、検察側は自殺だったとする供述に、「罪を免れるための虚偽」と反論。村井さんの殺害も、「包丁を持っていたとは控訴審まで言わなかった。卑劣、狡猾で、更生の可能性はない」として控訴棄却を訴えた。
2008年9月12日の判決で、裁判長は一審の死刑判決を支持し、控訴を棄却した。
判決理由で「3年9カ月の時を経て、1度ならず2度までも交際中の女性を殺害している。自己保身のためには手段を選ばず、他人の生命を軽く見る態度が顕著。社会にとって極めて危険な犯罪的傾向を有している」と指摘した。
2003年の事件における正当防衛主張に対しては「重要な事柄を控訴審でようやく主張し始めること自体、不自然極まりない」と退け、捜査段階の自白調書も「任意性が認められる」とした。被告側の無罪主張に対しては、信用できないと退けた。
最高裁で死刑確定
2011年11月1日の上告審弁論で、弁護側は渡辺さんについて「殺害ではなく自殺だ」と主張。村井さんについても「刃物を持って襲ってきたため首を絞めた。正当防衛か過剰防衛が成立する」と訴え、無期懲役が相当とした。検察側は上告棄却を求めた。
2011年11月29日、判決で裁判長は弁護側の上告を棄却、兼岩被告の死刑が確定した。
裁判長は「不倫関係にあった女性を殺害し、3年9カ月後に再び同様の事件を起こしており、犯罪傾向は顕著。いずれも冷酷、残忍な犯行で動機に酌量の余地はなく、2人の命を奪った結果も重大。被害者に特段の落ち度もなく、死刑はやむを得ない」と指摘した。