2022年4月1日まで20歳未満は「少年」として扱われていました。しかし、少年法の改正により、18歳と19歳は「特定少年」として成人に近い扱いを受けることになりました。
この記事で紹介する5つの事件は、改正前で「少年」として扱われていたにもかかわらず、死刑が確定したものです。極刑である「死刑」判決は、少年に対してはかなり慎重な姿勢が見られます。しかし、あまりにも凶悪な犯罪の場合は、この限りではないのです。
少年法は2022年4月1日から改正され、18歳と19歳は「特定少年」として成人に近い扱いを受けることになった。起訴された場合は、実名報道についても解禁される。
1.大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
犯行当時 | 18~19歳 | 殺害人数 | 4人 |
あまりの凄惨さに、世間が衝撃を受けた事件である。
小林正人(当時19歳)、小森淳(当時19歳)、芳我匡由(当時18歳)の3人はともに暴力団の構成員。彼らは知り合ってまだ2週間ほどの “できたてグループ” で活動していた。
主に繁華街での恐喝で ”しのぎ” を稼ぐ少年らは、それだけでは飽き足らず「誰かを工事現場に人夫として送り込み、上前をかすめ取る」こと考えた。
1994年9月28日、街でトラブルになった26歳男性を拉致して工事現場に送り込もうとした少年たちだったが、これはうまくいかず失敗。しかし男性を解放せずに暴行死させてしまう。理由は顔を見られたからだった。
この事件のあと、警察への発覚を恐れて身を隠した小林の地元・愛知県でも旧知の仲間ひとりを過激な暴行により死なせてしまう。これは女性をめぐるトラブルが発端だった。
10月7日にはボウリング場ですれ違っただけの若い男性3人組に「顔を見て笑った」と因縁をつけ、車で連れまわしたあげく、長良川河川敷で凄絶な暴行の果てに2人を殺害する。
この時、解放された3人目の被害者男性が、警察に駆け込んだことで事件が発覚した。
時すでに遅し
わずか10日間ほどの間に、何の落ち度もない4人を殺害した少年たち。
彼らは事の重大さを理解できておらず、公判中も遺族を睨みつけたり、仲間に笑いかけるなど、「未成年だから死刑にならない」と余裕の態度が見られた。しかし第一審では実質リーダー格の小林に死刑、残りの2人に無期懲役の判決。
最高裁のころにはキリスト教の教誨も受け、反省や改心を見せ始めていたものの、3人全員に死刑が確定する事態となった。この判決に、世間の反応は意外と冷ややかだった。あまりの凄惨さに死刑判決に納得する意見が大半を占めていたのだ。
犯行時、知り合ったばかりで「凶暴さ」を競い合うことしかできなかった少年たち。4人の被害者が死亡するまで暴行を続け、止める者は誰もいなかった。「やめよう」と提案することは自分の「弱さ」を見せることだと勘違いしていたのだ。
中年にさしかかった年齢の今、彼らは何を思うのだろうか?
現在、小林は東京拘置所、小森・芳我の2人は名古屋拘置所に収監されている。
2.市川一家4人殺害事件
犯行当時 | 19歳 | 殺害人数 | 4人 |
1992年3月5日、千葉県市川市のマンションで、一家4人が殺害される事件が発生した。
犯人である関光彦(当時19歳)は、翌日あっけなく逮捕されるのだが、動機は多額の金が必要になったことで、この家には強盗目的で侵入していた。
関は市川市内のフィリピンパブのホステスを店に無断で連れ出し、暴力で支配して自宅アパートに2泊させた。このホステスが泣きながら店に戻ったことで大問題となり、暴力団から”落とし前”として200万円を要求されていたのだ。
そして、この家にはやみくもに侵入したわけではなかった。関はこの家に住む少女(当時15歳)とは接点があった。前月12日、少女は深夜に自転車でコンビニに行った帰り、関の運転する車に接触したことがきっかけで、部屋に無理やり連れ込まれて強姦されていた。その際、所持していた生徒手帳から住所や名前を知られたのだ。
午後4時半頃、チャイムを鳴らしても応答がないのを確認。試しに玄関ドアを開けてみると、意外にも鍵はかかっていなかった。部屋には少女の祖母(83歳)が寝ていたが、起こして通帳を出すように脅した。しかし関が思うほど簡単にはいかず、絞殺してしまう。
その後、少女と母親(36歳)が帰宅してきたが、この母親も怖がるどころか厳しく責め立ててきた。関はこの厄介な母親を黙らせようと包丁で刺して失血死させ、午後9時半頃帰宅した父親(41歳)に対しては不意を突いて肩を深く刺して殺害した。
父親の帰宅前、妹(4歳)が保母に連れられて保育園から帰ってきていたが、この時点では無事だった。
翌日あっけなく逮捕
その後、父親の経営する会社にも通帳があることを知った関は、深夜であるにもかかわらず少女に取りに行かせる。この時対応した社員が通帳と印鑑を少女に手渡したが、翌朝になって不審に思って警察に通報した。
駆け付けた警察は、呼びかけても応答がないため、ベランダから家に入った。そこで警察が見たのは目を覆いたくなるような惨劇のあと。そして、リビングに呆然と立ち尽くす少女と関だった。
関は自分も襲われているように演出するため、少女に包丁を持たせていた。
殺害されていたのは両親と祖母、そして幼い妹だった。早朝、泣き出した妹を、近所に犯行がバレることを恐れた関が刺したのだ。
逮捕後、関は「少女とは友人で、呼ばれて家に来たら家族が死んでいた」と供述した。少女はショックのあまり何も話せず、そのため関の言い分だけが報道されてしまった。
やがて警察が証言の裏どりをしたところ、2人は友人関係ではないことや、関の単独犯行であることが判明。彼は強盗殺人容疑で逮捕となった。
当初、関は自身が未成年なうえ、留置場にさえ入ったことがないのだから、少年院は免れないとしても出所後は元の生活に戻れると甘く考えていた。だが、裁判で第一審の求刑は死刑。ここで初めて事の重大さに気付くこととなる。
その後、第一審判決で死刑。控訴・上告も棄却され、2001年12月3日、最高裁で関の死刑が確定となった。そして、その16年後の2017年12月19日、関の死刑が執行された。享年44歳だった。
3.光市母子殺害事件
犯行当時 | 18歳 | 殺害人数 | 2人 |
1999年4月14日、山口県光市で18歳の少年による殺人事件が発生した。
犯人は福田孝行、彼は同じ社宅団地に住む母子を殺害した罪で死刑となった。動機は強姦目的で、生後11か月の女児まで殺害したことが重くみられたことは間違いない。
彼は高校を卒業後、地元の水道配管設備会社に就職したが、10日もしないうちに無断欠勤するようになった。この日も仕事をサボり、午前中は友人と遊んでいた。そして、午後から強姦する相手を探す目的で、団地の訪問を始める。
当初は不安もあったが、排水検査の作業員を装って個別に訪問するうちに、疑う人がいないことに自信を深める。
午後2時20分頃、7棟のある部屋から顔を出したのは、生後11か月の女児を抱いた主婦の本村弥生さん(当時23歳)だった。
孝行が排水検査の旨を告げると、彼女は疑うことなく部屋に招き入れてくれた。彼女は若くてかわいい女性だったので「強姦してでも性行為をしたい」という気持ちが高ぶってくるのを感じた。
孝行は、トイレ等で排水検査をしているふりをしながら、様子をうかがった。しばらく作業のふりを続けていたが、彼女のすきを見つけ背後から抱きつく。
突然のことに彼女は驚き、大声で悲鳴を上げながら激しく抵抗した。抵抗は想定した以上だったので、孝行は彼女を殺害して目的を遂げようと考える。
孝行は、弥生さんを押し倒したうえで馬乗りになり、彼女の首を両手で絞めて殺害。息絶えた彼女の服を脱がせ、体をさわったあと死姦した。
その後、激しく泣き続ける女児も殺害、2人の遺体を押し入れなどに隠した。そして、指紋を消す証拠隠滅工作をして逃走した。
事件は、仕事を終えて帰宅した夫・本村洋さんによって発覚する。
本村さんは押し入れの妻を見て110番通報し、駆けつけた光警察署員によって、押入の天袋から女児の遺体も見つかった。
孝行は4日後に逮捕され、裁判の結果、死刑が確定する。
裁判では「ドラえもんが、なんとかしてくれると思った」「生き返らせるために死姦した」など不可解で悪ふざけのような発言も多く、裁判員の心証も悪いものとなっていた。
また、控訴審から弁護団も変わり、これまで認めていた起訴事実を、否認するように主張を変えたことも逆効果となってしまった。
現在、彼は改姓して大月孝行という名前になり、広島拘置所に収監中である。
4.石巻3人殺傷事件
犯行当時 | 18歳 | 殺害人数 | 2人 |
千葉祐太郎は、気に入らないことがあると暴力を振るうような人間だった。
そんな祐太郎と沙耶さんは、2008年8月、2人がともに17歳の時に交際をはじめる。そして案の定、付き合って2週間ほどで彼のDVは始まった。
ある日、沙耶さんの妊娠が判明するが、彼女の家族は出産には反対だった。そのため2人は東京に駆け落ちしたが、補導されて連れ戻されてしまう。
結局、沙耶さんは周囲の反対を押し切り出産。こうして、2019年10月に長女が誕生した。
しばらくは子どもと3人で暮らしていたが、そのうち沙耶さんの気持ちに変化が訪れる。子どもが生まれてからも祐太郎のDVは治らず、彼女は娘にも虐待の矛先が向かうことを危惧したのだ。
沙耶さんは暴力から逃れるため、娘を連れて実家に帰ることが多くなった。そんな時、祐太郎は実家へ押しかけて強引に連れ戻そうとした。危険を感じた家族は、警察に通報するようになり、その回数は10回を超えた。祐太郎は、警察から母子に近づかないようにという警告を何度も受けたが、彼はそれを無視した。
いつしか沙耶さんの気持ちは、祐太郎から離れてしまっていた。そして彼女は、別の男性と関係を持ってしまう。祐太郎はそれを知って激怒した。
祐太郎は沙耶さんを責め、ひどい暴力をふるった。拳で肩を何度も殴り、正座させて模造刀で太ももや背中を中心に約20回ほど殴り付けた。その後、彼女を立たせて左太ももの付け根に、タバコの火を2回押し付けた。
翌5日にも虐待は続いた。タバコの火を沙耶さんの額に押し付け、模造刀や鉄棒で全身を殴った。さらに、昨日と同じ左太ももにタバコの火を押し付けることを強要。沙耶さんは言われた通りに、4回も自らタバコの火を押し付けた。それは、まるで拷問のようだった。
2日間に渡る壮絶なDVのあと、沙耶さんは実家に戻っていた。
祐太郎はいつものごとく、連れ戻そうと沙耶さんの実家に押しかけた。しかし姉の美沙さん(20歳)は、沙耶さんに会わせず警察に通報。彼は保護観察中で、警察に通報されると少年院送致になると考え、この日は引き下がった。警察が駆け付けた時には、祐太郎はすでに立ち去っていた。
沙耶さんの姉と友人を殺害
翌日10日午前6時40分頃。
祐太郎は子分格の少年Aを引き連れ、凶器を持って再び沙耶さんの実家へ現れた。この日、家には美沙さんの友人・大森実可子(18歳)さんと、姉の知人男性(当時20歳)が来ていたが、早朝のためみんな就寝中だった。
2階に侵入した祐太郎は、沙耶さんを連れて行こうとした。これに姉の美沙さんは気付き、通報しようとする。しかし、祐太郎は前日のように引き下がらなかった。彼は大声をあげながら、美沙さんの腹部を刺した。続いて大森さんの胸などを何度も刺し、2人を殺害。その後、知人男性の胸部を刺して重傷を負わせた。
祐太郎は沙耶さんを強引に連れて行こうとするが、沙耶さんは精一杯抵抗した。しかし、彼女は左足を切りつけられ、無理やり連れて行かれる。そして、彼女は車に押し込まれた。
しかし、逃走は長くは続かない。午後1時頃、祐太郎と少年Aは未成年者略取および監禁の容疑で現行犯逮捕、沙耶さんは無事に保護された。
裁判では、18歳の少年に対して死刑が適用されるかどうかが注目された。
犯行は計画的で、精神障害もなく、少年Aに罪を着せる工作なども発覚、裁判長は残虐性や身勝手さを指摘し、死刑を言い渡した。
その後、控訴するも棄却、上告は祐太郎が自ら取り下げたために、死刑が確定した。
現在は、仙台拘置支所に収監中である。
5.永山則夫連続射殺事件
犯行当時 | 19歳 | 殺害人数 | 4人 |
19歳の永山則夫は、1968年10月8日、金品を盗むために忍び込んだ米軍横須賀基地で小型拳銃1丁と拳銃の実弾約50発をみつけ、これを盗んだ。
拳銃を手に入れたことが、彼の人生を大きく狂わせる。彼は東京、京都、函館、名古屋で拳銃による殺人をくり返し、合計4人が犠牲となった。
最初の東京では、侵入した東京プリンスホテルの警備員に捕まりそうになり、逃げるために射殺、次の京都でも八坂神社で警備員を射殺、函館と名古屋ではタクシー運転手をそれぞれ銃で殺害したうえで売上金を奪った。
最後の犯行から5か月後の1969年4月6日、渋谷区で金品を物色しに入った「一橋スクール・オブ・ビジネス」で、警報装置が作動、駆けつけた警備員に発見されてしまう。
永山は拳銃を打ち、逃げることに成功したが、警備員には命中しなかった。
永山は、明治神宮の森に隠れていたが、5時28分頃に表に出てきたところを、張り込みしていた代々木警察署の署員にみつかり逮捕された。
永山が19歳の少年だったことで、世間の注目は高かった。裁判は、第一審の判決までに逮捕から約10年もかかった。量刑は紆余曲折あり、最終的には死刑が確定した。逮捕から量刑の確定まで約21年かかったことになる。
判決日 | 公判 | 判決 |
---|---|---|
1979年7月10日 | 第一審 | 死刑 |
1981年8月21日 | 控訴審 | 無期懲役 |
1983年7月8日 | 上告審 | 審理差し戻し |
1987年3月18日 | 差し戻し控訴審 | 死刑 |
1990年4月17日 | 差し戻し上告審 | 死刑確定 |
永山則夫はベストセラー作家に
第一審の公判中に、永山は手記「無知の涙」を発表、ベストセラーとなった。
その後も数冊の書籍を刊行し、ドイツでも評価されるほどの才能をみせている。
1982年8月下旬に完成した小説「木橋」は第19回新日本文学賞を受賞。やがて海外にも名前を知られるようになり、死刑確定後にはアムネスティ・インターナショナルや国際人権擁護団体・ドイツ作家同盟などが各国の日本大使館を通じ、日本国政府に恩赦要請の書簡を送るなどした。
しかし、量刑確定から約7年後の1997年8月1日、永山は東京拘置所にて死刑を執行される。享年は48歳、逮捕から約28年経っていた。
その日、刑の執行を悟った時、永山は激しく暴れたという。
遺骨は本人の遺志でオホーツク海(永山の故郷・北海道網走沖)に散骨された。