長野市一家3人殺害事件
拉致同然に連れて来られ、住み込みで無給で働かされる。現代の日本の話とは信じられないことが現実に起こっていた。
ヤミ金業者の親子によって妻子と引き離された伊藤和史は、1日中無給の労働、監視カメラ付きの生活、日常的な暴力にも耐えていた。自分が逃げて、妻子に危害が及ぶことを恐れていたのだ。しかし親子は妻にまで手を出そうと考えていた。それを知った伊藤は、反撃に出る。彼はこの凶悪親子の殺害を決意するのだった。
事件データ
犯人1 | 伊藤和史(逮捕時31歳) 死刑:東京拘置所に収監中 |
犯人2 | 松原智浩(逮捕時39歳) 死刑:東京拘置所に収監中 |
犯人3 | 池田薫(逮捕時34歳) 無期懲役 |
犯人4 | 斎田秀樹(逮捕時51歳) 懲役18年 |
犯行種別 | 強盗殺人、殺人幇助 |
犯行日 | 2010年3月24日~25日 |
犯行場所 | 長野県長野市真島町 |
被害者数 | 3人死亡 |
動機 | 奴隷生活から逃れるため |
事件の経緯
2010年4月10日、長野市若宮の貸倉庫内にあった車から、男性の遺体がみつかった。
この男性は、元暴力団員の宮城浩法(37歳)で、死因は頭蓋内損傷だった。発見できたのは、別の ”家族失踪事件” に伴う捜査の過程で得られたある証言によるものだった。
この証言をした伊藤和史は、2005年7月頃に宮城と知り合っていた。当時、大阪の風俗店で働いていた伊藤は、この宮城に目を付けられたことで、それまでの生活が一変することになる。
伊藤は自宅の鍵を取り上げられ、ビールジョッキで頭を殴られたり、包丁で足を刺されるなど、激しい暴行を受けた。家族や知人らの個人情報も把握され、逃げることもままならない状態。命じられるままに養子縁組をして、姓を変えては消費者金融から金を借りて宮城に渡すことを強要された。また、知人から借りた金や、仕事で得た金を宮城に渡したりもしていた。
翌8月頃からは、長野市にある「オリエンタルグループ」と称する会社の金文夫会長と、その長男で専務の金良亮のもとで、建築関係の営業や現場作業等を担当する従業員となった。
ここでは朝から晩までこき使われ、休みはほとんどなく1ヶ月フルに仕事してもほぼ無給。そのため夜も働いて稼ぐしかなく、毎日3~4時間しか寝られない過酷な生活だった。
オリエンタルグループはヤミ金業を本体とし、建設業なども営む会社で、韓国籍の金文夫会長のワンマン企業であった。
返済の滞った債務者から、借金のかたにその経営する建築業や水道設備業等を手中に収め、債務者はオリエンタルグループ傘下として働かせて借金返済に充てさせるなどしていた。
宮城浩法を射殺
このように、宮城と出会ったせいで過酷な生活を強いられるようになった伊藤だが、彼が宮城を殺したわけではなかった。
宮城は、沖縄県浦添市出身の元暴力団員だった。良亮の暴走族時代からの先輩で、暴力団時代には兄貴分だった。しかし、宮城がある犯罪で服役することになった時期から、良亮と宮城の関係はぎくしゃくし始めていた。
兄貴分である宮城は、良亮に犯罪で得た金を多く渡すように言い、暴力に出ることもしばしばだった。やがて、良亮は「宮城と縁を切りたい」「殺す」などと愚痴を言うようになった。
宮城が出所した2008年7月20日、良亮は宮城を殺害する。この日、刑務所を出所した宮城を、良亮は伊藤らを従えて迎えに行った。そして兵庫県警・尼崎警察署のすぐ側の車内で宮城を射殺。伊藤が車外に出ている間のできごとだった。
宮城の遺体は、長野市若宮の貸倉庫内に車ごと放置されるが、この殺人の一部始終を知る伊藤は、良亮や金文夫会長に対する恐怖が一層強まった。実際、事あるごとに「お前も宮城のようになりたいか?」と脅されたという。そしてこの事件以降、伊藤は金親子の支配下に置かれることになった。
伊藤は妻子と引き離され、住み込みで働くことを強要された。これまで通りの過酷な仕事は変わらず、さらに監視カメラ付きの劣悪な環境。それはもう ”強制収容所” のようだった。
共犯者・松原智浩
伊藤と同じような境遇の者は、ほかにも数人いた。
松原智浩が金親子と同居するようになったのは、伊藤よりも少し早い2004年からだった。松原は、工業高校卒業後は、まじめな配管工として働いており、前科前歴もなかった。
ある時、松原は独立しようと考え、金融機関から資金を借りた。しかし、金文夫はその借金を勝手に返済、本来なら金融機関に返済すべき金を、松原は金文夫に返さなければならなくなった。さらに松原の友人が資金を持ち逃げしてしまい、松原は返済に窮することになる。
こうして、松原はグループに支配されることになったのだ。
伊藤や松原は、金文夫の自宅兼事務所に住み込みで働かされていたが、監視カメラで見張られ自由はまったくなかった。睡眠時間も3~4時間しか与えられない彼らは、次第に正常な思考もできなくなり、この奴隷以下の暮らしから逃れるには、金親子を ”消す” しかないと考え始める。
伊藤らの反撃
きっかけは2010年1月、金文夫会長らと食事中のある会話だった。金会長は大阪にいる伊藤の妻を「長野に呼び寄せ、スナックで働かせる」と勝手に決めようとしたのだ。思わず反対の声をあげた伊藤は暴行を受け、妻の件は決定事項になりそうな勢いだった。
自分の妻子に危害がおよぶことを、伊藤は何より恐れていた。極悪な生活からの逃亡をあきらめたのも、妻子を守るためである。逃げたら妻子が危険な目に遭うかもしれず、助けを求めるべき長野県警には金親子と懇意にしている刑事がいて、警察はあてにならないと考えていた。
そうしてまで守ってきた家族を引き込もうとする金親子に対し、伊藤の心の中には殺意が芽生えていった。彼は松原に金親子の殺害について持ちかけたが、同じ気持ちを抱いていた松原はこれに同意。さらに同じ境遇の池田薫も引き入れ、犯行は3人で行うことにした。
犯行後の遺体の運搬については、オリエンタルグループと取引のあるプラスティック販売業者・斎田秀樹に100万円の報酬で依頼して了承を得た。
金親子を殺害
2010年3月24日午前1時20分頃、長野市真島町の金文夫会長宅において、伊藤和史(当時31歳)が睡眠導入剤(ハルシオン)を混入した雑炊を金良亮(30歳)に食べさせて昏睡状態に陥らせた。睡眠導入剤は斎田秀樹(当時51歳)から提供を受けたものだった。
朝になると、良亮の内縁の妻・楠見有紀子(26歳)が、良亮が目覚めないことを不審がっていた。この時点で松原智浩(当時39歳)は犯行を躊躇し始めるが、伊藤が説得。このままでは殺害計画が露見すると恐れた伊藤らは、計画遂行のためには邪魔な妻も殺害するしかないと決意する。
午前8時50分頃、2階の夫婦の寝室隣の居間において、伊藤が有紀子の背後から、いきなりロープを首に巻き付ける。そして転倒した有紀子の首のロープを伊藤・松原・池田薫(当時34歳)の3人が代わる代わる絞め付けて殺害した。
午前9時10分頃、次に寝室で寝ている良亮の首にロープを巻き付け、伊藤と松原が両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けた。良亮は窒息により死亡。2階物置から現金約281万円を強取した。
金文夫会長(62歳)は2階の居間にあるリクライニングソファーで眠っていた。午前9時25分頃、伊藤と池田は彼の首にロープを巻き付け、両端をそれぞれ強く引っ張って絞め付けて殺害。その後、池田が金文夫会長の持つ現金約135万円を奪った。
その後、3人の遺体を長野市の倉庫に運び入れた。翌25日朝、伊藤と斎田が愛知県西尾市の資材置場まで運び、スコップで掘った穴に3人の遺体を入れ、その上に土をかぶせて押し固めた。
事件の発覚
2010年3月26日頃、金文夫ら家族3人と連絡が取れず行方もわからなくなったとして、親族が捜索願を提出。長野県警は金文夫の自宅周辺などを捜査した。
4月7日には、伊藤ら従業員も事情聴取を受けている。翌8日、伊藤は会社が管理する倉庫内に、家族失踪に関するものがあるかもしれないと供述。これを受け、4月10日、県警は伊藤の立ち合いのもと、貸倉庫内から宮城の死体を発見した。
警察は、オリエンタルグループの社員であり、失踪家族と同居していた伊藤を、4月12日に被疑者として取り調べた。翌13日には家族が失踪した3月24日~25日の行動について取り調べを受け、伊藤は嘘のアリバイを話したが、矛盾点を指摘されて次第に追い詰められていく。
観念した伊藤は、「正直に話すので、2~3時間ください」と述べ、午後4時頃から犯行を自白し始めた。宮城の殺害についても、射殺したのは金良亮だが、自身が死体の遺棄を手伝ったことも供述した。
供述に基づき4月14日夜、斎田が借りている愛知県西尾市の資材置場から3人の遺体を発見。15日未明、伊藤・松原・池田・斎田の4人を死体遺棄容疑で逮捕した。5月6日には強盗殺人容疑で再逮捕されている。
伊藤和史は、宮城浩法の死体遺棄容疑でも逮捕、起訴された
伊藤和史の生い立ち
伊藤和史は1979年2月16日、大阪市で生まれた。
幼少期の伊藤は、母親の再婚相手である継父から日常的に肉体的・精神的に虐待を受けていた。継父は家に生活費を入れず、金のために母親を売り飛ばそうとしたこともあった。
中学時代は吹奏楽部に所属した。卒業後、高校はどこも受からずに専修学校へ進んだが、中退した。
その後、インド料理店に勤務。外国人と接する機会が多かったので、英語の勉強をして英検3級を取得した。しかしヘルニアを理由に退職し、ゴミ回収員や風俗店従業員として働いた。
22歳の時に結婚、子供もできた。結婚を機に母親との同居を辞めている。趣味はサッカーやビリヤード、ジャズ・クラシック鑑賞、花も好きだという。
前科前歴はなく、裏社会とかかわりを持ったことは一切なかった。
生活が一変
2005年に元暴力団員の宮城浩法に目を付けられたことから、伊藤の生活は一変する。
彼は、宮城と金良亮の2人に、半ば強制的に金文夫が会長を務めるオリエンタルグループの従業員にされてしまう。ほぼ無給で労働を強いられ、個人情報を握られ、日常的に暴力を受けたが、妻子を守るためにいいなりになった。
その後、良亮が宮城を射殺したことにより、伊藤の身柄は金親子の支配下となる。しかし、極悪な待遇はまったく変わらず、さらに住み込みで働くことを強要された。無給のため夜も別の仕事をこなし、睡眠は3~4時間。感情表現も制限され、事件の直前には満足な食事も与えられなかった。
事件の前年秋ごろから、金親子に対する殺意は抱いていたが、決定的になったのは2010年1月。「伊藤の妻子を長野に無理やり連れて来て、妻をスナックで働かせる」という話が出たことがきっかけだった。
2010年3月24日、同じくひどい目にあっていた仲間と共謀して金一家3人を殺害する。裁判員裁判では、彼らの置かれていた過酷な境遇はあまり考慮されず、死刑判決。その後、最高裁で死刑確定してしまう。
伊藤和史は現在、「辻野和史」と改名しており、東京拘置所に収監されている。
改名の理由は、外部との交流のための養子縁組であると思われる。日本では家族以外の交流が難しいという現状がある。
伊藤和史の獄中作品
瞳を閉じると 暗い世界が広がる
ふわっと 心のパレットが現れた
想いの筆が 描きだす
想い出の僕が 私の手を握ってる
どこへ連れていくのか・・・
どこへ行きたいのか・・・
このまま 一緒に行っていいのか?
もうひとりの私が涙してるけど・・・
天使の子供たちは 何を意味するの?
生きて帰れるかなぁ
妻子のところに戻りたいんだけど・・・
絵・詩 伊藤和史
最高裁で死刑が確定したのが2016年4月26日なので、この作品はその前に描いたものである。
”不安な気持ち” や ”妻子への思い” を短い言葉に込め、端正な文字で書かれている。これを見る限り、伊藤和史は「繊細な人間」という気がしてならない。
究竟涅槃:仏教における涅槃の境地のうち、最も尊い・最上の・究極の涅槃のこと。読経の抑揚上「くうきょうねはん」と読まれる。
裁判員裁判
裁判の最大の争点は、犯行が ”強盗目的だったかどうか” であった。
現金を奪うことも計画の内であれば、「強盗殺人罪」が適用され、死刑は免れない状況。そうではなく「殺人罪」なら罪一等を減じられる可能性があった。
第一審:長野地裁
2011年12月7日、長野地裁で初公判が行われた。
伊藤和史被告は、起訴事実について概ね認めたが「現金を取る目的で殺害したわけではない」と、一部否認した。奪った現金約416万円について、死体遺棄を依頼した斎田秀樹被告への報酬100万円分は共謀を認めるが、それ以外は取ったことも知らず、他被告と共謀したわけではないと述べた。
検察側は冒頭陳述で、伊藤被告が金文夫会長宅に住み込みで働く中、長時間労働や休日が少ないことに不満を募らせ、金親子に「死んでほしい」と思うようになったと動機を指摘。「事前に現金を奪うことを共犯者間で話し合っていた」と強盗殺人罪の成立を主張した。
また、「生死にかかわるような暴力はなく、伊藤被告には行動の自由があった」とした。「被害者を殺害しなければ生きていけない」という極限状態ではなく、犯罪を思い止まることもできたと指摘した。
弁護側は冒頭陳述で、元暴力団員・宮城浩法殺害事件で、現場に居合わせた伊藤被告が、金良亮に遺体運搬を手伝わされたあと、住み込みで働くよう強要されたと説明。良亮から「あいつみたいになってもいいのか」と脅されるなど、親子から日常的に暴力や脅迫を受けていたと強調し、「逃れるためには殺害するしかなかった。現金目的ではなく強盗殺人は成立しない」と反論した。
「強盗」について主張が分かれた
12日の公判で、松原智浩被告が証人出廷し「伊藤被告と『奪った現金は分けよう』と話し合った」と述べ、事前に現金分配を計画していたと証言した。弁護側は松原被告に「現金を奪いたくて3人を殺害したのか」と問うと「あくまで動機は金親子と縁を切るため」と金目当てを否定した。
15日の公判で、伊藤被告は ”現金を分配する会話” 自体を否定した上で「”金親子から逃げる努力” などは、しようがなかった。心の中で逃げたいと叫ぶしかできなかった」と束縛の強さを訴えた。
現在の心境については「法的に悪いことをしたと思う。でも宮城と良亮には暴行など、ひどいことをされ、間違ったことはしていないと思う。殺すか殺されるしかなかった」と訴えた。
また、男性裁判員が内妻・楠見有紀子の殺害を避ける方法がなかったかどうかを尋ねると「良亮に睡眠導入剤を飲ませたことがばれると思い、その場では考える余裕がなかった」と釈明した。
16日の論告で検察側は、争点の強盗目的の有無について、仲間の松原被告が証言した ”奪った現金を分ける会話” について「松原被告は逮捕後、不利な事も話しており、信用できる」と述べ、強盗殺人罪が成立すると主張。殺害方法について「無抵抗な被害者に首を絞め続け、冷酷非情で残虐極まりない」と非難した。
動機についても「束縛から自由になることを人命より優先していて、あまりにも身勝手」と指摘。伊藤被告を「一連の犯行の首謀者」と位置付け、「極刑を回避する事情はない。死刑に処すべき」と主張した。
弁護側は改めて「現金を目的に殺害したのではない。金親子の暴行や拘束から逃れるためだった」と強盗目的を否定。強盗殺人罪ではなく、殺人罪の適用を求めた。
死体遺棄事件については、伊藤被告が「良亮が宮城を射殺した」と述べた点を強調し「良亮から、言うことを聞かないと殺すと言われ、親子から逃れるには殺害するしか方法がなかった」と主張。弁護人は裁判員に向かい「伊藤被告は理不尽な拘束をされた。死刑は究極の刑罰。今回、伊藤被告を死刑にするのを躊躇すべきではないか」と死刑回避を呼びかけた。
伊藤被告は最終陳述で「お金を目的としていません。犯行の目的は、自分自身を取り戻して家族の元に帰りたかったことです」と涙ながらに訴え、裁判員や傍聴席に深々と頭を下げた。
第一審判決は死刑
2011年12月27日に判決公判が行われた。長野地裁は伊藤被告に死刑判決を言い渡した。
裁判長は「事前に共犯者と奪った現金を分配することを話し合い、分配金を得ている」として、強盗殺人罪の成立を認定。伊藤被告が犯行を計画し、3人の殺害を率先して行ったことなどを挙げ、「3人の命が奪われた結果は重大で、犯行は残忍」と指摘。「事件を主導した役割の重要性などから、死刑をもって臨まざるを得ない」と述べた。
控訴審:東京高裁
2013年5月14日の控訴審初公判で弁護側は、「伊藤被告は現金を奪うためではなく、金親子から受けていた日常的な暴行や脅迫から免れるために殺害した」と主張。「強盗殺人罪が本来意味するような利欲犯とは性質が異なる」として、強盗殺人罪の適用は不適当とした。
また、「強盗殺人罪が成立したとしても、死刑判決は量刑が不当」と主張。一方、検察側は控訴棄却を求めた。
12月3日の第7回公判における最終弁論。
伊藤被告が、別件の取り調べ中に本事件を自白したことについて、弁護側は自首の成立を主張、減刑を求めた。検察側は、自首は成立せず、また成立したとしても減刑の理由にならないと控訴棄却を求めた。
判決で裁判長は、現金を奪うことが主な目的ではなくても強盗殺人罪は成立するとし、「原判決の判断は正当」と述べた。
伊藤被告が金親子に行動の自由を制限され、強制的な無給の労働や日常的な暴力について「過酷で常軌を逸したものだった」と認めたが、「殺害以外の方法を選択することが可能だった」と指摘。そのうえで、伊藤被告が松原被告と具体的な犯行計画を立て、睡眠導入剤やロープなどを入手したと認定。伊藤被告が首謀者であるとの判断を示した。
また、自首の成立は認めたものの、警察に事情聴取に嘘を続けることができなくなったためとし、「自発性は低く、量刑上大きく斟酌できない」とした。そして、「3人の命を奪い多額の現金を強奪した結果は極めて重大。被告は事件を首謀し、死刑はやむを得ない」と述べた。
最高裁:死刑確定
2016年3月29日の上告審弁論で弁護側は「金親子から日常的な暴力で、過酷な支配を受けていた。殺されるかもしれないという恐怖があった」と強調。「追い詰められた末の犯行だった」と死刑回避を主張した。
検察側は「金親子の支配から逃げ出さず、状況を悪化させた。犯行の発案者で極刑はやむを得ない」と死刑維持を求めた。
判決で裁判長は、伊藤被告が長年、金親子から暴力を受けていたことなど「動機に汲むべき事情はある」と認めた。しかし「他の解決策を何ら試みておらず、安易かつ短絡的。3人の命を奪った結果は重大。被告は自ら準備を進めて率先して殺害を行うなど、終始犯行を主導しており、刑事責任は極めて大きい。反省の態度を示していることを考慮しても、死刑はやむを得ない」と述べた。
こうして伊藤和史被告の死刑が確定した。
共犯3人の量刑
被告名 | 確定日 | 確定した刑 |
---|---|---|
斎田秀樹 | 2013年9月30日 | 懲役18年 |
松原智浩 | 2014年9月2日 | 死刑 |
池田薫 | 2015年2月9日 | 無期懲役 |
伊藤和史 | 2016年4月26日 | 死刑 |
松原智浩被告は2011年3月25日、長野地裁で求刑通り一審死刑判決。
2012年3月22日、東京高裁で控訴棄却。
2014年9月2日、最高裁で上告棄却、死刑確定。
池田薫被告は2011年12月6日、長野地裁で求刑通り一審死刑判決。
2014年2月27日、東京高裁で一審破棄、無期懲役判決。
2015年2月9日、最高裁で上告棄却、無期懲役が確定。
斎田秀樹被告は2012年3月27日、長野地裁で求刑無期懲役に対し、懲役28年判決。
2013年5月28日、東京高裁で「強盗殺人罪の共謀」を認めた一審長野地裁の裁判員裁判判決を破棄、ほう助罪にとどまると判断して懲役18年判決。
2013年9月30日、最高裁で上告棄却、懲役18年が確定。
宮城浩法の死体遺棄容疑で逮捕されていた原田一正(当時35歳)は、2010年9月16日、長野地裁で求刑懲役2年6月に対して懲役2年判決。控訴せず確定している。
犯行当時の精神状態について
伊藤和史死刑囚。
彼に同情する人は多いです。不遇な幼少時代を経て、若くして結婚して子供もできたのに、その幸せな生活を ”被害者たち” に壊されてしまいました。
ある日知り合った男に暴力で支配され、無給で強制労働させられる。本当に日本の話かと思ってしまいます。
記事中でも書いたように、伊藤の生活は過酷でした。1日中働かされ睡眠時間が3~4時間。正常な思考ができなかった可能性はあります。裁判で指摘されたように、余裕があればほかの方法で解決することも可能だったかもしれません。でも当時の彼らは思考停止状態に近かったのではないでしょうか?
伊藤は、取材した記者に対して「今思えば、他に何かあったように思うんです。でも、あの時はああするしか思いつかなくて・・・」と話しています。多分、本当にそれしか思いつかない精神状態だったのでしょう。
調べた限りでは、伊藤和史という人は「家族を愛するまじめな青年」にしか感じないのです。前出の記者には最後に「僕、何のために生まれてきたんかと思います・・・」と言ったそうです。
なんとも、いたたまれない事件です。