「名古屋市スナック経営者強殺事件」の概要
20歳代半ばから、窃盗などで刑務所を出たり入ったりしていた武藤恵喜。32歳の時、ついに殺人に手を染めてしまう。この事件では15年服役したが、出所後も相変わらずスナックなどで窃盗をくり返した。
2度目の殺人を犯したのは52歳の時。この時点で刑務所暮らしは23年10か月と、人生の半分近くを刑務所で過ごしていた。この時は、いつものようにスナックで窃盗するつもりが、女性経営者に怪しまれたため、逃げることもままならず殺害してしまう。前回のように有期懲役刑で済むと考えていた武藤に下った判決は死刑だった。
事件データ
犯人 | 武藤恵喜(当時52歳) 読み:ぶとう けいき |
犯行種別 | 強盗殺人事件 |
犯行日 | 2002年3月14日 |
場所 | 愛知県名古屋市中区 |
被害者数 | 1人死亡 (1983年2月5日にも1人殺害) |
判決 | 死刑:名古屋拘置所 2013年2月21日執行(享年62歳) |
動機 | 強盗 |
キーワード | 無銭飲食、スナック窃盗 |
事件の経緯
武藤恵喜(当時52歳)は、人生の半分近くの23年10カ月間を刑務所で過ごしてきた。詐欺や窃盗などの罪がほとんどだったが、19年前には「旅館の女将を口論の末に殺害」するという凶悪事件を起こして15年服役したこともあった。
2002年1月14日に5度目の服役を終えて出所した武藤は、相変わらずスナックや居酒屋で無銭飲食や窃盗をくり返していた。2002年3月14日、所持金の尽きた武藤は、いつものようにスナックで売上金などを盗もうと考える。
武藤は、店の人を信用させるための偽の名刺を作り、適当な飲食店を物色していた。人が少ないところがいいと考えた武藤は、名古屋市中区栄4丁目の、雑居ビル3階にあるスナック「パティオ」に入った。
現場ビルは「女子大小路」「栄ウォーク街」と呼ばれる名古屋市中心部繁華街の一角に位置する地下1階・地上5階建てのビルで、約10軒の飲食店・スナックが入居していた。
隙のないスナック経営者
スナック「パティオ」は千葉春江さん(61歳)がひとりで営業していた。武藤が入店したのは午後11時頃で、「店は12時まで」と言われたため「隙を見つけて金を盗むには時間が足りない」と思い、武藤は店を出ようとした。
その時、千葉さんは思い直して「時間は気にしなくていい」と武藤を引き留めたので、彼は店内に入った。この店は普段は一見客は入れない方針だったが、不況で売り上げが落ち込んでいたため、一見の武藤を店に招き入れたのだ。
武藤は金を盗む隙をうかがうも、千葉さんには全く隙がなかった。会話もあまり楽しいものではなかったことから、武藤は「他の店を狙った方がいい」と考えるに至った。
武藤は千葉さんにタバコを買ってきて欲しいと頼み、その隙に逃げようと考えたが、彼女は適当に流して腰を上げなかった。武藤が「仲間を迎えに行ってくる」と表へ出ても、後をつけてきた千葉さんに引き戻された。
同じ階でスナックを経営する別の女性によると、千葉さんは事件直前、「客が少なくて暇」「閉店しようか」などと漏らしており、いつもは深夜0時に閉店することがほとんどだったが、事件が起きたこの日はめずらしく遅かったという。
女性経営者を殺害
午前3時頃、千葉さんが武藤の隣に腰掛け、「うちは本当は一見さんは入れない」と言い始めた。この調子では金を盗ることも店から逃げることもできず、それどころか無銭飲食で捕まってしまう。刑務所戻りになることを恐れた武藤は強盗を決意、千葉さんを椅子ごと引き倒した。
床に仰向けに転倒した千葉さんは、「初めからおかしいと思った!」と大声で叫んで抵抗した。武藤は手で千葉さんの口を塞いだまま立たせたが、その手を思い切り噛みつかれる。思わず手を離すと、千葉さんは再び大声で叫び始めた。
焦った武藤は、千葉さんの背後から首に左腕を回し首を絞めた。1分間ほどすると千葉さんは抵抗もできなくなり、おとなしくなった。武藤は千葉さんを床に寝かせ、カラオケのマイクコードで首を再び強く絞め付けて殺害した。
その後、武藤は証拠隠滅を図るため、グラスやカウンターなど手で触れたところをおしぼりで拭き取った。それからカウンター内側にポシェットを見つけ、入っていた約8000円を上着のポケットにしまった。
さらに武藤は、千葉さんがわいせつ目的で殺されたように偽装するため、遺体のスカートをまくり上げ、下着を途中まで引き下ろした。そして、指紋を残さないようタオルでドアの取っ手をつかみ、スナックを出た。
ビル管理者が遺体を発見
千葉さんの内縁の夫は、午前3時頃、妻の帰りが遅いのを心配して携帯に電話にかけたが、応答はなかった。夫は午前7時半頃、スナックが入居する雑居ビルの管理者に連絡。ビル管理者の長女が午前8時40分頃に鍵を開けて店内に入ったところ、千葉さんが倒れているのを発見し、愛知県警察に110番通報した。遺体の首にコードが巻かれていたことから、愛知県警・中警察署は殺人事件として捜査を開始した。
司法解剖の結果、死因はコードで首を絞められたことによる窒息死、死亡推定時刻は午前3時頃から午前8時半までの間であることが判明した。店内には洗う前の使用済みグラスが2個あったが、指紋は検出されなかった。
愛知県警は、「犯人が接客中の女性を襲い、犯行後にグラスの指紋を拭き取った」とみて捜査。店は月末に代金を振り込む会員制で、現金払いの客は少なく、レジスターはなかった。遺体の着衣の乱れについては、「犯人が、性的暴行目的と偽装した」と推測された。
武藤を逮捕
事件当日の午後8時30分~午後11時45分頃、武藤は名古屋市熱田区の居酒屋で無銭飲食し、経営者の金(5万9千円)を窃取。翌15日には熱田区のスナックで、女性経営者が別の客を見送るために店外に出た隙に物色していたところを経営者に見つかってもみ合いになった。この時、騒ぎに気付いた客が戻ってきたため、武藤は財布の入った上着を脱ぎ捨てて逃走した。
このスナックでの事件では、ビール瓶に指紋の拭き残しがあった。この指紋から武藤が浮上し、過去に類似性の高い殺人・窃盗事件を起こしていることから、武藤を指名手配してその行方を追った。
翌16日午後4時半頃、金山駅付近を捜索していた捜査員が、路上を歩いている武藤を発見し、愛知県警・中署に任意同行。その際の武藤の所持金はわずか10円で、無銭飲食に使うための偽の名刺を数種類持っていた。
取り調べで殺人について追及したところ、武藤は「金を奪う目的で客を装い店内に入ったが、口論となったことから女性を殺害した」と供述。武藤は強盗殺人容疑で逮捕され、2002年4月5日には名古屋地検が武藤を起訴した。
武藤恵喜の生い立ち
武藤恵喜は1950年(昭和25年)3月12日、長野県須坂市の青果店を営む実家で3人兄弟の次男として生まれた。青果店は武藤が中学校へ進む前、母親の病気をきっかけに廃業となった。その後、父親は鉄工所など働くようになった。
武藤は快活な少年だった。口達者でよく人を笑わせたが、虚言癖があり、すぐバレる嘘を簡単についた。寿司屋に偽の出前を頼んだり、開くあてのない数十人の宴会を予約するなどの悪さをして、父親に叱られては「もう、しません」と涙ながらに謝っていたという。
武藤について実兄は、「自分を大きく見せようとでたらめを言って、収拾がつかなくなる性格」と証言している。
刑務所を出たり入ったり
中学卒業後に実家を離れ、住まいや職を転々とした。20歳代半ばからは、食い逃げや窃盗で刑務所を出たり入ったりするようになる。
陸上自衛隊在勤中の1974年、武藤は寸借詐欺や同僚の財布を盗むなどして、懲役2年(執行猶予3年)の刑を受けた。そのため、自衛隊は懲戒免職となっている。
その執行猶予期間中、武藤は詐欺5件・窃盗2件・その他の余罪で、1975年2月に懲役8月+懲役2月の判決を受けた。先の執行猶予も取り消され、それも併せて刑務所に服役となった。
1977年4月に仮出所するも、すぐに建造物侵入・窃盗罪を犯し、1977年7月に懲役10月に処される。出所後には窃盗8件・詐欺6件を犯し、1980年3月に常習累犯窃盗罪で懲役3年の刑に服した。その後、仮出所となったが、無銭飲食・宿泊などの詐欺4件を犯している。
殺人の前科
本事件の19年前(1983年2月5日)、当時32歳の武藤は長野県諏訪市で最初の殺人事件を起こした。
このころ武藤は金がなく、東京都内で無銭飲食をくり返していた。そこで、刑務所で知り合った暴力団組員を頼って諏訪市に出向いたが、その組員からの仕事の口利きを受けられなかった。
1983年2月5日昼過ぎ、武藤は宿泊していた湖岸通りの旅館の居間でテレビを見ていたが、「テレビの映りが悪い」と旅館の女将(64歳)に申し出ると、「文句は代金を払ってから言って」と返されたために逆上、口論になった末に、女将を突き倒した。
女将は近くにあった靴べらを振り回して抵抗したが、武藤は背後に回り女将の首を絞めた。女将はぐったりするが、武藤は追い打ちをかけるように電気コタツのコードで首を絞め、女将を殺害してしまう。
その後、遺体を押し入れに押し込み、現金2万円と預金通帳を盗んで逃走。2月9日になって、女将の養子から長野県警・諏訪署に「継母が行方不明になった」と届け出があったため、旅館内を捜索したところ、遺体を発見、事件が発覚した。
事件発生当時から、犯人は宿泊客の可能性が高いとみられていた。
この事件から2週間後の1983年2月19日、武藤は東京都台東区浅草の喫茶店にいたところを、諏訪署の捜査員に詐欺容疑(無銭飲食)で逮捕された。この時、武藤の所持金はわずか39円しかなかった。
その後、諏訪署に連行された武藤は、翌20日、女将の殺害について容疑を認めたため、殺人・死体遺棄容疑でも逮捕。1983年10月28日、武藤は殺人・窃盗罪などで、長野地方裁判所から懲役15年(求刑懲役20年)の判決を受け、岐阜刑務所に服役した。
岐阜刑務所出所後
1998年4月、武藤は岐阜刑務所を出所した。
その3か月後の1998年7月22日には「中日新聞」の記者に対し、1996年に起きた「御嵩町長襲撃事件」について情報料を稼ごうとした。武藤は当時服役中で、この事件には何の関係もなく、話の内容も噂レベルの価値のないものだった。
記者がこれを断ると、武藤は記者名義で虚偽の ”約70万円のヨーロッパ旅行を予約する” という嫌がらせをした。
1999年9月14日午後10時頃、名古屋市中区のスナックで、女性経営者がトイレに立った隙に、店のカウンター内から現金2万円入りのバッグを盗んだ。だが1999年10月6日、この事件の窃盗容疑で愛知県警・中警察署に逮捕されている。
当時、武藤は大手ゼネコン2社の偽の名刺を勝手に作っており、これを使用して店の人を信用させていた。1999年5月以降、名古屋市内の飲食店などで同様の手口による約30件・被害総額約100万円の被害届が提出されている。
また、これ以外にも「中部国際空港(セントレア)建設のためチリから帰国し、自宅を新築した」などと偽り、名古屋市内の家具店に700万円分の家具を、和菓子店に500個の「内祝い饅頭」を、偽のゼネコン2社の名刺を使って予約注文していた。
この2件は、いずれも店側がゼネコン2社に電話確認したことで詐欺であることが判明し、実害は発生しなかった。だが、ゼネコンには同様の問い合わせが約100件あったことから、中署は2社の信用を傷つけた信用毀損罪・業務妨害罪で武藤の余罪を追及した。
2つ目の殺人で死刑、そして執行
武藤はこれらの窃盗3件・詐欺1件の事件で1999年12月、名古屋地裁で懲役2年2月の実刑判決を受け、2002年1月14日、5度目の服役を終えて刑務所を出所した。
その後も武藤は定職に就かず、サウナ・カプセルホテルを転々とし、生活費を得るために名古屋市内のスナックなどで無銭飲食・窃盗などをくり返した。
そして、出所して2か月後の2002年3月14日、本事件を起こす。別のスナックでの窃盗事件で、武藤の指紋が検出されたことから2日後には逮捕となった。
死刑確定から5年後に執行
裁判では一審で無期懲役、2審で死刑、最高裁で死刑確定となった。
死刑確定後、武藤は死刑廃止論者の弁護士に「死刑はあった方がいい」と言い、続けて「加害者は一日も早く忘れたいが、遺族は一生忘れられない。俺の死刑のボタンは遺族に押させてやってくれ」と話したという。
その後、2008年12月に恩赦出願したが、2010年9月に請求棄却。2010年9月、2度目の恩赦出願するも、2012年9月に棄却となっている。
それから約5か月後の2013年2月21日、収監先の名古屋拘置所で、武藤死刑囚の死刑が執行された。(62歳没)死刑確定から5年10カ月が経過していた。
この日は、奈良小1女児殺害事件の小林薫死刑囚、土浦連続通り魔事件の金川真大死刑囚も同時に死刑が執行されている。
この世間を震撼させた2つの事件の影に隠れるように、武藤のことはあまり報道されなかった。そのため、実の兄でさえ死刑執行を知ったのは翌日。それも、たまたまのことだったという。
裁判
第一審初公判は2002年5月28日、名古屋地方裁判所で開かれた。
罪状認否で武藤恵喜被告は「間違いありません」と起訴事実を認めた。取り調べでは強盗殺人について否認していたが、「本当は入店した時点からそうしようと思っていた」と述べた。
検察側は冒頭陳述で、「武藤被告は本事件直前にもスナックなどで、生活費目的で約30件の窃盗をくり返していた。被告は被害者を殺害した際、強盗目的を隠蔽するため、被害者の着衣を乱すことで性的暴行目的の犯行に見せかける偽装工作をした」と主張した。
開廷から約20分が経過したころ、被害者の内縁の夫が突然立ち上がり、「てめえ、この馬鹿野郎。俺が殺してやる」と叫んだ。そして柵から身を乗り出し、武藤被告に背後から襲い掛かり、左顔面・背中に殴りかかった。
夫はすぐに刑務官によって引き離され、裁判長に退廷を命じられた。この騒ぎにより公判は約5分間中断したが、武藤被告は公判再開後も動揺した様子はなかった。
※内縁の夫は武藤被告に怪我がなかったため、不起訴処分になった
一転して強盗殺人を否定
2002年10月8日の第4回公判における被告人質問で、武藤被告は弁護人に相談もせず、それまでと一転して「被害者を殺した後に金を奪うことを考えた」と主張し、強盗殺人罪を否定した。
2003年2月19日の論告求刑公判で、検察側は武藤被告に死刑を求刑。検察側は、「武藤被告は、犯行手段が酷似した殺人事件で服役した前科があり、更生の機会を与えられながら再犯した」と主張した。
弁護側は最終弁論で「大声を出して抵抗する被害者を黙らせようと首を絞めたが、この時点では金品を奪い取る決意はなかった」として殺人・窃盗などの併合罪が妥当と主張、量刑選択においては死刑・無期懲役を回避し、有期懲役刑に留めるよう主張した。
武藤被告は面会に訪れ続けていた牧師に「(懲役刑で)岐阜刑務所に入ると思います。20年近い務めに入ることは間違いない」と語っており、この時は死刑になることは想定していなかった。
一審は無期懲役
2003年5月15日に判決公判が開かれ、名古屋地裁は武藤被告に無期懲役判決を言い渡した。
裁判長は判決理由で、「金品を強取する目的で被害者を殺害した」と検察側の主張を認定、強盗殺人を否定した武藤被告の主張を退けた。
そのうえで、「強盗殺人罪の成立を否定する態度、1983年の殺人前科など、さまざまな情状を吟味すれば武藤被告は反省・悔悟の情に乏しい。再犯の可能性を否定し難く、極刑適用も考えられる」と断罪。一方で、「武藤被告は入店した時、無銭飲食と売上金の窃盗目的はあったが、検察側が主張するように当初から強盗殺人の犯意があったわけではなかった」として、犯行の計画性については否定した。
その理由として「武藤被告は窃盗などを諦めて逃走しようとしたが、女性に店の扉を施錠されるなどして失敗、『女性を殺害して売上金を奪って逃走するほかない』と心理的に追い詰められた。現場のマイクコードで首を絞めた手口からは、計画性は認められない」と説明した。
そして、「命を奪う『究極の刑罰』に決めるには疑いが残る。終生贖罪に当たらせることが相当である」として、検察側の死刑求刑を退けた。
この判決に、被告側・検察側ともに名古屋高裁に控訴した。
武藤被告は判決後、面会に訪れていた牧師宛の手紙で「万が一の死刑判決を恐れてはいたが、これでもう少し生き永らえることができそうです」と、判決直前の不安・判決直後の安堵の心情を綴っている。
控訴審で逆転死刑
控訴審では新たな国選弁護人が就任し、「強盗殺人の事実関係は争わず、反省の態度を示す」という方針に変わった。
武藤被告は公判直前、被害者の内縁の夫に謝罪の手紙を送ったが、夫はその手紙を読まずに捨てたという。
弁護側は、武藤被告が獄中から牧師に送った「死んで償いたい」と記された手紙を証拠提出。また被害者の内縁の夫への手紙を「贖罪の心の証」であると説明した。
そして「武藤被告に犯行の計画性はなく、女性を静かにさせるためにとっさに首を絞めた。逮捕後には贖罪の気持ちを深めており、有期懲役刑が相当である」と主張した。
一方で検察側は、被害者遺族の「死刑を望む思い」を文書にまとめて対抗、「武藤被告は1983年にも手口の似た殺人事件を起こした前科があり、スナック入店時点で強盗殺人の犯意があった」として、死刑を適用するよう求めた。
2004年2月6日に判決公判が開かれ、名古屋高裁は第一審の無期懲役判決を破棄して死刑を言い渡した。
名古屋高裁は判決理由で、1983年の殺人の前科を重視、出所後も無銭飲食などをくり返しており、「冷酷残忍な犯行で、故意に人命を奪ったのがこれで2回目ということを留意せざるを得ない」と指弾した。
そして、「追い詰められたのは自業自得の結果であり、無銭飲食・売上金窃盗などの犯罪をくり返していれば、いずれは起こるべくして起きた事件である。殺人前科による長期の服役後に更生機会を与えられたにもかかわらず、その後も同様の生活を続けた末に起こした事件であり、極刑は免れられない」と断罪した。
上告棄却で死刑確定
上告中の2004年5月、武藤被告は手紙で知り合った兵庫県内在住のキリスト教信徒(50歳代女性・主婦)と名古屋拘置所内で初めて面会した。その2か月後、武藤被告は女性と養子縁組し、「武藤」から女性の姓である「加納」に改姓した。(本記事では混乱を避けるため、武藤姓で統一)
この女性は、武藤被告の死刑確定後の2008年5月に末期癌で死去した。
2004年8月、控訴審の国選弁護人が体調を崩したため、上告審では別の国選弁護人に交代した。
2007年2月8日、最高裁で上告審口頭弁論公判が開かれ、結審した。
弁護側は、「殺害された被害者が1人の事件で死刑にするのは許されない」と主張し、死刑判決の破棄を訴えた。一方、検察側は「刑事責任は誠に重い」として、武藤被告・弁護側の上告を棄却するよう求めた。
2007年3月22日に判決公判が開かれ、最高裁は控訴審の死刑判決を支持し、武藤被告の上告を棄却した。
裁判長は「強固な殺意に基づく冷酷な犯行。死刑はやむを得ない」と述べ、「指紋をふき取り、被害者の衣服の一部を脱がせてわいせつ目的に見せ掛けるなどの偽装工作を行った」と指摘した。
武藤被告が過去に、旅館の女性経営者を今回と同様の方法で殺害し、金品を盗むなどした前科があることにもふれ、「刑事責任は重大で、死刑とした二審の判断は、やむを得ないものとして是認せざるを得ない」と結論づけた。
この判決により、武藤被告の死刑が確定した。