「奈良小1女児殺害事件」の概要
2004年11月17日、奈良県で帰宅途中の小学1年女児が行方不明になった。
小児性愛者の小林薫(当時35歳)は、下校中の女児を「送ってあげる」と車に乗せ、自宅マンションに連れ込んだ。そして、わいせつ行為をしようとするも女児は拒否。このまま帰せば親に言うだろうと考えた小林は、女児を殺害する。
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その後、女児の携帯電話を使って遺体の写真を両親に送信、さらに「次は妹だ」と脅迫メールを送りつけるという鬼畜のような行動を取った。そんな小林に下った判決は死刑。これは、”殺害人数が1人でも死刑確定” した凶悪事件なのである。
事件データ
犯人 | 小林薫(逮捕時35歳) |
犯行種別 | 誘拐殺人事件 |
犯行日 | 2004年11月17日 |
場所 | 奈良県 |
被害者数 | 1人死亡 |
判決 | 死刑:大阪拘置所 2013年2月21日執行(享年44歳) |
動機 | わいせつ目的 |
キーワード | ペドフィリア |
事件の経緯
新聞配達員の小林薫(当時35)は小児性愛者(ペドフィリア)で、過去には強制わいせつ罪などで有罪判決を受けて服役もしていた。2004年11月17日、仕事のストレスやパチンコによる金欠などで苛立っていた小林は、この日、衝動が押さえられなくなり、わいせつ行為の対象となる女児を探しに行った。
午前10時頃から車で大阪府八尾市方面で行動を開始したが、好みのぽっちゃり型の女児を見つけられず、最終的には土地勘のある奈良市富雄地区で物色することに決めた。
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奈良市立富雄北小学校1年の有山楓ちゃん(7歳、以下少女)は学校を終え、午後1時30分頃には下校を始め、その10分後に母親と携帯電話で話している。そんな少女の行動を、小林は監視していた。少女がひとりで帰宅しているのを確認すると、優しいおじさんを演じ、車で送ってあげると声をかけた。
こうして小林は、少女を車に乗せることに成功。そして、自宅に連れ込む口実として「忘れ物を取りに行く」と言い、生駒郡三郷町勢野東の自宅マンションに向かった。到着すると今度は「荷物が多いから運ぶのを手伝って」などと、巧みに少女を部屋に連れ込んだ。
殺害を決意した理由
部屋でしばらく過ごし、少女は宿題を始めた。小林は少女と接していて、思った以上にしっかりした子であることに気付く。”この子は家に帰ったら、自分のことを親に言うんじゃないか?” そう思うと、前科のある小林は気が気ではなくなっていた。親から警察に話が伝われば自分は捕まるだろう、欲望を満たしたあとは殺すしかない、と次第に考えるようになった。
午後3時頃、少女が宿題を終えたため、小林はまず風呂場でわいせつ行為をしようと考えた。少女に膝と手が汚れているので風呂に入るように言い、服を脱がせて入浴させた。
少女はお湯に顔を浸けられることが自慢で、小林にもそれを披露した。小林は少女の体を触るなどしていたが、少女は嫌がり拒否反応を示し出した。小林は、「大声を出されると近隣に聞こえてしまう」と思い、少女を風呂の湯に沈めて溺死させることにした。
小林はもう一度顔を沈めるように誘導し、少女は素直にその通りにした。すると小林は頭と体を押さえつけ、少女の全身を力づくで浴槽に沈めた。少女は抵抗する力も尽き、5分後にはまったく動かなくなった。
一方、少女の母親は午後2時30分頃帰宅したが、少女が帰宅した形跡がなく不審に思った。母親は通学路などを探すもみつからず、夕方になっても帰らないため、午後6時45分頃、奈良西署に届け出をした。
非情なメール送信
殺害後、小林はアリバイ作りのため、職場や行きつけの飲食店に出向いた。そうこうしているうちに、小林は屍姦することを思いつく。
帰宅した小林はそれを試してみたが、少女の体はすでに死後硬直が始まっていたため、思うような行為はできなかった。午後7時20分頃、口を開かせようとしても開かなかったため、ナイフで歯を10本えぐり取るという残虐な行為をしている。
その後、少女の携帯に母親から電話がかかってきた。小林は電話に出て「少女は俺のものにした」などと告げた。さらに世間を騒がせてやろうと考え、午後8時4分、母親に少女の遺体の写真を送りつけた。それから遺体を車で生駒郡平群町まで運び、午後10時頃に道路脇側溝内に遺棄した。
それから約2時間後の11月18日午前0時5分頃、通りがかりの男性が少女の遺体を発見。奈良県警は誘拐殺人・死体遺棄事件として特別捜査本部を設置した。
検視の結果、死因は水死と判明した。しかし、側溝に水は流れておらず、肺に溜まった水は水道水とわかったため「犯人は水を張った浴槽などで水死させた」と判断された。また、少女の衣服に付着していた毛を鑑定したところ、血液型がB型の成人男性の体毛であることも判明した。
事件当時、犯人から身代金の要求もなく、捜査本部は犯人の目的を絞り込めずにいた。また当日の午後2時頃、少女が不審な男の車に自ら乗り込むところを近隣住民が目撃していたこともあり、”知人による怨恨” の可能性も視野に捜査を続けていた。
事件は過熱気味に報道されていたが、ひと月も経つと落ち着きをみせるようになった。小林は再び世間を大騒ぎさせようと考え、そんな12月14日午前0時頃、鮫島公園東側駐車場(北葛城郡河合町中山台)まで出向く。
そして少女の携帯から母親に「次は妹をもらう」というメッセージとともに、”妹の画像” と ”以前送った遺体の写真” を送信したのだ。
そして逮捕へ
捜査本部は、少女の携帯から発信された複数回のメールや電話の記録を解析した。その結果、すべてが河合町周辺から発信されていることを突き止め、その周辺を重点的に捜査していた。
また、犯行に使用された車は「薄緑色のトヨタ・カローラⅡ」で、その車は現場周辺の防犯カメラに複数回映っていた。こうして捜査の進展により情報が集まると、容疑者として小林が浮上するのは時間の問題だった。
逮捕の決め手は、「少女の写真を自分の携帯に送信していた」ことだった。そして事件後、その写真を行きつけのスナックで「ネットで見つけた」と言って見せびらかしていたことも、怪しまれた原因のひとつだった。
さらに小林は、薄緑のトヨタ・カローラⅡを知人に借りていたこともわかった。防犯カメラには、この車がUターンして、少女を追うように走行しているのが記録されていた。
また、小林は犯行当日は仕事が休みで、アリバイもなかった。
12月30日、毎日新聞は第一面に「きょうにも重大局面」という記事をスクープした。これは ”犯人逮捕は間近” という内容であったが、新聞配達員である小林は自らこれを配達した。
奈良県警は、これを読んだ小林の逃亡を危惧したが、自分が容疑者だとは思っていなかった小林は、配達を終えて販売所に戻ったところを逮捕された。
小林宅を家宅捜索したところ、少女のランドセル・携帯電話などが見つかった。その後、小林は殺害・死体遺棄などについて容疑を認めたため、2005年1月19日に殺人・死体遺棄の容疑でも逮捕されている。
母親へ少女の遺体の写真を送信した理由について、小林は「結果を知らせてやりたかった」と供述した。
小林薫の生い立ち・前科
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小林薫は1968年11月30日、大阪府大阪市住吉区で3人兄弟の長男として生まれた。家はプロパンガスの販売店を経営していた。父親はしつけと称して暴力をふるったが、母親は優しかった。小林は生まれつき左目が弱視で、学校では『ロンパリ(斜視)』とか『人の顔を見て話せ』などとからかわれた。
小学2年頃からは万引きをくり返し、中学校時代は原付を盗むなどの非行を繰り返した。そのせいか、小学校・中学校はいじめられて、教室でひとりで過ごすことが多かった。
公判中、弁護士に一番つらかったいじめについて聞かれ、「学年全体から無視されること」と答えている。「この世に存在していない、無のような感じ」とのことだが、それでも学校は家にいるよりは楽しかったという。
小学4年の時、母親が三男の出産時に死去し、以降は父親と祖母に育てられた。父親は依然として暴力的で、ゴルフクラブや金属バットで殴られることもあった。小林は、この頃から喫煙などの非行も行うようになっている。
中学生で新聞配達のアルバイトを始めたが、月約7万円の収入のうち5万円を父親に渡し、残りの2万円が小遣いだった。しかし、それでは足りずコンビニで万引をした。初の性体験は中学2年の時で、先輩に連れられて行った飛田新地で4回ほど買春をした。
中学3年の冬、弱視ではなかった右目の視力も低下して目がかすむようになった。父親に訴えても取り合ってくれず、しばらくして近所の病院に行ったところ、網膜剥離と診断された。すぐに兵庫県西宮市の病院で手術し、一カ月ほど入院した。
高校で小児性愛者に
1984年4月、大阪府豊中市の私立履正社高等学校に進学。入学後も家計を助けるため、新聞配達を続けた。高校2年の時に、知人からあるビデオを借りた。それは、小児性愛者向けのアダルトアニメだったが、小林はこれに衝撃を受ける。それ以来、女児に対して性的に興奮するようになった。
同じく高校2年の時、同級生と一緒に中学生を恐喝して初の逮捕となる。小林は見張り役だったが、保護観察処分を受けた。
初めてわいせつ行為を行ったのは、高校3年生の時。所属していた写真部の鳥取砂丘2泊3日の夏合宿の際、自由時間に小学校3年生ぐらいの女児が下校するところを見かけた。興奮した小林は、女児がマンションの階段を上がっていくのを追い掛け、後ろから抱きついて下着の上から体を触った。
1987年に高校を卒業すると、大阪市内の居酒屋チェーン店や箕面市の新聞販売所などで勤務した。
小林薫・小学6年生の時の作文
「悲しかったこと」 小林薫
ばくの母は、五十三年七月五日に赤ちゃんを、産んですぐに出血多量で死んだ。ぼくは五時間以上ないた。死ぬ前の日、みんなでおいわいをして病院に行くお母さんを、おくった。それが、お母さんといっしょにいた最後だった。五年になって、ぼくはそのことを「かわいそうな〇(弟の名前)」という詩にかいた。その詩が本にのった。この詩を、天国にいるお母さんにみせたい。
授業参観や日曜参観、そのときには、みんなのお母さんがくる。でも、ぼくのお母さんは来ない。そのたびに、みんながうらやましくなる。考えると、お母さんの寿命はふつうの半分しかなかったのだ。幼稚園のとき、ぼくは、足の骨を折ったことがある。お母さんはつきっきりで看病してくれた。いままででも、心配をかけすぎて、寿命が縮まったのかもしれない。
もうすぐ小学校卒業。お母さんが死んでもう二年になる。お母さんは墓石の下でねむっている。いつか、お母さんのいる天国へ、おばあちゃんも、お父さんも、ぼくも、弟二人も行く。お母さんとこんどあうときは人をいじめないようになってあおうと思う。
小林薫は、裁判でも動機を語らなかった。臨床心理士の長谷川博一氏は、死刑が確定する前の小林と、面会などを通じて心の闇を探ろうとした。長谷川氏は、小林の犯罪には「母親の死」が大きく関わっていると考えてる。
小林の母親は、3男の出産時(小林が小学4年)に死亡したが、父親の暴力から庇ってくれていた母親の死は、普通以上に大きな意味を持つのだ。
母親の死によって受けた大きな心の傷と、その後のストレスに満ちた生活は、誰も癒してくれることはなかった。彼は作文にもあるように、母親のいる他の子どもを羨ましがり、それがいつの間にか妬みに変わっていったのだ。
被害者の少女は、携帯電話のGPS機能によって、いつどんな時でも母親との絆を持っていた。離れている時でさえ母の愛情を受けているこの少女に、小林は「嫉妬」を超えて「憎しみ」を抱いたのではないか?長谷川氏は、そう読み解いている。
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「小学1年生の少女が受けていた、母親の愛情に嫉妬して殺害した」と、36歳の大人の男が言いづらい気持ちは理解できる。しかし、それが動機を語らなかった理由なのか、死刑が執行された今となっては誰にもわからない。
(参考文献:殺人者はいかに誕生したか/長谷川博一著)
性犯罪は再犯する
20歳頃から、朝刊の配達中に下着を盗み始めた。女性の下着なら年齢は問わなかったという。風俗店にも通い、成人女性との性的関係も持っていた。
小林が21歳の時
新聞販売所時代の1989年4月、箕面市内で5歳の女児2人に対して「服の汚れを取ってあげる」と声をかけて服を脱がせ、胸や陰部を触り、自分の性器を女児の口に入れるなどのわいせつ行為で逮捕された。この時、強制わいせつ罪・窃盗罪で懲役2年(執行猶予4年・保護観察付)の有罪判決を受けた。
その後はトラック運転手として運送会社で勤務し、特定の女性と初めて付き合った。会社の先輩の紹介で知り合った短大生で、知り合って3日目にプロポーズしたという。
結局、結婚はなかったが、小林は当時のことを「家庭を持って落ち着きたかった。家に帰って電気のついた明るい部屋に戻りたかった」と話している。このように、成人女性と付き合ってはみたものの、女児への性的関心を抑えることができなかった。
小林が22歳の時
1991年7月21日午後5時30分頃、住吉区苅田の公団住宅前で、住人の5歳の女児にわいせつ行為をしようとした。その時女児が泣き出しそうになったため、女児の首を絞め付けるなどして、1週間の傷害を負わせた。
小林はこの事件により同年10月に強制わいせつ致傷罪で懲役3年の実刑判決を受けた。これにより執行猶予も取り消され、約4年間にわたり服役したが、1995年11月に仮出所した。
仮出所して実家に戻ったが、父親からは「出て行け」と石を投げつけられ、塩をまかれ、「恥さらし」とののしられた。
悪事だらけの人生
仮出所後、1カ月後で実家を出ると、中華料理店に住み込みで働き、その後は読売・朝日・産経などの新聞販売店を転々とした。だが、どの職場でも勤務時間や給料の不満を言い、飲酒による遅刻や無断欠勤、集金の持ち逃げ、顧客名義で架空契約の締結などの問題行動により、短期間で仕事を辞めることを繰り返した。
携帯を勤務先の人名義で契約してもらったにもかかわらず、その使用料金トラブルで職場に居られなくなったこともあった。また、仕事以外でも嘘が多く信用できないと評価されるようになっていった。
2004年1月以降、小林は大阪市東住吉区の毎日新聞販売所で勤務したが、同年5月6日以降は出勤しなくなった。その後、集金した約23万円を持ち逃げしたとして被害届を出され、事件当時は約6万5000円分について業務上横領容疑で逮捕状を請求されていた。
2004年6月には滋賀県内の読売新聞販売店に勤務したが、勤務態度が悪く約1か月半で解雇されている。
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2004年6月末~11月2日頃までの間、7回にわたり滋賀県守山市など5か所で子供用パンツなど合計31点を盗んだ。
9月26日には、奈良県北葛城郡王寺町のマンション駐車場で遊んでいた6歳を言葉巧みにマンション敷地内へ誘い込み、わいせつ行為を行ったうえ、携帯電話で撮影するなどしている。
2004年7月から、事件当時の職場である「毎日新聞西大和ニュータウン販売所」(奈良県北葛城郡河合町)に勤務していた。
小林は逮捕された2004年12月30日付で懲戒解雇されたが、毎日新聞大阪本社は「従業員の監督責任がある」として、2005年1月末をもってこの販売所との取引を解約。さらに、同社販売局長を役職停止2週間にするなど3人の社内処分を発表した。
獄中アンケート
小林は、死刑確定後は大阪拘置所に収監されていた。収監中、死刑確定者らを対象に実施されたアンケートに対し、以下のように回答している。
小林薫死刑囚の最後の瞬間
2013年2月21日、拘置中の大阪拘置所にて、小林死刑囚の死刑が執行された。
この日は、以下の2名についても死刑が執行されている。
- 土浦連続殺傷事件 の金川真大
- 名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件 の武藤恵喜
その時の様子が、河村啓三死刑囚がフォーラム90に宛てた手紙の内容からわかる。これによると、小林薫死刑囚の最後の言葉は、「ふ、ふ、風呂とちゃうんか」だったという。
河村啓三死刑囚は当時、同じ大阪拘置所に収監されていたが、2018年12月27日に死刑執行されている。
父親が手記を発表
事件発生から19年が経った2023年11月17日、被害者の有山楓ちゃんの父親・茂樹さんが思いをつづった手記を公表した。
「あの日楓が歩いて帰っていた道を下の娘と今年初めて歩きました。楓の手掛かりを探しながら歩いた道はとても長く感じました。このような思いを誰もしないためにも、子どもたちが被害に遭わない社会を心から願います」
また、楓ちゃんが通っていた奈良市立富雄北小学校では、命の大切さについて考える集会が開かれた。 後藤誠司校長は、「みなさんには人を傷つける人にも、傷つけられる人にもなってほしくありません。優しい気持ちで人に接してください。自分も人も大切にしてください」と生徒たちに語りかけた。
裁判記録:死刑判決
2005年4月18日、奈良地方裁判所で初公判が開かれた。
検察官は「反省の気持ちも更生する自信もない。早く死刑判決を受け、第2の宮﨑勤か、宅間守として世間に名を残したい」という小林の供述調書を読み上げた。情状鑑定では、反社会性人格障害およびペドフィリア(小児性愛者)と診断された。
第5回公判で小林は初めて謝罪の言葉を述べたが、「犯行に満足した」という気持ちに変化はない、という内容の発言もしていた。また、「夢に少女が現れ、苦痛を感じていたので逮捕されて楽になった」などと述べた。
2006年3月27日の第6回公判で小林は「裁判は茶番。元から自分は死刑を望んでいる」と述べた。だが、死刑を望む真意や、少女の両親へ謝罪しない理由などについて聞かれても「言いたくない」と拒み続けた。
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2006年5月25日の第8回公判では、被害少女の父親が「被告人には反省や後悔が感じられない。極刑以上の刑を望む」と述べた。
主張が二転三転
小林は、捜査段階から主張が二転三転している。精神鑑定の段階では殺害を否定し「少女に睡眠薬(ハルシオン)を飲ませていたずらしようとしたが、風呂の中で溺死してしまった」と供述した。
しかし、奈良地裁は「遺体解剖の結果ハルシオンは検出されず、水中でかなりの力で抵抗したあとがあり、睡眠薬による溺死とするには不自然。自身の刑事責任を軽減するための虚偽と言わざるを得ない」として小林の主張を退けた。
また、上記手記についての被告人質問では「裁判官や検察官だけでなく、弁護人2名でさえ警察供述調書を鵜呑みにして、真偽を検証していない。人を死刑にする裁判としてはあまりにもお粗末だ」という反発心から、「『この裁判は茶番』と発言した」と説明した。
2006年6月5日に求刑公判が開かれ、検察官は小林被告に死刑を求刑。小林はあくびをして傍聴人を驚かせた。
6月26日の第10回公判で、弁護人は小林の殺意を否定して死刑回避を求めた。小林は最終意見陳述では謝罪の言葉を口にせず「犯行は自己の命で償うしかないから早く死刑になりたい」と繰り返し述べた。
また同日、奈良地裁宛に書いた手紙では「償いは死刑以外ではできない。(無期懲役で)服役することになっても、更生するつもりはないし、税金の無駄遣いになるだけだ。服役後、社会に出たら次こそ死刑になるよう、大勢の被害者を出す残虐な犯行を行う」とも書き記していた。
異例の死刑判決
2006年9月26日に判決公判が開かれた。判決宣告前、小林はガッツポーズをしたり、にやりと笑ったりしていた。
裁判長は、「殺意は計画的ではなく、とっさに起きた」とする弁護側の主張は退け、「自己の異常な性欲を満たすための犯行。被告人は根深い犯罪性向を有し、反省しておらず更生可能性もない」と指摘。そして、求刑通り死刑判決を言い渡した。
奈良地裁は「永山基準」に言及し、「殺害は1人だが、被害者は抵抗もできない女児で、何ら落ち度がなく、性的被害にも遭っている。自己中心的な動機の残忍な犯行で、反省もない。遺族の被害感情や社会的影響の大きさなども考えると、結果はかなり重大で、被害者の数が1人であることだけで死刑を回避することはできない。本件の結果以外の情状も極めて悪く、生命で罪を償わせるほかない」と結論付けた。
弁護側は判決を不服として即日控訴したが、小林は自ら控訴を取り下げ、2006年10月11日に死刑が確定した。
2006年10月30日、小林は遺族に対し、弁護人を通じて「自分の行為は、人として最低な行為であったが、公判中に謝罪の気持ちを表したくてもできなかった」と書かれた文章を手渡そうとした。
しかし、公判中の様子から「本心からの謝罪とは思えない」と遺族に拒否された。
これについて、宮﨑勤・宅間守と面会した長谷川博一教授は「ほかの2人と違い、悪いことをしたということはしっかり認識している」と述べている。
そして死刑執行…
弁護側は死刑確定を受け入れる方針だったが、2007年6月16日に一転して大阪高裁へ控訴取り下げ無効を求める審理開始の申し立てを起こした。しかし、これは2008年4月に棄却されている。
2008年12月には再審請求を申し立てたが、奈良地裁により2009年5月に棄却。これを不服とした即時抗告も、大阪高裁は2009年8月6日付で棄却した。さらに最高裁へ特別抗告したが、2009年12月15日付で棄却され、再審が開始されないことが確定した。
2度目の再審請求の準備中だった2013年2月21日、大阪拘置所で小林の死刑が執行された。(享年44歳)