池袋通り魔殺人事件
1999年9月8日、東京有数の繁華街・池袋で衝撃的な通り魔殺人事件が発生した。犯人の造田博(当時23歳)は、少年期からの不遇な人生に嫌気がさし、”努力しても報われない社会” への反発心から凶行を決意したのだった。
造田は白昼の繁華街で次々と人を襲い、2人を殺害、6人に重軽傷を負わせた。彼は池袋駅まで逃げたところを通行人男性らに取り押さえられ、警察によって現行犯逮捕される。
裁判では死刑が確定、現在は東京拘置所に収監中の身である。
事件データ
犯人 | 造田博(当時23歳) |
犯行種別 | 通り魔殺人事件 |
犯行日 | 1999年9月8日 |
場所 | 東京都豊島区東池袋 (東急ハンズ前) |
被害者数 | 2人死亡、6人負傷 |
判決 | 死刑:東京拘置所に収監中 |
動機 | 努力が報われない社会に反発 |
キーワード | 東急ハンズ前 |
池袋通り魔殺人事件の経緯
造田博(当時23歳)は、不遇な少年期を経て各地を転々とし、東京都足立区で新聞配達員をしていた。
1999年9月1日、造田は朝刊の配達に遅刻したことから、店長の勧めで連絡用の携帯電話を購入する。
9月3日夜、造田が従業員寮で携帯電話の操作を覚えようとしていたところ、1本の無言電話がかかってきた。電話は新聞販売店の同僚からだった。この同僚は、造田の嫌いな ”努力をしないタイプ” の人間だったが、しつこく求められ仕方なく電話番号を教えていた。
造田は高校生の時から、今日までひとりで苦労して生きてきた。なぜなら、両親はギャンブルで作った借金から逃れるため、高校生の彼をひとり残して夜逃げしたからだった。
そんな ”頑張っても報われない” ことを痛感していた彼にとって、”努力をしない人間” から踏みにじられるような行為は我慢ならなかった。
無言電話が引き金に
この1本の無言電話は、造田に衝動的な怒りを生じさせた。そしてこれが引き金となり、これまで抱いてきた社会に対する不満や、享楽的に生きる人々への反発心が怒涛のように湧き上がってくるのを感じた。
”このままでは自分のような努力をしてきた者が、その努力に応じた評価をされないままだ”
そう考えた造田は、”努力しない人間に対する無差別殺人” を行って世間を驚かせ、自分を認めさせることを決意する。
造田はレポート用紙に、「わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお、わしボケナスのアホ全部殺すけえのお」と書き、これを自室の扉に張り付けた。
そして翌4日午前3時頃、デイパックを持って従業員寮を出た。
心の葛藤
造田は、池袋を犯行の場として考えていた。池袋にはこれまでも休日に行くことがあって、サンシャイン通りはいつも人通りが多いことを知っていたからである。
池袋に到着した造田は、東急ハンズで凶器の包丁と玄能(金づち)を購入した。しかし、この時点ではまだ犯行を躊躇する気持ちも残っていた。本当に無差別殺人をすれば、兄ら親族に迷惑をかけることになる。それが気がかりだったのだ。
造田は凶器を購入する際、店員に怪しまれないよう、「包丁を買う際はまな板」を、「玄能を買う際はドライバー」をそれぞれ一緒に買い求めている。そして不必要な「まな板」と「ドライバー」は、近隣ビルのゴミ箱に捨てた。
そんな気持ちを抱いたまま池袋界隈で時間を潰し、仕事で溜まった疲労も感じていたことから、夕方頃に港区のカプセルホテルに宿泊した。翌9月5日~7日にかけても、毎日サンシャイン通りへ向かいはしたが、兄らに迷惑がかかることを考えると、犯行を実行することはできなかった。
造田は映画を見たり、ゲームセンターに入って時間をつぶし、夜はカプセルホテルに宿泊していたが、社会や世間の人々に対する不満は心の奥にくすぶり続けていた。
凶行の地は池袋・サンシャイン通り
9月8日、造田はそれまで気にしていた兄らへの思いを断ち切り、ついに犯行の決意を固めた。そして午前10時過ぎ、港区のカプセルホテルを出ると池袋に向かう地下鉄に乗った。
池袋に到着すると、造田はサンシャイン通りを目指して歩いた。途中で朝食をとり、サンシャインシティの地下通路からエスカレータで東急ハンズの正面入口前に着いた。造田はここを凶行の地と決め、デイパックを背中から降ろして包丁と玄能を取り出し、両手に持った。
「ウォー!むかついた。ぶっ殺す!」
そう叫びながら、造田は目に付いた若いカップルを追いかける。しかしカップルは造田の怪しい挙動に気付いて逃げ去ってしまった。
ついに凶行へ
午前11時35分頃、造田が次にターゲットに決めたのは、サンシャインシティのエスカレーターを上ってきた高齢夫婦だった。彼はまず妻(66歳)のほうを切りつけ、その勢いで夫(当時71歳)にも襲いかかった。さらに通りがかった別の夫婦の女性(29歳)を刺した。
この犯行で高齢夫婦の妻が死亡、夫は全治3か月の重傷を負った。そして29歳女性も搬送された新宿区内の病院で、出血性ショックにより亡くなっている。
造田はこのあと、サンシャイン通りを池袋駅方向に走った。その途中で私立高校1年生の4人グループのうち3人を切りつけ、さらに別の2人も襲い、5人が負傷した。
- 16歳男子高校生:全治約2週間
- 15歳男子高校生:治療約2週間
- 15歳男子高校生:治療約10日間
- 45歳男性:全治約2週間
- 52歳女性:治療約10日間
造田は刃の折れた包丁を途中で投げ捨て、池袋駅前まで逃げた。
しかし、追ってきた通行人らに追いつかれて格闘となる。そして路上に倒された造田は、5、6人の男性に押さえ込まれ、駆けつけた池袋署員らに現行犯逮捕された。
造田は警察官に「やったのはお前か」と尋ねられると、「はい」と答えたものの、その後パトカーの中で犯行動機について聞かれても無言でうなだれていたという。
造田博の不遇な生い立ち
造田博は1975年11月29日、岡山県倉敷市で生まれた。家族は両親と兄の4人。
特に不自由なく暮らした小中学校時代を経て、県内有数の進学校である県立高校に進んだ。造田は将来、事務系の仕事に就きたいと考えていたことから、大学進学を見据えての選択だった。
ところがこの高校在籍中、両親はギャンブルで作った借金から逃れるため、造田を残して夜逃げしてしまう。ギャンブルにはまったのは、造田が小学校高学年の頃、父親が多額の遺産を手にしたのがきっかけだった。
やがて、遺産を使い果たしてもギャンブル癖は抜けず、消費者金融からの借金は4千万円。家を出た両親は、時々夜遅くに生活費を渡しに帰ってくるだけになった。
大学どころか高校中退
そのため、造田は大学進学をあきらめてアルバイトに専念するようになる。高校も3年に上がる直前の1993年3月31日付で退学した。それでも造田は、両親はどこかで自分を見守ってくれていると思い、ひとり自宅で生活を続けた。
しかし、そのうち両親がまったく家に帰らなくなる。造田は家にやって来る借金の取り立てに耐えられなくなったことから、1994年1月頃、広島県福山市に住む大学生の兄のもとへ身を寄せた。その後、兄の紹介でパチンコ店に住み込みで働き始める。
しかし、この仕事は造田にとって体力的にきつかったことから3月末に退職。以後、岡山県・広島県・兵庫県内で職を転々とする。職場では仕事はもちろん、人間関係においても問題を起こさないよう、嫌なことも我慢して気を使うなど努力した。その甲斐あって評価は得たものの、体力を使う仕事であったことや給与面で満足できなかったことから、数か月毎に職を変える生活だった。
世間に反発心を持ち始める
造田は1996年11月頃、職を求めて東京へやって来た。ところが職に就かないうちに、ナイフを所持していたことで銃砲刀剣類所持等取締法違反により現行犯逮捕され、罰金刑に処せられてしまう。
その後、造田は愛知県内で就職した。
このころから造田は、苦労や努力が報われないことに不満を募らせていく。街中で見かける若者らの享楽的な姿を不快に感じ、反発の気持ちが芽生えていった。
造田は生活のため、その後も京都や東京で転職をくり返している。
外務省に宛てた難解な手紙
1997年夏頃、造田はこのような不満を訴えるべく、外務省に難解な内容の手紙を多数送付している。兄に対しても同様に理解の困難な手紙を数通送った。
- 「日本は大部分が小汚い者達です」
- 「存在、物質、生物、動物が有する根本の権利、そして基本的人権を剥奪する能力を個人が持つべきです」
- 「この小汚い者達には剥奪する必要があります」
- 「Breathing okは愛情です。国連のプレジデントに届けて下さい」
- 「平和に役立てて下さい。強力な後押しになります」
- 「私と関係があるという理由で、この小汚い者達はA子さんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています」
- 「この小汚い者達は60年後、2057年にはすべて存在しなくなります。兄と兄の女がこの小汚い者達のボスです。私はこの小汚い者達のようになる事は、いかなる事があろうと、ありません。だれも、いかなる事があろうと、この小汚い者達のようになる事はありません」
- 「すべての人には愛する人がいて、そしておだやかに日々がすぎていきます」
- 「この文章を〇〇町に出回らせました」
※A子=小学校時代に造田が好きだった女性
アメリカに渡る
造田はテレビや本で得た情報から、「アメリカは日本と違い、努力が報われる国」というイメージを持ってあこがれ、アメリカで新しい生活を始めようと思い立つ。
1998年6月24日、造田は単身渡米するも、所持金を使い果たして行き倒れ、日本領事館に保護される。そして領事館の紹介で、現地のキリスト教会の仕事を手伝うのと引き換えに、衣食の面倒を見てもらうことになった。造田はのちに「この時期が人生で最も充実していた」と回想している。
しかし、ビザの期限切れのため9月23日に帰国を余儀なくされた。
帰国後は、愛知県内で工場の作業に従事。その後、1999年4月から東京都足立区内の新聞販売店で配達員として働き始めた。ここでは具体的な不満はなかったものの、「やはり日本はアメリカとは違い、自分のように努力をしている者が評価されない」という不満を抱き続けていた。
無差別殺人を決意
1999年9月3日、買ったばかりの携帯電話にかかってきた1本の無言電話が引き金となって、それまで溜め込んだ不満が一気に爆発する。造田は無差別殺人をすることによって、自分の主張を世間に知らしめることを決意した。
1999年9月8日午前、本事件を起こし現行犯逮捕となる。そして2007年4月19日、裁判で死刑が確定した。現在は東京拘置所にて収監中である。
裁判:第一審は死刑
造田博被告は起訴事実を全面的に認めていた。そのため争点は、事件当時の刑事責任能力の有無に絞られた。
検察側による起訴前の簡易鑑定や、専門家による精神鑑定も「責任能力に問題はない」との結論だった。
しかし弁護側は、以下の2つの理由から「精神分裂病による妄想の影響下にあった」と主張していた。
- 通行人を無差別に襲った動機が不可解
- 数年前から外務省などに意味不明の手紙を送っていた
2002年1月18日、判決で造田被告は死刑を言い渡される。「心神喪失か心神耗弱の状態だった」とする弁護側の主張は、退けられた格好となった。
判決理由としては、以下の点が指摘された。
- 犯行前の対人関係に、大きな問題がなかった
- 凶器の購入など、合理的な準備をしている
- 犯行途中に先端が欠けた包丁を捨てるなど、冷静な行動を取っている
動機についても、「自分のように努力している者が評価されない、との不満を抱いていたところ、無言電話が引き金になり、社会に反発心を募らせて犯行を決意した」と、検察側の主張に沿った認定をした。
最高裁で死刑確定
控訴審でも起訴事実に争いはなく、造田被告の「事件時の責任能力の有無」が争点となった。
弁護側は、二審で提出した精神科医の意見書や、事件前年に無計画に渡米するなどの不可解な造田被告の行動から、「造田被告は統合失調症による妄想で事件を起こした。責任能力がなく無罪か、刑が軽減されるべき」と主張。再度の精神鑑定を申請したが、認められなかった。
責任能力については、検察側の「起訴前の簡易鑑定」や、一審での専門家による精神鑑定はいずれも「責任能力はある」とされていた。
裁判長は完全責任能力を認めたうえで、「ほかに類を見ない凶悪な犯行で、被害者らの恐怖は計り知れない。重大で深刻な結果を生んだ」と指摘して控訴は棄却された。
最高裁で死刑確定
最高裁の弁論で弁護側は「事件当時、判断能力がない心神喪失状態だった。刑事責任能力はなく無罪」と主張。検察側は「被害者や遺族の処罰感情は厳しい」として上告棄却を求めた。
2007年4月19日の判決で裁判長は「造田被告は社会に不満を抱いていたが、いたずら電話をきっかけに、うっ積した感情を爆発させた」と指摘。「犯行態様は冷酷、非情、残忍で、被害者には何一つ落ち度がなく、無差別の通り魔事件として社会に与えた衝撃も大きい」と断じた。
そして「目についた通行人を手当たり次第に襲った犯行は極めて悪質。遺族の処罰感情も峻烈で、死刑はやむを得ない」と述べた。
造田被告の上告は棄却され、死刑が確定した。
平成の主な通り魔事件
発生日 | 事件名 | 場所 | 加害者名 | 死者 | 負傷者 |
---|---|---|---|---|---|
1999年9月8日 | 池袋通り魔事件 | 東京 | 造田博(23) | 2人 | 6人 |
1999年9月29日 | 下関通り魔事件 | 山口 | 上部康明(39) | 5人 | 10人 |
2001年4月30日 | レッサーパンダ帽男殺人事件 | 東京 | 山口誠(29) | 1人 | 0人 |
2001年6月8日 | 附属池田小事件 | 大阪 | 宅間守(37) | 8人 | 15人 |
2008年3月19、23日 | 土浦連続殺傷事件 | 茨城 | 金川真大(24) | 2人 | 7人 |
2008年6月8日 | 秋葉原通り魔事件 | 東京 | 加藤智大(25) | 7人 | 10人 |
2010年6月22日 | マツダ本社工場連続殺傷事件 | 広島 | 引寺利明(42) | 1人 | 11人 |
この事件が発生したのは1999年9月8日。これ以降も世間を震撼させた通り魔殺人事件は後を絶たないのが現状です。本事件の3週間後には、この池袋通り魔事件の影響を強く受けたともいわれる「下関通り魔事件」が起きました。
どの事件も、自身の抱える不満を無関係の一般市民にぶつけています。そして被害者数が多いのも通り魔事件の特徴です。そのため刑罰も重くなり、上の表の7人中5人が死刑、残り2人は無期懲役です。(もし死者が2人以上だったら、死刑になった可能性は高いです)
そしてこのことを利用して ”死刑になるために事件を起こした” と公言しているのが 附属池田小事件 の宅間守と、土浦連続殺傷事件 の金川真大です。
死刑が抑止力にさえならないケースがあることを、世間に突き付けた恐ろしい事件でした。ちなみにこの2人の死刑囚は、すでに死刑執行済みです。