大阪・連続女性バラバラ殺人事件
1985年5月から1994年3月までの9年間、大阪府で5人の女性が殺害される事件が発生した。そのうち4人は成人女性で、遺体はバラバラにされていた。
犯人の鎌田安利は別の窃盗事件で逮捕された際、過去の殺害で残された指紋が一致したことにより、犯行が明るみになった。
事件データ
犯人 | 鎌田安利 |
犯行種別 | 連続殺人事件 |
犯行日 | 1985年5月~1994年3月 |
場所 | 大阪府(犯人の自宅アパート) |
被害者数 | 女性5人(うち1人は小学生) |
判決 | 死刑:大阪拘置所 2016年3月25日執行(75歳没) |
動機 | 金銭がらみでカッとなった |
キーワード | 怪人22面相 |
事件の経緯
鎌田安利(当時54歳)は、妻と死別したのをきっかけに、生まれ育った愛媛県大洲市をあとにした。事件当時は大阪市西成区に住み着き、20年が経とうとしていた。
鎌田は、盗んだ服や装飾品を地元の飲食関係の女性達に売り歩き、生計を立てていた。盗品のため価格は安く、太った体型・満面の笑顔・ボロボロのジャンバーにズボンという格好は「愛嬌がある」と女性達には評判で、皆から「鎌ちゃん、鎌ちゃん」と呼ばれていた。
しかし、ホステスに札びらを見せて口説くわりに、飲食代の支払いになると料金に文句をつけ、狂ったように怒鳴りだし、地元ではトラブルメーカーだったという。
主婦殺害事件
最初の被害者は、大阪市東住吉区に住む主婦・東富佐枝さん(当時46歳)だった。
東さんは夫と子供3人がいたが、1985年5月14日に家出して西成区内の立ち飲み店で偽名で働いていた。
鎌田は1985年5月28日、東さんが働く立ち飲み店で飲んでいて意気投合、彼女を食事に誘い2人で店外に出た。自宅アパートで事におよび、その後、東さんに酒の飲みすぎを注意したところ、反抗されたためカッとなり絞殺。
流しとトイレしかないアパートにもかかわらず、室内にカーペット・ビニールシートなどを敷き、部屋にあったのこぎり・包丁などで遺体をバラバラにした。そして、兵庫県神戸市西区平野町の雑木林に運び、遺棄した。
鎌田は、東富さんの名前も知らなかったという。
施設寮生殺害事件
第2の事件はその1ヶ月後、被害者は知的障害者施設(富田林市)を4月に抜け出して、通天閣界隈で遊んでいた知念みどりさん(19歳)だった。
鎌田は彼女に声をかけ、寿司屋に入った後、アパートに連れ込んだ。ここで関係を持ち、小遣い1万円を渡したところ「少ない」と言われ、カッとなり殺害した。
そして、前回と同じように遺体をバラバラに切断し、段ボール箱に入れてレンタカーで運び、奈良県広陵町の竹薮に遺棄した。
遺体は6月17日に発見されている。
小学女児殺害事件
3つ目の事件は1987年1月22日だった。
午後5時30分頃、大阪市住吉区で道を尋ねるふりをして、そろばん塾から帰宅途中の小学校3年生・辻角公美子さん(9歳)をアパートに連れ込んだ。
しかし、いたずらしようとして泣き叫ばれたため、犯行の発覚を恐れ絞殺。死体は大阪府豊能町の山林に遺棄した。さらに、彼女の自宅や彼女の通う墨江小学校に、計5回にわたり身代金3000万円を要求する電話をかけた。
この事件のみ、遺体をバラバラにしていないが、それは、子どもは体が小さく運搬に支障がないためだった。遺体は、その年の5月4日に発見された。
この件に関して、鎌田は「西成区の知り合いの男が、女児をアパートに連れてきて、自分が外出している間に殺害していた」と供述。男の名前も明かしたことから、捜査本部は交遊関係を調べたほか、西成区一帯の聞き込み、アパートに住んでいた人の追跡捜査をしたが、供述と一致する人物はいなかったため、単独犯行と断定した。
スナックホステス殺害事件
女児殺害の事件後、鎌田は、1989年10月と1991年8月に窃盗罪で2度の実刑判決を受け、1993年3月まで刑務所に服役した。
出所後の1993年7月、大阪市西成区のスナックホステス・須田和枝さん(45歳)を自宅に連れこんだ。和枝さんにとって、鎌田はいつも札束を持って現れる”ありがたい”客であった。そのため、彼女はその報酬に期待して誘いに乗って彼のアパート来たのだった。
鎌田が和枝さんを押し倒そうとすると、「金はいくらくれるんや」と、いきなり金のことを持ち出してきた。鎌田はカッとなり、彼女の首を絞めて殺害した。
遺体は解体したあとレンタカーで運び、箕面市上止々呂美の山林(大阪府道4号茨木能勢線沿い)に捨てた。
居酒屋店員殺害事件
鎌田は盗んだ洋服を売るのに、大阪市中央区の居酒屋に出入りしていた。そこで働いていた中野喜美子さん(38歳・中央区在住)は、いつも破格の値段で鎌田から服を購入していて、鎌田にとってはなじみの客だった。
1994年3月下旬、鎌田は喜美子さんを誘ってアパートに連れこみ、関係を持った。その際、中野さんから金を要求されたため、口論となって絞殺してしまう。遺体は箕面市上止々呂美の山林に捨てた。
遺体を捨てた場所は、中野さんの前に殺害していた、須田さんの死体遺棄場所と同じである。
事件の発覚
1994年4月4日、大阪府道4号茨木能勢線沿いのヒノキ林斜面から遺体が発見された。箕面警察署員が周辺を捜索したところ、現場から約150m北側で別の白骨死体もみつかった。
一方、鎌田(当時54歳)は1995年4月10日、洋品店の倉庫から「紳士用スラックス78本入り段ボール」を盗んだ窃盗容疑で逮捕された。この件の取り調べで、鎌田の指紋が、以前警察に届いた「挑戦状」に付いていた指紋と一致することが判明した。
この挑戦状は、知念みどりさんの殺害犯から「怪人22面相」として警察に送られてきたものである。
当時、鎌田が借りたレンタカーの走行距離が、知念さん遺体発見現場までの距離と一致したため、捜査本部は鎌田を厳しく追及、5月12日になって知念さん殺害を自供した。その後、ほかの4人についても殺害を認める供述をしている。
山林で発見された2人の遺体については、7月24日に歯の治療痕などから、白骨死体の身元は須田和枝さん(スナックホステス)と特定。そして11月4日、先に発見された遺体の身元も中野喜美子さん(居酒屋店員)と断定された。
犯人・鎌田安利の生い立ち
鎌田安利は、1940年7月10日、愛媛県大州市で生まれた。
実家は旅館などに割り箸を納入する商売をしていたが、本人は「有名旅館の跡取だ」と言っていた。
父親が亡くなったあと、高校を2年で中退した。大阪へ出て板前修業をするが、20歳の時に地元に戻って結婚した。一男一女をもうけているが、妻と死別している。
その後、奈良県大和高田市の靴下製造工場に勤務したあと、職を転々とする。やがて、子どもを連れて大阪市西成区に移り住んだ。ここでは飲み屋の女性と再婚して、子ども達もこの女性を慕っていた。
しかしカッとしやすい鎌田は、たびたび妻の首を絞めるなどして、子どもに止められていた。結局、安田は外に女をつくり家を出て、妻が子どもの面倒を見た。結婚生活はわずか数ヶ月だった。
そして1985年5月、最初の事件を起こす。その後、1994年までに他4人を殺害し、1995年4月、窃盗事件での逮捕を機に犯行が発覚。
公判を経て2005年7月8日、死刑が確定した。
2016年3月25日、久留米看護師連続殺人事件の吉田純子とともに死刑が執行された。(75歳没)
公判
1996年3月13日、大阪地裁で連続殺人事件に関する初公判が開かれた。
鎌田は捜査段階で、「小学女児殺害事件における身代金要求」を除き、すべての犯行を認めていた。
しかし、公判では一転して全面否認。「殺害したのは知人で、自分は遺体の遺棄などを手伝っただけだ」と無罪を主張した。特に小学女児殺害事件については「起訴状に書いてあることはでたらめだ」と明言した。
身代金要求の電話音声は、大阪府警科学捜査研究所が「鎌田の声と酷似している」と結論づけていたが、弁護側は再度の鑑定を申請。
日本音響研究所所長が声紋鑑定を実施し、1998年には「電話の声紋と、鎌田の声紋は特徴点全121点のうち、約10点しか一致せず、別人の音声と認められる」という内容の鑑定書を提出した。公判でも「電話は鎌田とは別人の声だ」と証言している。
また、本事件で逮捕のきっかけとなった窃盗事件に関しても、鎌田は全面的に否認した。
1999年1月8日に論告求刑公判が開かれた。鎌田は、小学女児殺害事件(第3事件)とスナックホステス殺害事件(第4事件)の間に、別の窃盗罪で2件の有罪判決が確定していた。そのため刑法の規定(併合罪)により、窃盗事件前の3件を甲事件、あとの2件は乙事件として分離裁判が行われた。
検察側は甲事件・乙事件の両事件で、死刑を求刑した。検察官は「犯行は残忍かつ冷酷で、社会に与えた影響は大きく、動機に酌量の余地はない」「鎌田は反社会的な性格が顕著で、矯正は不可能」と指摘した。そして、1983年に最高裁が示した死刑適用基準(永山基準)に照らして「甲・乙両事件とも死刑が妥当」と主張した。
また、日本音響研究所の「身代金要求の電話は、鎌田とは別人の声」とする証言については、「異なった音韻を比較した箇所が多数あり、到底信用できない。捜査段階における、大阪府警科捜研の『同一人物の可能性が高い』とする鑑定方法・証言が適正だ」と主張した。
第一審は、1999年2月4日の第44回公判で結審した。
最終弁論で弁護側は「殺害は別人の犯行で、鎌田は関与していない」と無罪を主張。その上で「女性を殺害した知人とともに死体を遺棄したが、鎌田による単独犯行ではない」「各事件の犯人と鎌田を結びつける客観的証拠が極めて乏しく、捜査段階での自白は警察官による暴行・脅迫によって得られたもので、証拠能力はない」と主張した。
1999年3月24日、判決公判が開かれた。
大阪地裁は殺人5件をすべて有罪と認定し、甲事件・乙事件の双方とも鎌田に死刑判決を言い渡した。
ただし甲事件のうち、小学女児殺害事件における身代金要求については「自白がない上、身代金要求の電話は報道後のため、便乗犯の疑いがある」として無罪とした。
鎌田は、判決直後に大阪高等裁判所へ控訴した。一方、大阪地検も「小学女児殺害事件における身代金要求を無罪としたことは、重大な事実誤認だ」と主張し、1999年4月6日付で控訴した。
2000年10月3日に大阪高裁で控訴審初公判が開かれた。
弁護人は改めて4件の殺人を「殺害実行犯は知人で、鎌田の単独犯ではない」と主張したほか、1件の殺人と誘拐・身代金要求については全面的に否認した。そして、「捜査段階の自白は捜査員の暴行により強要されたものだ」と主張した。
検察官は女児の身代金要求を無罪と認定した第一審判決について「証拠の評価を誤っており破棄されるべき」と主張した。
控訴審は2001年2月27日に結審した。同日の最終弁論で弁護人は「被告人は警察官に自白を強要された」として無罪を主張した。
2001年3月27日に控訴審判決公判が開かれた。
大阪高裁は小学女児殺害の身代金要求に関しても有罪と認定。その上で改めて甲事件について死刑を言い渡した。
また、乙事件については第一審判決の死刑判決を支持し、控訴を棄却した。
鎌田はこれをを不服として、2001年4月13日までに最高裁判所へ上告した。
2005年6月6日に最高裁で上告審口頭弁論公判が開かれた。弁護人は「共犯者がおり、全て鎌田の単独犯と認定した原判決は事実誤認」「操作段階の自白は警察官の暴行によるもの」などと主張して死刑回避を求めた。
同年7月8日、最高裁は鎌田の上告を棄却し、死刑が確定した。
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