夕張保険金殺人事件
1984年5月5日夜、北海道夕張市の炭鉱員用宿舎で火災が発生、従業員と家族の6人が焼死した。
この火災で重症を負った男が、入院先の病院から失踪、その後、警察に自首する。男の話では、この火災を起こしたのは自分だが、社長の日高安政と妻の日高信子からの指示だったというのだ。
3人は逮捕され、夫婦には死刑判決が下った。夫婦は控訴するも、自らこれを取り下げ死刑を確定させる。目的は、天皇崩御に伴う恩赦狙いだった・・・!
事件データ
主犯1 | 日高安政(逮捕時41歳) 死刑:1997年8月1日執行(54歳没) |
主犯2 | 日高信子(逮捕時38歳) 死刑:1997年8月1日執行(51歳没) |
実行犯 | 石川清(逮捕時24歳) 無期懲役 |
犯行種別 | 保険金殺人事件 |
犯行日 | 1984年5月5日 |
犯行場所 | 北海道夕張市鹿島栄町1 |
被害者数 | 6人 |
動機 | 保険金 |
キーワード | 恩赦 |
事件の経緯
1984年5月5日午後10時50分頃、北海道夕張市にある日高興業の炭鉱員用宿舎で火災が発生した。
この火災で建物は全焼し、宿舎内にいた作業員4人、住み込みの寮母の長女(13)と長男(11)が焼死体で発見された。消火活動にあたった消防士1人も、宿舎の崩壊に巻き込まれて殉職する事態となった。
また、火から逃げようと2階から飛び降りた作業員の石川清(当時24)が両足骨折の重傷を負い、「美唄(労災病院」に搬送された。
この日、宿舎では石川の入寮を祝う宴会が夜10時頃まで行われていた。石川は自ら「費用は持つ」と提案して歓迎会は催されたのだ。
夕張警察署と夕張市消防局が現場検証を行った結果、火災の原因は宴会のジンギスカン鍋か石油ストーブの不始末と認定され、事件性はないとされていた。
保険会社はこの認定に基づき、全焼した宿舎にかけられていた火災保険金と、死亡した作業員4人にかけられていた死亡保険金の合計1億3800万円を、社長である日高安政(当時41歳)と妻の日高信子(当時38歳)に支払った。
火災は放火だった
火災から約2か月経った7月18日。
2階から飛び降りて入院していた作業員の石川が、突然行方不明になる。そして、その1ヶ月後の8月15日、石川は失踪先の青森市から夕張警察署に電話をかけ、放火をしたのは自分だと自首した。さらに、「放火を指示したのは日高夫婦」であると供述した。
石川は青森署に任意同行を求められ、警察で犯行を自供した。
日高安政は、暴力団「初代誠友会日高組」組長というもうひとつの顔を持っており、石川はこの組員だった。この火災は日高からの指示で、石川はそのために新入り作業員のふりをして宿舎に入り込んだのだ。
宴会も自分が言い出したもので、みなが酔いつぶれたあと、新聞紙に火をつけて障子などを燃やた。そして火は宿舎全体に広がったのだ。
石川は、日高夫婦から放火の報酬として、500万円を約束されていた。だが、実際は75万円しか支払われなかった。このことで、石川は「日高夫婦は信用できない」と考えるようになる。
そして次第に「事件の真相を知っている自分は、いずれ口封じのために殺されるのではないか」と疑心暗鬼になった。
青森まで逃げたはいいが、日高組の追手の執拗さを知っている石川は「見つかったら何をされるかわからない」と恐ろしくなり、自首したのだった。以前、東京に逃げた者が連れ戻された時は、カンナで指4本を切り落とされたという。
石川は、16日朝に逮捕となった。
保険金の対象でもない子供2人まで死なせたことに、石川は強い罪悪感を持っていた。彼は、「子供らを助けようとしたが、火の回りが早かったため救出はできなかった。自分も逃げ遅れ、2階から飛び降りる羽目になった」と供述している。
石川の供述により8月19日早朝、日高夫婦は自宅で逮捕されることとなった。
この事件は、”不始末による火災”と警察は判断し、保険金も支払い済みだったため、そんな状況での突然の自首は、大きなニュースになった。
日高安政・信子夫婦の生い立ち
首謀者の日高安政は、1943年に北海道様似郡様似町で7人兄弟の6男として生まれた。夕張市に引越した6歳の時に父を亡くしたため、安政は母子家庭で育った。
安政は兄たちの影響もあり、小学校の頃から店舗荒らし・賽銭箱荒らしなどの非行を繰り返す日々だった。小学6年生の時に遠軽町の「北海道家庭学校」に入れられ、15歳までそこで過ごした。
その後はトラック運転手や炭鉱労働者、調理師見習いなどを経て、17歳ごろから暴力団員として活動している。1969年に結婚して、1女をもうけた。
日高の妻・信子は1946年、北海道夕張市で炭坑員の家の7人兄妹の4女として生まれた。
小学校は3歳年上の安政と同じ学校である。道立夕張高校時代は、地元でも有名な不良だったという。卒業後は上京して山野美容師学校に1年間通った。その後は夕張に戻り、美容師見習いや事務員をしていたが、やがて暴力団員と結婚して1女を授かった。
夫をがんで亡くしたあとは、夕張きってのキャバレー「ダイアナ」でホステスを始める。その店で日高安政と知り合い、1972年に再婚した。安政は信子に一目惚れし、妻と娘がいるにもかかわらず離婚して結婚を申し込んだ。
暴力団員ということで、信子の両親に猛反対された安政は、組に20万円を払って足を洗い、カタギになっている。(但し、結婚後に暴力団員に戻っている)
石川清は、秋田県で生まれ、中学卒業後は札幌の家具店に就職した。その後、レストランやクラブで調理見習いをするが続かず、ススキノでソープの客引きをするようになる。その時に知り合ったヤクザに誘われて夕張の「日高組」に入った。本事件の時点で「日高組」に入って約2年経っていた。
実直なタイプの青年で、安政がクラブなどで遊ぶ時も付き添いとして酒も飲まず、姿勢も崩さず座っていたという。
2人は1970年頃から、三菱大夕張炭鉱の下請会社「日高班」を興し社長夫婦となり、炭鉱作業員を斡旋する手配師業を行うようになった。
その後、1976年には社名を「有限会社 日高興業」としている。
しかし、安政は知り合いの女性と上京、信子も従業員と駆け落ちし、1977年に「日高興業」は倒産した。その後、それぞれの相手と別れた2人は縁りを戻し、「有限会社 鹿島工業」を設立。
安政はこの頃、暴力団総長と知り合い「初代誠友会日高組」組長を名乗り始め、金融業や水商売も手掛けるようになった。
1978年、安政は執行猶予中に覚せい剤で捕まり、懲役2年6ヶ月を言い渡される。信子は「鹿島工業」をたたみ、新たに「日高興業」を女手ひとつで始めた。
炭鉱事故で予想外の大金を手にした
そんな中、1981年10月に「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」が起こる。この事故で日高班の作業員7人が死亡したため、死亡保険金1億3000万円が会社に振り込まれた。遺族に保険金を支払っても、6000万円ほどが日高夫婦に残った。
1981年(昭和56年)10月16日に北海道炭礦汽船の関連会社「北炭夕張炭鉱」が経営する夕張新炭鉱で発生したガス突出事故、およびこれに伴う坑内火災事故である。
死者数は93人で、戦後に発生した炭鉱事故の死者数としては三井三池三川炭鉱炭じん爆発(1963年)の458人、三井山野炭鉱ガス爆発事故(1965年)の237人に次いで3番目の事故となった。
日高が服役を終えたあとは、夕張市南部青葉町に2階建ての事務所(兼自宅)「日高商事」を新築した。
夫婦は高級車リンカーンを購入したり、子供たちにポニーを買い与えたほか、経営するスナックの改装、アクセサリー店やダイエット食品店の開業、奢侈品を買いあさるなど浪費を重ねた。
その結果、多額の保険金は、わずか2年足らずで使い果たしてしまった。
信子は町の通りに「ショップ88」という店を開き、贈答品・文房具・学習机・キャラクター商品などを取り扱っていた。しかし、店員を雇わず組員が店番をしたため、客が寄り付かなかったという。
夕張の炭鉱業は、1970年代から閉山が相次いでいたが、「北炭夕張新炭鉱事故」をきっかけに急速に衰退。夫婦の事業も、次第に儲からなくなっていく。
やがて保険金を使い果たした夫婦は、多額の借金を負うようになり、生活は困窮した。そこで夫婦は「札幌でデートクラブを開業しよう」と考え、その資金を作るため本事件を計画・実行したのだった。
1984年8月19日、共犯者・石川清の自供により日高夫婦も逮捕される。夫婦は犯行の実行犯ではなかったが首謀者と認定され、裁判(一審)で死刑判決となる。これを不服として控訴したものの、夫婦揃って控訴を取り下げたために死刑が確定することとなった。
夫婦は自ら死刑を選択
日高夫婦が控訴を取り下げたのには、理由があった。
当時、昭和天皇の病状が重篤であり、天皇が崩御した場合の恩赦を期待したためだった。
恩赦の対象となるには刑が確定していなければならず、裁判中の者は対象にならない。そのため夫婦は、恩赦の対象に選ばれるために自ら控訴を取り下げたのだ。うまくいけば死刑は免れるはずだった。
しかし1989年1月7日の昭和天皇崩御の際、懲役受刑者や禁錮受刑者、死刑確定者に対する恩赦は一例も行われなかった。そもそも2人の罪状は、はなから恩赦の対象外で、仮に恩赦が行われたとしても日高夫婦が対象に選ばれる可能性はなかった。
明治天皇や大正天皇が崩御した際には、殺人犯のような重罪人であっても恩赦によって刑が減軽されている。戦後もサンフランシスコ講和条約締結時に、死刑囚であっても殺人罪が無期懲役に減刑されていた。
ただし、これは殺人罪のみの場合であり、強盗殺人や放火殺人など併合罪が付加される者は対象外である。
その後、皇室慶事に伴う恩赦が2度行われるも、やはり日高夫婦が恩赦の対象に選ばれることはなかった。(1990年〈平成2年〉の新天皇の即位と、1993年〈平成5年〉の皇太子の成婚)
「銀座ママ殺人事件」の平田光成死刑囚と、「元昭石重役一家殺人事件」の今井義人死刑囚の2人も、日高夫婦同様に恩赦を期待して上訴の取り下げをしました。
しかし誰ひとり恩赦にはならず、死刑が執行されています。
控訴審再開ならず
恩赦の期待が外れた日高夫婦は、1996年5月に札幌高裁に控訴審の再開を申請したが、認められなかった。さらに最後の望みを託して最高裁に特別抗告を提出。しかし、これも1997年5月に棄却され、日高夫婦に成す術はなかった。
1997年8月1日、札幌刑務所において日高夫婦は、ともに死刑が執行された。
女性死刑囚の執行は、1970年に執行された女性連続毒殺魔事件以来27年ぶりで、戦後3例目であった。
この日は、少年事件でありながら死刑が確定していた永山則夫連続射殺事件の永山則夫も同時に執行されている。永山の処刑には各界から非難の声があがったが、日高夫婦に対してはなかったという。
裁判:死刑判決
第一審公判は、札幌地裁で行われた。
日高夫婦は、「放火の目的は火災保険金のみであり、作業員たちの生命を奪うつもりはなかった」と主張。「従業員や家族が逃げられるように指示していた」が、石川がそれに従わなかったために焼死者が出たものとした。
対する検察側は、「作業員たちに酒を飲ませ、就寝後に放火させた。保険金殺人を目的とした確定的殺意が認められる」と主張して、日高夫婦に対する死刑を求刑した。
1987年3月4日、実行犯の石川清に対する判決公判が開かれた。札幌地裁は求刑通り無期懲役を言い渡したが、石川は控訴しなかったため確定。極刑を免れたのは、「自首により事件の全容解明につながった」ことが認められたものと思われた。
そして3月9日には、日高夫婦に死刑判決が下される。札幌地裁は、首謀者である日高夫婦の「未必の殺意」を認め、共謀共同正犯として共に責任を認定した判決となった。
日高夫婦は即日控訴。その後、控訴審は4回開かれたが、夫婦は1988年10月に突如として控訴を取り下げる。これにより、夫婦そろって死刑が確定した。妻・信子は戦後4人目の女性死刑囚となった。
当時、昭和天皇ご逝去にともなう恩赦の対象に「確定死刑囚が含まれる」という噂が流れていた。日高夫婦は恩赦を期待して控訴を取り下げたが、罪状からして2人は恩赦の対象にはなり得なかった。
日高商事は廃墟マニアの人気スポット
日高夫婦が経営していた日高興業は、逮捕後は倒産して廃業となった。
事件現場の作業員宿舎があった場所は放置され、植物が繁茂する空き地となっていた。その後、この地区(大夕張)は夕張シューパロダムの建設に伴い、全住民が移転したため無人となった。
さらには、2014年3月のダム試験湛水開始により、作業員宿舎があった鹿島栄町は全域が水没した。
一方、夕張市南部青葉町にある日高商事の事務所(兼自宅)は、夫婦の死刑執行後20年以上経った現在も、廃墟として存在している。
夫婦そろって死刑となっためずらしい犯罪の舞台として、廃墟マニアに人気のスポットとなっている。
ちなみにこのあたりは、炭鉱の閉山により著しく過疎化が進んでいる。
建物入口には「クレジットの信用商事 シャクリーファミリークラブ 日高商事(株)三裕代理店」と書かれた看板や表札が残されている。日高組では、花札賭博や賭け麻雀が行われており、負けた客に金を借りさせる、いわゆる「サラ金」業の看板である。
位置情報: 43°00’57.2″N 142°04’45.3″E