秋葉原通り魔事件
2008年6月8日、秋葉原の歩行者天国で、赤信号を無視したトラックが歩行者 5人をはね飛ばした。
運転していたのは加藤智大、彼は車を降りナイフで通行人を次々と刺していき、7人を殺害、10人を負傷させた。
報道では加藤の”生い立ち”や”恵まれない境遇”、”心の闇”が動機とされたが、のちに加藤本人はこれらを否定。「ひと言で言うと、アピールのため。自分の悩みや苦しみを、世の中の人に分かってほしかった」と身勝手な動機を語った。
日本の犯罪史上、類をみないこの惨劇は、日本中を不安に陥れ、さまざまな議論を呼ぶこととなった。
2010年には、この事件に影響を受けた引寺利明(当時42歳)がマツダ本社工場連続殺傷事件を起こしている。引寺は、加藤の凶行を称賛するような言葉を友人に話していた。(無期懲役が確定)
加藤は最高裁で死刑が確定していたが、2022年7月26日、死刑が執行された。(享年39歳)
事件データ
犯人 | 加藤智大(当時25歳) |
犯行種別 | 通り魔殺人事件 |
犯行日 | 2008年6月8日 |
犯行場所 | 東京都中央区 |
被害者数 | 死亡7人・負傷者10人 |
判決 | 死刑 2022年7月26日死刑執行(享年39歳) |
動機 | ネット民に存在をアピール |
キーワード | 掲示板 |
事件の経緯
静岡県裾野市に住む加藤智大(当時25歳)は、1日の大半をインターネット掲示板への書き込みに費やしていた。彼は「掲示板に依存している」といっていい状態だった。
掲示板の中の加藤は、友達も彼女もいない「不細工スレの主」というキャラクターで、自虐的なコメント書き込むことで人を集めていた。
ある時、掲示板は ”なりすまし” や ”荒らし” などの嫌がらせを受けるようになる。加藤はそういった行為をやめるよう警告したが、そのような輩は当然おかまいなしだった。掲示板の管理人にも相談したが、対処してくれなかった。
彼のスレッドからは、次第にユーザーが去っていった。閑散としたスレッドには、嫌がらせコメントさえなくなった。掲示板に依存していた加藤にとって、それは耐えられないことだった。
次第に彼は、反応欲しさに「危険」な書き込みをするようになる。それは、犯行を匂わせるような内容だった。
職場でツナギがなかった
事件の3日前、職場でも精神的に追い詰められる出来事があった。
彼は静岡県の自動車工場に派遣社員として勤務していたが、そのころ会社では派遣社員の大幅なリストラが予定されていた。加藤は当初、そのリストラ対象リストに入っていたが、のちに外されている。
しかし、その日はなぜか加藤の作業用ツナギがロッカー内になかったのだ。彼は自分がリストラ対象だと思い込み、腹を立ててそのまま会社から立ち去った。
掲示板には「作業場行ったらツナギが無かった 辞めろってか」と書き込んだ。その後、福井県にあるミリタリーショップへ足を運び、ナイフ5本や特殊警棒、黒革の手袋などを購入している。
彼の心の中では、犯行は決定事項だったのかもしれない。
福井市内のミリタリーショップによると、加藤は6日午後12時40分頃に来店している。店長には「静岡から来た」と話していた。
加藤は当初、通信販売での購入を考えたが、時間がかかるので店舗まで出向いたという。
決行の日
2008年6月8日午前5時21分、この日は日曜日で、たいていの人はまだ寝ている時間だった。そんな中、加藤はインターネット掲示板にある書き込みをした。
「秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら」
そして6時31分の「時間だ出かけよう」というメッセージまで十数回の書き込みを行い、家を出た。しかし、彼の書き込みに対するレスはやはりなかった。
掲示板に書き込んだ通り、彼はこの日、秋葉原で無差別の大量殺人を決行しようとしていた。福井市で買った凶器を持ち、沼津で予約した2トントラックに乗り、今まさに秋葉原に向かっていた。
「時間です」最後のメッセージ
午前11時45分、秋葉原に到着。歩行者天国が始まる正午になるまで、加藤は量販店のトイレに行ったりして時間を潰した。そして12時10分、「時間です」とメッセージを送信。
これは惨劇の始まりであり、また加藤の最後のメッセージでもあった。
12時30分頃、加藤は赤信号を無視して交差点を突っ走り、青信号で渡る歩行者5人を次々とはね飛ばした。トラックは交差点を過ぎ、対向車線で信号待ちをしていたタクシーに接触して停車。
当初、まわりの人たちは交通事故だと思い、はねられた人を救護しようとする人もいた。しかしトラックを降りた加藤は、手に持ったナイフを構えた状態で、次々と視界に入った人に体当たりして刺していく。救護に当たっていた人の中にも被害者が出た。
警視庁万世橋署の丸山正市警部補は、負傷者の救護中に加藤にナイフで背後から刺されて重傷を負った。丸山警部補は事件から3年後(2011年)、肝臓がんで亡くなった。(死後、警部に昇進)
現行犯逮捕
すぐに交番から警察官が駆けつけ、加藤を追った。やがて路地に入り距離を詰めたが、加藤は反撃にでる。警察官は防護服を斬り付けられたが、警棒で加藤の側頭部を殴るなどして応戦。最後は拳銃を加藤に向け、武器を捨てるよう警告し、応じなければ発砲すると通告した。
加藤は観念したように、ナイフを捨てた。そして、複数の警察官に取り押さえられて現行犯逮捕となった。
凶器は手に持っていた全長23cmのダガーナイフだったが、上着の内ポケットには折り畳み式ナイフも所持していた。
最初にトラックではねられた5人の男性のうち、3人が死亡。ナイフで刺されたのは12人、そのうち男性3人と女性1人が死亡した。
全体でみると、7人が死亡、10人が負傷という大惨事だったのだ。
犯行までのメッセージ
書き込み時刻 | メッセージ内容 |
---|---|
5時21分 | 秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら |
5時21分 | ねむい |
5時34分 | 頭痛が治らなかった |
5時35分 | しかも、予報が雨 最悪 |
5時44分 | 途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな |
6時0分 | 俺が騙されてるんじゃない 俺が騙してるのか |
6時2分 | いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される |
6時3分 | 大人には評判の良い子だった 大人には |
6時3分 | 友達は、できないよね |
6時4分 | ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれてた奴らがいる |
6時5分 | 全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった |
6時10分 | 使う予定の道路が封鎖中とか やっぱり、全てが俺の邪魔をする |
6時31分 | 時間だ出かけよう |
6時39分 | 頭痛との闘いになりそうだ |
6時49分 | 雨とも |
6時50分 | 時間とも |
7時12分 | 一本早い電車に乗れてしまった |
7時24分 | 30分余ってるぜ |
7時30分 | これは酷い雨 全部完璧に準備したのに |
7時47分 | まあいいや 規模が小さくても、雨天決行 |
9時41分 | 晴れればいいな |
9時48分 | 神奈川入って休憩 今のとこ順調かな |
10時53分 | 酷い渋滞 時間までに着くかしら |
11時7分 | 渋谷ひどい |
11時17分 | こっちは晴れてるね |
11時45分 | 秋葉原ついた |
11時45分 | 今日は歩行者天国の日だよね? |
12時10分 | 時間です |
加藤智大の生い立ち
加藤智大は1982年9月28日、青森県五所川原市に生まれた。その後、父親の転勤で青森市に転居する。
青森市立佃小学校を卒業後、佃中学校に入学。小中学校時代は、頭が良くて明るく活発だった。中学ではテニス部で活躍し、学級委員も務めた。
成績は良かったが、それは母親の ”教育熱心” を通り越した一種の”虐待”のせいだった。そのため母親に対して「いい子」であろうとするあまり、「いい子を演じる性格」が身についてしまった、とのちに加藤本人が語っている。
私は小さな頃から「いい子」を演じてきました。意識してやっているわけではなく、それが当たり前でした。今ではそれがおかしなことであることはわかっていますが、「いい子を演じない自分」を意識しないと本当の自分が出てこないという倒錯した状態になっています。
そのことがあるので、取り調べを受けている時から「申し訳ない」と思っている自分は、はたして本当の自分なのかという疑念がありました。結論として、検事さんや刑事さんに対して「いい子」であろうとした自分が存在していたことは否定できません。
落ちこぼれた高校時代
高校は県で一番の進学校の青森高校に進むも、優等生揃いの中で落ちこぼれてしまう。そのため大学へは行かず、岐阜県の中日本自動車短大に入学した。だが、加藤は講習に出席しなくなり、担任が事情を聞くと「中学校の先生になりたい。弘前大学に進みたい」と話したという。
しかし推薦による編入時期が過ぎており、結局、整備士資格も取れず、大学にも進めなかった。その後、仙台市で1年ほど生活、友人と一時同居した。茨城県で定職に就いたこともあったが、そこも辞めて青森市に戻った。
2006年夏頃、友人3人のもとに自殺をほのめかすメールが届いた。加藤は実際に自殺しようとしたようだが、失敗している。
死刑執行
2007年1月から運送会社でトラック運転手として働いたが、9月に退社。その後、静岡県の自動車工場に派遣社員として勤務した。そして2008年6月8日、本事件を起こした。友人によると、事件の数カ月前から急にメールが途絶え、仲間内で心配していた矢先に事件が起きたという。
裁判では、2015年2月2日に最高裁で死刑が確定。その7年半後の2022年7月26日午前、収監先の東京拘置所にて死刑が執行された。(39歳没)
事件の被害者となった宮本直樹さん(当時31歳)の専門学校時代の同級生は、加藤智大死刑囚について「罪のない人を巻き込み、自分だけ生きていることが許せなかった。反省もなく、憤りしかなかった」と強調した。死刑が執行され、「これで少し安心できる。宮本も浮かばれるのではないかな。『やっと執行されたよ』と伝えたい」と語った。
負傷者の救護中に刺されて重傷を負った警視庁万世橋署の丸山正市警部補の妻は、「執行されたことはテレビで知った。何とも言えない気持ち。とうとう執行されたかという感じです」と話した。丸山警部補は、2011年に肝臓がんで亡くなっている。
動機について
事件後、メディアは動機についてさまざまな推測をし、それを報道した。しかし、加藤はそのほとんどすべてを否定している。
労働環境のせい?
若者の雇用環境が厳しくなって将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方があった。だが加藤は裁判で動機について「雇用形態が派遣である」こととは無関係と供述。これについては弁護側、検察側、裁判官においてもその供述が事実であると認定している。(加藤の自著「解+」の中でも否定している)
作業服の紛失がひきがね?
職場の作業服が紛失したことを動機とする報道もあった。加藤はこれを一貫して否定。取り調べ段階において、供述の文言を書き換えて ”勝手に動機とした” 捜査機関による捏造行為があったことを述べている。
社会的孤立が原因?
意外なことに、加藤は至って普通、いやそれ以上の交友関係を持っていた。地元・青森には幼少期から一緒にゲームをしたり、気軽に家に泊まれるような間柄の友人がいた。
どの職場でも周りと普通に付き合い、心を開いて話せる店主がいる行きつけの酒場などもあった。また掲示板を介しても自らオフ会を提案し、全国を旅行して相手先に宿泊して心を通わせるなど、積極的に人間関係を構築していて、友人は多数いたのだ。
最後に働いていた静岡の自動車工場でも、週末に一緒にドライブに出かけたり秋葉原に遊びにいくような同僚がいた。事件当日も、加藤が持っていたゲームソフトなどを同僚に譲り渡してから秋葉原に向かったようである。
しかしながら、加藤は掲示板に孤独を書き連ね続けた。
北海道大学准教授の中島岳志氏は「コミュニケーションが下手で、友達がいない若者はたくさんいる。加藤はうまくやっている方で、もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれない。なのに、加藤は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったこと」と主張している。
また別の専門家は、加藤の内側に広がっていた孤独は「親密圏における孤独」ではなく、「公共的な領域における尊重・敬意の渇望」であったと指摘している。
学歴への不満?
加藤は大学に進まなかったことを、後で考えれば損だったと述べているが「事件とは無関係」ときっぱり否定している。
加藤は真正 ”かまってちゃん”?
加藤は動機や原因について以下のように述べている。
自分の苦悩を「わかってもらうため」、また嫌がらせや無視する人に「わからせるため」に事件を起こしたというのだ。
「事件の原因は3つ。まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方」
「ひと言で言うと、アピールのためです。自分がどれだけ悩み、苦しんでいたか、世の中の人に分かってほしかったのです。人並みに恋愛し、家庭を持ちたかったですが、異性と交際できず、仕事の悩みも絶えませんでした。こうした心境や悩みを分かってほしかったのですが、誰も分かってくれませんでした」
「6月5日につなぎがなくなっていたことをきっかけに、事件を起こすことで人間関係に悩み、苦しんでいたこと、ネットで私を無視した人にアピールしてやろうと思い、事件を起こしました」
「盛られた動機」に対して
加藤は、取り調べ官が「捜査機関側に都合のいい供述調書」を作ろうとさまざまな動機をでっち上げ、それを前提とした供述をさせようとしたことを指摘している。そして、そのような「盛られた動機」を調べもせずに垂れ流す ”広報” と化した大手報道媒体を捜査機関とともに批判している。
また「専門家の話もほとんど嘘」と指弾、そこから出てくる対策に効果などないと結論づけている。
「若者が希望を持てる社会、などと言われたりしているようですが、意味不明です。何故そうやって社会のせいにするのか、全く理解できません。あくまでも、私の状況です。社会の環境ではありません。勝手に置き換えないでください」と述べている。
報道と違う加藤智大の実像
加藤智大の「元同僚で友人」を公言し、twitterで活動している大友秀逸さん。
彼によると加藤の人物像について、報道とは違った一面が見えてくる。2003年、大友さんが働き始めた警備会社に1カ月遅れて入ってきたのが加藤(当時20歳)だった。第一印象は「真面目でやる気のある青年」。
ブラックな会社でろくな従業員がいなかったこともあって、加藤はたちまち責任者のポジションに就いた。彼は「警備員をどの現場に割り振るか」を決める中間管理職的な立場になり、嫌いな者に対して「仕事を与えない」といった弱い者いじめのようなことをしていたという。働いた日数によって収入が決まる従業員にとっては死活問題だ。
また、現場で大きなミスをした高齢の警備員に腹を立て、柔道のように足を払い全体重をかけて道路に叩きつけたこともあったという。警備員はたまたま武道の心得があったおかげで受け身がとれたが、ヘタをしたら「加藤の最初の殺人事件」になっていた可能性もあった。
この時、加藤は満面の笑みで大友さんに「ちゃんと注意してやりました!」と得意げに言ったそうである。
ほかにも、わがままな従業員との電話中にキレて、電話機を叩きつけて壊したこともあった。大事件があるとよく「まさか、あの人が…」というコメントをみるが、大友さんによると、加藤に関しては「その可能性はある人」に感じていたようだ。
負の連鎖?
この職場では、ほかにも殺人事件を起こした者がいるという。
2005年に起きた「仙台アーケード街トラック暴走事件」だ。犯人はトラックでアーケード街を暴走、7人を死傷させたが精神疾患が認定されて報道は規制された。
トラックで無差別殺人・・・手口はまったく同じである。この事件が起きたのは加藤が会社を辞めたあとだが、影響を受けた可能性はある。
そして、さらに加藤に影響を受けて2010年に引寺利明が起こしたのがマツダ本社工場連続殺傷事件である。引寺は、加藤の凶行を称賛するような言葉を友人に話していた。
この事件も車を使った無差別殺人で、マツダ工場内を暴走して1人を死亡させ、11人に負傷を負わせた。犯人の引寺は無期懲役が確定している。
加藤智大の家族について
地元の信用金庫の要職にあった父親は、事件から数ヵ月後に退職を余儀なくされた。自宅には脅迫や嫌がらせの電話が相次ぎ、電話回線を解約。記者の訪問も後を絶たず、マスコミの姿に怯えながら身を潜めて暮らした。
今では日常的にマスコミがやってくることはないが、父親はひとりでこの家でひっそり暮らしているという。朝早くに出て夜遅くに帰ってくる毎日で、事件以来、カーテンはずっと閉め切られたまま。夜も電気が点くことはなく、ロウソクの灯りで生活しているようだと近所の人は話す。
一方、罪の意識にさいなまれた母親は、心のバランスを崩して精神科に入院。一時は誰も面会できないほどの状態だった。退院後は青森県内にある実家に身を寄せたが、孫(加藤)の事件を知って体調を崩した自分の母が急死するという不幸にも見舞われた。
そして加藤の弟は、事件から6年後に自殺している。
母親から受けた虐待
加藤は子供時代、母親から「教育」の名のもと、”厳しい” を通り越して行き過ぎた虐待とも言える行為を受けている。
- 食器を早く洗いたいがために、食事を床に敷いたチラシの上に移して食事をさせられた
- 何か失敗をすると2階の窓から突き落とされそうになった
- 掛け算九九を風呂で暗唱させ、間違えたら苦しくなるまで湯船に彼らの頭を沈めた
- 日記や作文は全て母親の検閲が入り、テストで100点を取らないと激怒される
- 小学校に着ていく服はすべて母親が準備、加藤が自分で用意した服は床に投げ捨てられた
- 小学校高学年までおねしょ癖があり、オムツを履かされ、洗ったオムツはわざわざ外に干された
- 中学時代、ある女子と交際しようとすると、恋愛禁止と言われて別れさせられた
- 子供のころ、見てもいいテレビは「ドラえもん」と「日本昔ばなし」だけ
母親は加藤と同じ青森高校の出身で、青森高校は県で一番の進学校だった。だが母親は高校を卒業後
すぐに就職、県で一番の高校出身でありながら大学に行けなかったことがコンプレックスだったようだ。そのため、母親は加藤と弟に行き過ぎた教育を押し付けた。
加藤は非常に孤独を恐れていた。家族を心の拠り所とできなかった彼は、仕事と睡眠以外の時間のほとんどを掲示板にあて、常に「誰か」を探していた。現実世界で親から愛されているという実感が持てなかったがために、どんどん肥大化した承認欲求をネットの世界で満たそうとした。
掲示板に ”なりすまし” や ”荒らし” が現れた時、加藤にとっての唯一の居場所が奪われてしまった。事件を起こしてしまうほど大きいこの怒りの大きさは、「母の不在」の孤独に起因しているのだろう。
母親の「やり過ぎ」に対し、見かねた親族が母親を諭したりもしたが、母親は聞く耳を持たなかったという。
弟の自殺
事件から6年後、加藤智大の弟が以下の言葉を発した1週間後に自殺した。28年という短い人生だった。
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることをあきらめようと決めました。死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください」
事件直後、弟は心の拠り所でもあった「職場」の退職を余儀なくされた。3ヵ月後にはアパートを引き払い、当時住んでいた東京を離れてアルバイトを始めた。
東京と埼玉を往復するかのように、彼は職と住居を転々とする。しかし引っ越して住民登録を済ませると、1ヵ月も経たないうちにマスコミがやってきたという。彼は恐怖を覚えるとともに、どうしても逃げられないというあきらめの感情が湧いた。
その後、ある女性と交際。彼女は理解を示してくれたが、両親の反対で結婚はできず、やがて別れることになった。
彼が自ら命を絶つ少し前、餓死という方法で自殺を試みたが、”10日後、水を飲んでしまい” 失敗したという。この方法を選んだ理由について「加害者家族は苦しんで死ななければいけない」という思いからだったという。
事件から10年後の父親
以下は、2018年7月の雑誌「女性セブン」内の記事の抜粋である。
加藤死刑囚の弟は2014年に自殺し、母親は事件後に入院した。事件を境に、文字通り崩壊した家族の人生。仕事から帰宅した父親に話を聞いた。(2018年7月1日)
(記者)事件から10年という節目を迎えました。
「とくにお話しすることはありません。誰にも、なにも、話さないように暮らしていますので」
(記者)どのような思いで事件当日を迎えましたか?
「いや、なにも…」
(記者)昨今、同じような連続殺傷事件も起きています。
「…」
うつむきながら沈黙する父親だが、次の質問を向けると、応対が変わった。
(記者)10年経って、今でも事件を思い出すことはありますか?
「…10年って、みなさんはそうやって節目、節目、と言いたがりますよね。でもね、私にとって10年経った、などという数字はなんの意味もないんです。私だけでなく、被害者のかたがたも含めて」
(記者)今年はとくにそういった報道が多かったですが?
「いえ、新聞やテレビなどの報道は、一切なにも見ないようにしています」
(記者)息子さんとはお会いしていないのですか?
「会っていないです」
(記者)それはなぜ?
「…」
(記者)弁護団とも会っていないのですか?
「はい、会っていません」
そう話すと、頭を下げて自宅に戻っていった。呪いたくなるほど重い運命を背負いながら、それでも生きる親の姿がそこにあった。
※女性セブン2018年7月12日号
父親は、加藤が母親の虐待を受けていても、何も口出しせず助けもしなかったという。
だが加藤の祖母によれば、父親自身も幼い加藤に対して「異様に厳しい一面」があった。加藤がニコニコしていると「締まりのない顔するな!」と怒鳴ったというのだ。祖母は「なんでそんなに怒るの?」と思ったそうである。
裁判
3ヶ月にわたる精神鑑定で、「完全な責任能力あり」との結果が出されたことから、東京地方検察庁は10月6日から被害者や遺族への通知を開始し、10月10日に加藤を殺人、殺人未遂・公務執行妨害・銃刀法違反での起訴に踏み切った。
第一審:東京地裁
2010年1月28日の初公判で、加藤智大被告は被害者に謝罪。そして罪状認否において起訴事実を認め「私にできるせめてもの償いは、どうして今回の事件を起こしてしまったのかを明らかにすること」と述べた。
検察側の主張
検察側は動機について「唯一の居場所だった携帯電話サイトの掲示板が荒らされて、書き込みがほとんどなくなり、自分の悩みや苦しみが無視されたと怒りを深めた。派遣先工場からも必要とされていないと思い、自分の存在を認めさせ復讐したいと考えた」と指摘した。
責任能力に関しては、捜査段階の精神鑑定で何らかの精神障害も認められなかったことに加え、「違法性の認識があった」として、完全責任能力が認められると主張した。
弁護側の主張
弁護側は、「完全責任能力があったことには疑いがある」と主張。「加藤被告は極悪非道な人生を送ってきたわけではない。どのように育ち、どのような考え方を持ったのか。彼にとって携帯サイトの掲示板が何だったのか。この2点に着目したい」と訴えた。またナイフで負傷させたとされる被害者のうち1人に対する殺意を否認した。
原因について自ら説明
7月27日の第16回公判で加藤被告は、事件を起こした原因として「掲示板への嫌がらせ、自分の主張を言葉ではなく行動で示そうとする考え方、掲示板に依存していた生活のあり方」を挙げた。また、そうした考え方になった理由を「小さいころの母の育て方が影響していると思う」と分析した。
29日の第17回公判でも加藤被告は、掲示板を荒らされ「事件を起こさないと居場所がなくなる。やるしかないと思った」と詳述。また、事件前に「派遣切り」を宣告された点は「事件と関係ない。派遣先にも恨みはない」と述べ、検察側の主張を否定した。
第一審判決は「死刑」
9月14日の第21回公判では、捜査段階で検察側の依頼を受けて精神鑑定した医師が出廷。鑑定医は加藤被告が「事件前後の記憶が一部途切れている」と述べたことについて「数分間の無我夢中の犯行で自然なこと。精神障害には当たらない」と証言した。
2011年1月25日の第28回公判で検察側は、「犯罪史上まれに見る凶悪事件で、人間性のかけらもない悪魔の所業。命をもって罪を償わせることが正義」と死刑を求刑した。
求刑通り死刑判決
2011年3月24日、判決で裁判長は犯行動機について「掲示板サイトでの嫌がらせをやめてほしいと伝えたかった」と認定。さらに「個人的な事情で、これを理由に第三者に危害を加えることは許されない」と非難した。弁護側の「犯行時は心神耗弱か心神喪失状態だった」とした主張も退けた。
そのうえで「冷酷、執拗な犯行で動機は身勝手極まりない。7人の尊い人命が奪われた結果は悲惨。通行人らをはね飛ばし、躊躇することなく目についた人をダガーナイフで刺すなど、人間性が感じられない」と指摘。「母親の不適切な養育による人格のゆがみが犯行の遠因。反省の姿勢を考慮すると、更生可能性が全くないとまでは言えないが、刑を大きく左右する事情とはいえない」と結論づけた。
そして「白昼の大都会で起きた事件で、日本全体が震撼した。一面識もない、無防備な通行人を次々に殺傷した刑事責任は最大級に重いことは明らか」と述べた。
加藤は控訴した。
控訴審
2012年6月4日の控訴審第1回公判で、弁護側は一審判決は誤りだとして死刑回避を訴えた。新たに精神鑑定を求めたが、高裁は却下。弁護側は「責任は息子だけでなく、私たち親にもある。被害者や遺族の方々に心からおわびしたい」とする加藤被告の両親らの陳述書を証拠提出した。
一方、検察側は控訴棄却を求めた。
7月2日の第2回公判で、被害者と遺族が「死をもって償ってほしい」などと意見を陳述し、結審した。
控訴審でも「死刑」
2012年9月12日、判決で裁判長は一審同様、完全責任能力を認定。掲示板サイトでの嫌がらせに対し「嫌がらせ行為が重大な結果をもたらすことを知らしめようとした」との動機に対し「被害者らを犠牲にし、自己の意思を伝えようという発想」を批判した。「背景には積もった不満や深い孤独感があったと認められるが、第三者に危害を加えることが許されるものではない」と述べた。
続けて裁判長は「反省の姿勢もうかがえ、立ち直りの可能性が全くないとは言えないが、死刑回避の十分な事情ではない」とし、死刑回避を求めた弁護側主張を退けた。そして「冷酷、残虐な犯行で、結果はあまりに重大。社会全体に与えた不安や衝撃も甚大。身勝手極まりない動機に同情の余地はない。計画的で強固な殺意に基づく冷酷・残虐な犯行。被害者らが被告の凶行の餌食となる理由はなく、無念は察するに余りある」と述べた。
最高裁で死刑確定
2014年12月18日に上告審弁論が行われた。
弁護側は、加藤被告が利用していた掲示板サイトについて「被告の偽物が現れ、家族同様だった掲示板の人間関係が壊されたと感じ、強いストレスを受けた。事件当時は”急性ストレス障害”だった可能性がある。死刑判決は破棄されるべき。事件後、被告は結果の重大さに後悔しており、更生できる」と主張した。
検察側は「完全な責任能力を認めた判断に誤りはない。全く落ち度がない被害者たちの命を奪い、社会に不安を与えた。極刑は当然だ」と上告棄却を求めて結審した。
死刑が確定
2015年2月2日、裁判長は判決で犯行当時の被告について「派遣社員として職を転々とし、孤独感を深めていたなか、没頭していた掲示板サイトで嫌がらせを受け、派遣先の会社内でも嫌がらせを受けたと思い込み、強い怒りを覚えていた」と指摘。「嫌がらせをした者らに、その行為が重大な結果をもたらすことを知らしめるため」と犯行動機を認定した。
そのうえで「動機や経緯に酌量の余地は見いだせない」とし、「社会に与えた衝撃は大きく、遺族らの処罰感情も峻烈。周到な準備、強固な殺意、残虐な態様で敢行された無差別事件で、結果は極めて重大」として死刑はやむを得ないと結論づけた。
上告は棄却され、これにより加藤被告の死刑が確定した。
そして2022年7月26日午前、収監先の東京拘置所にて加藤智大死刑囚の死刑が執行された。享年39歳だった。
安っぽい動機の犯行
事件直後から犯行動機についてテレビでもさまざまな推測や議論がありましたが、加藤本人によると全部違うらしいです。
「若者の雇用問題」でもなく「作業服うんぬん」でもなく、一番もっともらしかった「社会的孤立」でさえありませんでした。
実際は一言でいうと「自分の苦悩や怒りのアピールのため」、本人が言うので間違いないでしょう。一部ネットで「加藤智大は究極のかまってちゃん」という意見がありますが、筆者もそれは否定しません。
そして”その程度のこと”のために7人を殺害し、自分の家族もめちゃくちゃになりました。両親については育て方を間違った責任があるかもしれませんが、弟に関しては、気の毒でしかありません。何の責任も落ち度もない弟は、事件から6年後に自殺しました。
弟の抱えていた ”加害者家族としての苦悩” は、加藤智大が事件当時抱えていた”自分でコントロール可能な苦悩”より深刻なものだったと思います。8人目の被害者といっていいのではないかと思います。
亡くなる1週間前に弟に会った記者の記事があるのでリンクを貼っておきます。