武富士弘前支店・強盗放火殺人事件|競輪したさに5人を焼死させた最凶放火魔

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日本の凶悪事件

武富士弘前支店・強盗放火殺人事件

2001年5月8日、青森県弘前市の消費者金融会社「武富士弘前支店」に押し入った男が放火、火は瞬く間に燃え広がり、従業員5人が死亡、4人が火傷による重症を負った。
焼失した店舗から、青森県警はわずかに残った証拠を発見、犯人・小林光弘(当時43歳)は逮捕された。彼は、ギャンブルで作った借金返済のために金を奪おうとして失敗、火をつけて逃走したのだった。
己の欲のためだけに5人の命を奪った、同情の余地のない強盗殺人放火事件。小林には死刑が確定し、その後執行された。

事件データ

犯人小林光弘(当時43歳)
事件種別強盗放火殺人事件
発生日2001年5月8日
場所青森県弘前市田町
「武富士 弘前支店」
被害者数従業員5人が死亡・4人が重症
判決死刑:仙台拘置支所
2014年8月29日執行(享年56歳)
動機ギャンブルが原因の借金
キーワード消費者金融、サラ金

事件の詳細

武富士強盗放火事件
当時の小林の自宅

タクシー会社勤務の小林光弘(当時37歳)は人当たりも良く、勤務態度も真面目。結婚して子どもに恵まれ、ローンを組んで家も買った。趣味は少額で楽しむ競輪で、大穴を当てる快感を楽しむ程度だった。

1996年のある日、小林は知人の女性・A子から借金を依頼される。彼女は小林の結婚式で仲人をしてくれた恩人だった。そんな事情もあり、彼はA子に言われた通り、4つの消費者金融(サラ金)から50万円ずつ、合計200万円を借りた。さらに妻もサラ金で50万円を用立て、合わせて250万円をA子に渡した。

「面倒を見ているひとり暮らしの老人から近々1000万円もらえる予定だが、その手続きに金がいる」
A子からはそう説明されていた。サラ金には抵抗があった小林だが、恩人でもあるし「すぐに返ってくるなら」と考えて借りたのだ。

死刑囚 238人最期の言葉

しかし、A子から返済されることはなかった。それどころか、彼女は行方をくらましてしまう。

さらに悪いことに、サラ金に抵抗のなくなった小林は、競輪の資金を借りるようになってしまった。大穴を当てた快感が忘れられず、小さな楽しみだった競輪はいつしか数万円を投じるようになったのだ。こうして自らも借金を増やすようになり、時には会社から前借りした20万円を全部つぎ込むようこともあったという。

当然、返済は滞り、職場にも催促の電話がかかってくるようになる。1998年、勤務していたタクシー会社を辞めた小林は、他のタクシー会社などを転々とした。

膨らんでいく借金

1999年4月頃、小林は離婚届と置き手紙を残して単身上京し、タクシー運転手として働いた。しかし同年8月、父親の体調が悪いため手術をすることを知り、青森に戻った。故郷に戻ってからは父親に毎月の生活費を援助してもらうようになり、そのおかげで余裕のできた小林は、2000年1月頃から心機一転して運送業を始めた。

その後、驚くべきニュースが飛び込んでくる。2000年4月、行方をくらましていたA子が、宮城県で一家心中したことを新聞で知ったのだ。A子は家族ぐるみの詐欺により指名手配されていて、被害者は他にも複数人いるようだった。

これによりA子に貸した250万円は、小林夫妻が責任を負うことになってしまった。だが、小林がこれを自力で返すことは、とても無理な話だった。小林は母親に泣きつき、これを返済。しかし競輪による借金は残ったままで、その後も競輪の借金は280万円まで膨らんでいった。

しかし、そんな状況でも小林が競輪をやめることはなかった。

借金返済のチャンスを自ら潰した

武富士放火殺人事件で使用された車
小林が犯行に使用したスバル・サンバーディアス[クラシック]の同型車

2000年10月、小林が42歳の時に父親が他界。小林は遺産を得ることになった。これは、借金を帳消しにできる、またとないチャンスだったが、彼はこれを自ら棒に振る行動に出る。

小林は、まず緑のサンバー)を買い、親族に分配した残りすべて競輪につぎ込み、借金返済に充てることはなかったのだ。さらに車を担保に60万円を借り、これも競輪でなくしてしまう。小林は妻に信販会社から借金をさせて60万円を返済。そのうえで再度、車を担保に60万円を借りた。

だが、2度目の60万円も小林は競輪に注ぎ込んでしまう。すると小林は、今度は母親に頼ってこれを返済。激怒する母親に小林は土下座して謝り、競輪をやめることを誓った。母親は「次やったら親子の縁を切る」と厳しく言いつつも、車は生活に必要だろうと60万円を貸してくれた。こうして2度目もなんとか返済できたが、このあと小林は信じられない行動に出る

なんと、彼はもう一度車を担保に借金をし、3度目に借りた60万円も競輪で溶かしてしまうのだ。

2001年4月、小林は以前勤めていたタクシー会社で面接を受け、再び働くことになった。たが、競輪で作った借金を返せない以上、担保の車は取られてしまう。早朝・夜勤など、不規則な勤務体系のタクシー運転手という仕事には、通勤のための車は絶対に必要であり、どうしても手放せなかった。

次第に追い詰められた小林は、返済の金を作るため強盗の計画を立てる。ガソリンを撒いて火をつけると脅せば金を出すと小林は考えたのだ。

そして犯行へ・・・

武富士強盗放火殺人事件

小林はサラ金の店舗を襲うことに決めた。”店舗にはいつも大金があって、警備も甘い”、というのが理由だった。2001年5月7日にはガソリンスタンドでガソリン(混合油)を購入した。

翌5月8日、この日は仕事を休んだ。車は妻がコンビニのパートの出勤に使うことになっていたが、小林は理由をつけて妻に自転車で行かせ、妻が出かけたあと水色のツナギを着て車に乗り込んだ。

そして、犯行の舞台となる「武富士・弘前支店」に車を走らせた。この店舗に決めた理由は、これまで自身が利用したことが一度もなく、顔が割れていないからだった。立地も自宅に向かう左車線に沿って位置していて、逃走するのに都合が良かった。

到着すると駐車場に車を止め、手順をおさらいした。それからビルに入り、階段の踊り場にガソリンを染み込ませた新聞の束を置いた。万一追われた場合はこれに火をつけ、追手の邪魔をするためだった。

午前10時45分頃、小林は3階の店内に入った。そして、すぐさまカウンターの内側にガソリンをぶちまけ叫んだ。

金を出せ!出さねば火をつけるぞ!

”あとは金を受け取って逃げるだけ・・”、小林はそう考えていた。だが、そうはならなかった。支店長はこれをきっぱり拒否して110番通報をしたのだ。

想定外の事態に小林はパニックに陥り、そして逆上した。小林はとっさに新聞紙に火をつけ、カウンターの内側に投げた。それはガソリンに引火し、店内は一瞬ですさまじい炎に包まれた。小林は急いで逃げ出し、階段の踊り場に置いた新聞の束に火をつけた。

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ビルの外に出ると車に乗り込み、急発進して現場を離れた。だが、この時の慌てた行動がかえって通行人の目に留まり、車の車種も覚えられてしまう。

放火された店内はたちまち炎が広がり、黒煙が充満した。駆け付けた近隣の助けで、4人の従業員が逃げ出せたが、大火傷を負った。しかし出口のない店舗の奥に逃げた5人は脱出することはできなかった・・・

凶行はわずか3分だった。

捜査かく乱工作

武富士弘前支店・強盗放火殺人事件・被害者

事件の翌日―。
小林は朝のニュースで死者が5人であったことや、車種が特定されていることを知り激しく動揺した。しかし反省の気持ちはなく、「金を出さなかった店側が悪い」と自己中心的に考えていた。

報道は当然のごとく犯人を強く非難していた。小林はそれに我慢できず、正体を隠して「青森テレビ」に電話している。「自分が犯人だ。金が欲しかっただけなのに、出さなかった店側が悪い。従業員が死んだのは店側の責任だ」と身勝手な主張を伝え、自分を正当化しようとした。

小林は事件の翌日から普通に出勤していたが、いつか捜査の手がおよぶことを恐れていた。そのため、その後もテレビ局に手紙を送り、捜査をかく乱させようとしている。

  • 私は40代ではない
  • 自分は似顔絵に似ていない
  • 目撃情報は間違っている
  • 犯行に車は使用していない

こんな浅はかな偽装に、警察が騙されるわけがなかった。もし本当に捜査が見込み違いなら、犯人にとってはそのほうが都合がいいはずで、それをわざわざ教えてくれることなどあり得ないからだ。

また手紙には、『犠牲者と遺族に対する謝罪の意』や、『出頭せず罪を背負って生きていくつもり』という文言もあったという。

証拠が見つかった!

武富士強盗放火殺人事件
【参考写真】正常な十字マーク(左)とズレのある 十字マーク(右)

警察の捜査は難航していた。わずか3分の犯行で、しかも現場は焼き尽くされているため、証拠はほとんど残っていなかった。しかも目撃された車「緑のサンバー」は、登録台数が市内だけでも1800台もあった。

そんな中、焼き尽くされた犯行現場から ”有力な証拠” が見つかる。それは、犯行に使用した新聞紙の燃えカスだった。新聞紙の四隅には印が印刷されているのだが、何かの拍子にズレて印刷されることがある。現場に残った新聞には、まさにこの “ズレ” があったのだ。

警察は、該当日に印のズレた新聞が配布された地域を特定した。そして、その地域で緑のサンバーを所有していたのは、小林ただひとりだった。

実は過去に重要参考人として、小林が浮上していたことがある。
作成されたモンタージュ写真や現場から逃走した車種をもとに、小林のところにも捜査員が来ていたのだ。だが、その時はアリバイ工作のおかげでやり過ごしている。
彼は「関係ないのに疑われたら面倒だから」と、事件当日は妻が車を使ったことにしたのだ。何も知らない妻は、小林のアリバイを偽証していたことになる。

10か月後、ついに逮捕

武富士強盗放火殺人事件・小林光弘

2002年3月3日午前5時30分頃、警察は小林の自宅を訪ねて任意同行を求めた。小林は「今日出番だから、任意なら明日じゃ駄目ですか」と言ったが、数十分間の押し問答のあと、引き下がらない警察官に負けたかたちで同行に応じた。

小林は「嘘をつけるところまで突き通すしかない」と考え、供述を二転三転させながら容疑を否認し
続けた。午後8時頃、取調官が小林の自宅から ”放送局に届いた手紙と同一の便箋” が発見され、しかもその便箋からは ”手紙の筆圧痕が確認された” ことを告げると、小林はその行為自体は認めながらも「それらは野次馬根性でやったこと」だと言い逃れをした。

しかし、取調官がそれまでの供述内容の矛盾などについて指摘すると、小林は次第に首をうなだれ、同日午後8時50分頃になって犯行を自供し始めた。

そして翌日・・・事件から10カ月後の2002年3月4日、小林は容疑を認めたため逮捕となった。犯行時着ていた水色のツナギも、小林の自宅でみつかった。

犯人・小林光弘の生い立ち

小林光弘

小林光弘は1958年5月19日、青森県南津軽郡平賀町で4人兄弟の次男として生まれた。だが、父親が事業に失敗して失踪し、1969年に両親が離婚したため、経済的に恵まれない生活を送った。

小林は地元の平賀町立葛川小・中学校に通い、中学時代は生徒会長を務めた。1974年に中学を卒業すると、千葉県君津市内の運輸会社に車両整備工見習いとして就職し、木更津東高校夜間部に通うようになった。

働きながらの勉強が嫌になった小林は、1975年10月に同校を退学したものの、翌年の4月には思い直して復学。その後、車両整備工見習いの仕事を辞め、同市内の印刷会社で印刷工として働いた。1977年8月頃から半年間ほど、ガソリンスタンドにも勤めている。

1978年6月、小林は青森県に戻って夜間高校に編入することになったが,1日も通学することなく退学。数か月後には横浜市に赴いて鳶の仕事に就いたり、千葉県市川市に移って土工をするなどしていた。

1987年、小林は再び帰郷して青森市内のタクシー会社に就職。同年10月、知人の女性の仲人により結婚し、翌年には長女が生まれた。

以後、小林はタクシー運転手として働き、1993年頃、同僚の影響を受けて競輪を始めるようになった。当初の賭金は1レースに付き500円~1000円程度であった。1995年7月には母親から頭金として200万円の援助を受け、1760万円の住宅ローンを組んで妻との共有名義で青森県南津軽郡に一戸建住宅を購入した。

借金生活が始まる

1996年、小林は仲人の知人女性から再三借金を頼まれて、消費者金融から200万円を借りてそれを知人女性に貸した。一方、小林も高額配当を的中させて大金を手にしたことから、次第に競輪にのめり込むようになった。1997年~1998年にかけて、消費者金融で金を借りて競輪に注ぎ込んでいたが、結果は裏目に出て借金が膨らんでいった。

勤務していたタクシー会社は1998年で辞め、その後は他のタクシー会社などを転々とした。

1999年頃になると、小林は自動車を担保に入れてまで自動車金融会社からも借金するようになる。当時の借金額は知人女性に貸したものと合わせて300万円を超えていた。小林は同年4月頃、担保に入れていた軽自動車を自動車金融会社に売り渡し、自宅に離婚届と置き手紙を残して単身上京した。

東京でもタクシー運転手をしていたが、町金融から新たに10万円ほどを借り入れて競輪に費やしていた。

一方、両親は1986年頃から再び同居するようになっていたが、1999年8月に父親から『体調が悪く、近々手術をする予定だ』といった内容の手紙が届いたため、翌月に妻子のいる青森に戻った。

知人女性が自殺

妻は競輪や借金を止めるように懇願し、小林も消費者金融で借金しないことを約束したが、競輪をやめる気はなかった。その後、仕事を探すこともなく、病床の父親から生活費として毎月15万円~20万円の援助を受けていたうえに、妻の実家にも金を無心した。

家のローンは、いわゆる『ステップアップ償還方式』で、このころ月々の返済額が急激に増えたこともあり、生活はますます苦しくなっていった。妻もコンビニで働いて家計を助けた。

2000年1月頃、小林はローンで軽トラックを購入し、高収入を期待して運送会社から委託を受けて軽貨物を宅配する仕事を始めたが、仕事は少なかった。当時の借金額は約370万円を超えていた。

死刑囚の最期~葬られた心編

2000年4月、仲人の知人女性が家族ら3人とともに自殺。これにより、貸していた250万円の返済義務が小林にのしかかってきた。翌5月、小林は母親から150万円、妻の姉から90万円の援助を受け、同月中には全額返済することができた。

小林は、この返済のために母親から預かっていた通帳から、2000年8月から9月にかけて3回に渡って合計68万円を無断で引き出して使っている。一方、軽貨物の宅配は予想外に仕事量が少なく、すぐに配達が終わってしまうような状況で、時間を持て余した小林の関心は競輪に向かった。

「いっそのこと競輪で一発当てて、家のローンも全部自分で返そう」と考えた小林は、同年5月から6月にかけて消費者金融から立て続けに計約280万円もの借金を重ね、そのほとんどを競輪に注ぎ込んだために再び返済に苦しむことになった。

父親の生命保険も競輪に…

2000年10月、父親が病気により死亡。翌11月、小林は合計860万円以上に上る父親の生命保険金を手にして、ワンボックス型の本件車両や長女のためのパソコンを購入したり、母親、弟、及び妻にも分配したが、約300万円が手元に残った。

このことで、小林は軽貨物の宅配の仕事をしなくなり、妻には仕事に行く振りをして、妻の作った弁当を持ち、競輪開催日には毎日のように南津軽郡C町所在の場外車券場に通い,1レースに付き30万円分もの車券を購入するなどして,競輪に大金を注ぎ込んだ。2001年1月末頃には保険金を使い果たしてしまい、20万円を借金の返済に充てただけで、他の借金を清算することはなかった。

車を担保に3度も借金

小林は、消費者金融からの借金が限度額を超えていて、これ以上の借入れができない状況だった。そのため競輪もできず、借金も返済にも困っていた。2001年2月1日には自動車金融会社から、車を担保に返済期限を翌3月2日として60万円を借り入れた。契約日から40日目が最終返済期日となり、返せない場合は担保の車の名義は自動車金融会社に変更する約定がなされていた。

結局、借りた60万円は競輪で溶かしてしまい、妻に信販会社から借金をさせて自動車金融会社に返済した。しかし、小林は返済すると同時に、再び同じ車を担保に60万円を借り入れ、ほとんどを競輪に使ってしまった。

この時点で消費者金融からの借金は300万円を超え、「もはや破産するしかない」と考えるようになった。小林は妻に軽貨物の宅配は廃業していること、仕事に行く振りをして競輪に通っていたこと、消費者金融からの借金が300万円以上あることを打ち明けた。妻には怒ったが、夫婦共に自己破産の申立てをすることを承諾して貰った。

サラ金道―金の借り方返し方裏の道

自動車金融会社に対する2度目の返済は、母親に頼った。母親は「これ以上(借金に)来るのであれば、親でも子でもないよ」などと叱られながらも60万円を援助してもらい、これを借金の返済に充てた。

ところが、小林は返済すると同時に、あろうことか3度目の借り入れを行う。5月1日を返済期限として車を担保に60万円を借り、一発逆転を夢見て競輪に注ぎ込んだが、勝利の女神は微笑んではくれなかった。

2001年4月中旬、小林は以前勤めていた青森市内のタクシー会社への再就職を決めた。しかし、自動車金融会社に返済する60万円のめどが立たず、返済期限の5月1日には車を取り上げられてしまうことになる。だが、早朝出勤や深夜帰宅が普通であるタクシー運転手の仕事に就く以上、車がなくなれば勤務は不可能であった。

もう誰からも借金はできず、万事休すになった小林は、「手っ取り早く強盗でもやるしかない」と考えるようになる。そして2001年5月8日、本事件を起こした。

死刑執行

裁判では、最高裁で2007年3月27日死刑確定となる。その後、3度の再審請求を行うもすべて棄却。しかし、これで諦めず4度目の再審請求の打ち合わせを予定していたが、その前に死刑が執行された。

公判当初、小林は自分が死刑になる可能性をあまり考えておらず、出所後の事について書いた手紙を母親に送っていたという。

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拘禁症状?

小林は確定死刑囚として収監中の2013年1月頃から、肉体的・精神的に体調不良が著しくなり、 かなりやせ細っていた 。また、「便や尿を失禁して布団・衣服を汚す」ということもあり、死刑囚によくある拘禁症状が出ていたとみられている。

2014年8月29日、宮城刑務所にて小林光弘の死刑が執行された。享年56歳。

元刑務官が明かす死刑のすべて

ギャンブル依存症だった可能性

借金してギャンブルにはまることが問題、というのは言うまでもありません。しかし、身を滅ぼすまで競輪をやめないとなると、ギャンブル依存症だった可能性があります。
両親は改心してくれることを期待して借金返済に協力していますが、もし依存症だった場合、自力でこの状況から抜け出すのは困難だったかもしれません。

 

ギャンブル依存症はれっきとした病気なので、専門医に診てもらうことが大事です。
ただ、この病気に関しては1970年代後半にWHOが病気と認定しているものの、当時の日本ではまだ馴染みのない言葉でした。本人の意志の弱さだと思われていた時代なので、治療などという発想自体がなかったのは仕方ありません。

また、依存症の自助グループが全国にあり、病気の回復の助けになってくれます。

 

犯人逮捕に向けた活動

武富士は似顔絵を配った

武富士強盗放火殺人事件のティッシュ
武富士はポケットティッシュにこの紙を入れて配った

武富士は捜査協力のため、ポケットティッシュに似顔絵を入れて街頭で配った。

小林と交代で同じタクシーを運転していた同僚は、このティッシュについて不可解な出来事を思い起こす。「武富士が配ったティッシュ数個を車内に置いていたら、次に乗った時、似顔絵の紙が抜かれて中身だけが置かれていた。今考えると、内面ではびくびくしていたのかもしれない」と、同僚は話した。

逮捕はテレビのおかげ?

2002年3月2日、テレビ番組FBI超能力捜査官(日本テレビ)」において、自称超能力者ナンシー・マイヤーが透視により似顔絵を作成した。

テレビ側では、これが犯人逮捕のきっかけになったとしているが、実際は放送前から小林は重要参考人であり、超能力で作成した似顔絵も、警察のモンタージュの似顔絵を参考にしているのではないかと言われている。

また、その他の透視も当たっていなかった(”犯人は事件後、火傷のため仕事を休んでいた”と主張したが、小林は仕事を続けていた等)

裁判

武富士強盗放火殺人事件

2002年6月6日、青森地方裁判所で小林光弘被告の公判が開始された。

弁護側は「脅すつもりで殺意はなかった」と主張。だが、これは認められず「従業員が死ぬ可能性を認識しながら火を放ち、5人を死亡させた」として未必の殺意が認定された。さらに「事件後も捜査をかく乱するための手紙を出したり、事件の原因となったギャンブルを続けており、被害者に対する反省の態度は全くない」と指弾された。

8回にわたる公判では、小林の “殺意” が主な争点となった。
弁護側は「殺意は認められず、無期懲役が相当」と主張するも、2003年2月12日、青森地裁は検察側の求刑通り小林に死刑判決を言い渡した。

小林はこれを不服として閉廷後、直ちに仙台高等裁判所に控訴した。

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最高裁判決は死刑

2004年2月19日、仙台高裁は小林の控訴を棄却した。小林は最高裁判所に即日上告した。

2007年3月27日、最高裁は小林の上告を棄却、死刑判決が確定した。小林の国選弁護人は、4月2日付で判決の訂正を申し立てたが、これは棄却され同日付で正式に死刑が確定した。
死刑確定後、小林は主に殺意の有無をめぐり3度にわたり再審請求を行ったが、すべて棄却されている。

この事件は防げなかったのか?

店舗にいた9人のうち、店の奥にいた5人は助からず、入口付近にいた4人はかろうじて逃げることができました。
この店の避難経路はこの店舗の入口1か所だけでした。大阪個室ビデオ放火事件でも避難経路は店の入口のみで、やはり入口に近い人が助かっています。炎と煙にまかれた場合、出口のないほうへ逃げたら助かりません

犯人を落ち着かせることが大事

また、この事件では店長が犯人の要求を断り110番通報していて、これが犯人を刺激してしまいました。要求に応じなかったのは「きついノルマに追われたせい」だとか、「単なる脅しと判断したのでは?」といろいろな見方がありました。

 
どちらにせよ、火をつけられたら大惨事になることはわかっているので、そうさせないことが大事です。嘘でも要求に応じる素振りを見せたほうがよかったでしょう。どんな事件の犯人も、犯行中は思った以上に興奮状態にあります。少しの刺激で凶行におよぶことは、過去の事件をみてもあきらかです。犯人を落ち着かせることは何より重要です。

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