桶川ストーカー殺人事件
1999年10月26日、埼玉県桶川市でひとりの女子大生が殺害された。
彼女は、元交際相手・小松和人(当時27)を中心とする犯人グループからひどいストーカー行為を受けていたが、警察は相談に乗ってくれず困り果てていた。
殺人事件となって初めて ”まともな捜査” が開始されたが、この経緯に世間からの批判は相当なものだった。埼玉県警上尾署の警察官3人が有罪判決を受ける事態にまで発展したこの事件は、「ストーカー規制法」が制定されるきっかけとなった。
事件データ
主犯1 | 小松和人(当時27歳)風俗店経営 逮捕前に自殺・起訴猶予処分 |
主犯2 | 小松武史(当時32歳)元消防庁職員、和人の兄 判決:無期懲役 |
実行犯1 | 久保田祥史(当時34歳)風俗店店長 判決:懲役18年 |
実行犯2 | 運転役A 懲役15年 |
実行犯3 | 見張り役B 懲役15年 |
事件種別 | ストーカー殺人事件 |
発生日 | 1999年10月26日 |
場所 | 埼玉県桶川市 |
被害者数 | 女性1人 |
動機 | 交際を断られた報復 |
キーワード | 悪質な嫌がらせ・脅迫 |
事件の詳細
1999年1月、女子大生の猪野詩織さんは、友人と2人で大宮駅東口にあるゲームセンターに遊びに来ていた。 小松和人(当時27歳)とはここで知り合い、やがて交際が始まった。
小松は詩織さんに偽名を名乗り、年齢や職業も嘘をついていた。外国車のディーラーと偽り接近したが、実は東京や埼玉県で無許可の風俗店(ファッションヘルス形態)を6~7店舗経営していた。
当初、2人は週に一度食事やドライブに出かける程度の交際をしていた。そのうち小松は、詩織さんに高級ブランド品の洋服などを贈るようになる。それは次第に頻繁になり、さすがに詩織さんは違和感を抱くようになった。
しかし贈り物を断ると逆上するなど、小松は情緒不安定な面を見せた。そのため、詩織さんは受け取りを拒否できなかった。そして詩織さんが交際に不安を持ちはじめた頃、小松の本性が見えてくるようになった。
ある日、交通事故で入院した小松を見舞いに行くと、病室には暴力団員風の男がいた。小松は彼らに「パトカーにわざとぶつかってやった」などと自慢気に話していた。このようなことから詩織さんは、次第に小松に対して不審の念を抱くようになった。
あらわし始めた本性
3月中旬のある日、詩織さんが小松のマンションを訪れた際、室内にビデオカメラが仕掛けられているのを発見した。このことを問いただすと小松は逆上。詩織さんを壁に押し付け、顔のそばの壁を殴りながら、「俺に逆らうなら今までのプレゼント代100万円払え」などと声を荒げた。さらに「払えないならソープで稼げ、親に俺との付き合いを全部ばらす」と脅した。
この出来事により、詩織さんの抱く恐怖心は深刻なものとなった。交際を断れば殺されるかもしれない、と考えるようになり別れ話も切り出せなかった。
完全に本性を現した小松は、これ以降、詩織さんの行動を束縛し始めた。 興信所を使って、詩織さんの父親の勤務先情報などを入手したり、詩織さんを完全支配しようとした。
3月30日、詩織さんは相当追い詰められていた。彼女は思い切って、遺書を書いたうえでついに別れ話を切り出す。すると小松は、”詩織さんの家族に危害を加える” ことをほのめかしてきた。父親の情報まで調べられていたことを知った詩織さんは怯んでしまい、家族を守るためにも「交際を続けるしかない」と考えるようになった。
さらに相談していた友人のもとにも不審な電話がかかるようになり、詩織さんはさらに追い詰められていく。4月21日には、詩織さんに自らの携帯電話を破壊するよう命じ、彼女を孤立させようとした。その後も別れ話のたびに脅迫され、詩織さんはこのころ友人に命の危険を訴えていたという。
詩織さんは、心身ともに疲弊していった。
6月14日、意を決した詩織さんは、ついに小松に完全なる訣別を告げた。そして、母親に小松とのトラブルを初めて伝えた。
小松は同日午後8時頃、兄の小松武史(当時32歳)ら3人で詩織さんの自宅を訪れた。そして居合わせた母親に「会社の金を500万円横領して、お宅の娘に貢いだ。娘も同罪だ。誠意を示せ」などと1時間以上にわたり迫り続けた。その最中に父親が帰宅し、しばし押し問答があったのち、3人は帰っていった。
詩織さんから詳しい事情を聴いた家族は、翌日、上尾署に被害を申告した。署は詩織さんから詳しい事情を聴取。詩織さんが録音していた小松とのやりとりも確認されたが、対応した署員はこれを軽く考え、なぜか「脅迫・恐喝とは認められない」と判断した。
母親と詩織さんは捜査を求めたが、署員は「民事には手を出せない」の一点張りだった。 6月21日には貰ったプレゼントを小松に返送し、同日父親が上尾署を訪れ、このことを伝えた。
このあとから、詩織さんに対する悪質な嫌がらせが始まった。贈り物を返送されたことに、小松和人はかなり怒っていた。
動き出した殺害計画
詩織さんがプレゼントを返送した6月22日、小松和人の指示で小松武史が、風俗店店長の久保田祥史(当時34歳・元暴力団員)ほか1人に対し、詩織さん殺害の資金として報酬込みで2000万円を渡した。
そのうえで7月5日、小松和人はアリバイ作りのため沖縄県那覇市に飛んだ。
詩織さんを誹謗中傷するビラがまかれた
小松和人らによる「無言電話」や「自宅近辺の徘徊」といった行為が続くなか、7月13日には、詩織さんの顔写真が入った誹謗中傷ビラが近辺の住宅、通学先、父親の勤務先などに数百枚ばらまかれた。
証言によると、ビラ撒きの実行犯はチーマー風の若い男2人と見られた。彼らはこの嫌がらせのために、殺害資金2000万円のうち200万円を使った。
詩織さんは、心配する母親をよそに「私は何も悪いことはしてない」と、通常通り大学へ向かい、犬の散歩も普段どおりに行っていた。
ビラが撒かれた当日、母親は上尾署を訪れて被害を訴え、同日昼に署員2人による実況見分が行われた。2日後の7月15日、詩織さんと母親はふたたび上尾署を訪れ、無言電話や付近の徘徊にくわえ、命の危険を感じていることを訴え、小松和人の逮捕を求めた。
応対した刑事二課長・片桐敏男は、告訴がないことや裁判になった場合の被害者の苦痛を伝え「告訴は大学の試験後でもいいのでは」などと難色を示した。これに対し詩織さんは「今日告訴する」と覚悟を示したが、 刑事二課長の片桐敏男は試験終了後の再訪を促し、告訴はさせてもらえなかった。
詩織さんが「性的欲求不満」という内容のカード
7月20日、「大人の男性募集中」という文言と詩織さんの氏名・顔写真・電話番号が書かれたカードが高島平団地の郵便受けに大量に投函された。これにより、複数の電話が詩織さんのもとに掛かってきた。
22日、試験期間が明けた詩織さんと母親は告訴のため上尾署を訪れたが、応対した二課長・ 片桐敏男は担当者不在を理由として1週間後の再来を促した。そして1週間後の29日、ようやく告訴状は受理されたが、一連の名誉毀損行為について、犯人はわかりきっているのに上尾署は「誰がこのようなことをしたのかわかりません」と記載していた。
今度は父親を中傷する文書が…
8月23日、父親を中傷する内容の文書が、勤務先とその本社に数百枚送付された。父親は同日に上尾署を訪れたが、担当者の不在を理由に帰された。
さらに翌日改めて署を訪れると、応対した二課長・ 片桐敏男は中傷文書をみて「これはいい紙を使っていますね。封筒にひとつずつ切手が貼ってあり費用が掛かっていますね。何人かでやったようです」などと述べた。
父親は小松の逮捕を急ぐように要求したが、 二課長・ 片桐敏男は警察は忙しいからと取り合わなかった。
応対の刑事第二課捜査第一係員・本多剛は詩織さんへの名誉毀損事件についての書類を整理し、二課長への決裁に上げていたが、二課長 ・片桐敏男はその書類をいったん自身の机に保管し、30日になって上司である刑事・生活安全次長の決裁を仰いだ。
次長はその書類を片桐の机に放り投げ、詩織さん家族が小松からの被害を再三訴えていたにもかかわらず「犯人が特定されていないのだから、何も告訴状をとらなくても被害届で捜査すればよかったんじゃないのか」などと述べた。
警察による偽装工作
このやりとりがあってから2、3日後、次長の意を受けた二課長 ・片桐敏男は、係員の本多剛に指示し、詩織さんからの告訴を取り下げさせようとした。
「被害届」だけであれば県警本部への報告義務がなく、事件を迅速に処理する必要もない。要は警察側の負担が軽くなるのだ。
係員の本多は、9月7日に詩織さん宅を訪れて被害届を受け取り、さらに21日に再訪して告訴の取り下げを求めた。詩織さんの母親がこれを断ると、係員・本多は刑事訴訟法の規定で ”一度告訴を取り下げると、再告訴はできなくなる” にも関わらず、再度の告訴が可能であるように話し、母親の説得を試みた。
しかし母親の意志は固く、逆に「捜査はしてくれないんですか」と強い調子で問われ、 係員・本多は引き下がった。警察から告訴取り下げ依頼があったことを知った詩織さんは、友人に対し「私、本当に殺される。やっぱり小松が手を回したんだ。警察はもう頼りにならない。結局なにもしてくれなかった。もうおしまいだ」などと話し、以後急速に落ち込んでいったという。
10月16日午前2時頃、詩織さん宅前に大音響で音楽を鳴らした車が2台現れた。両親はすぐに屋外に出て、車とそのナンバーを撮影し、警察に通報したが、不審車を捕らえることはできなかった。
そしてこれが、最後の嫌がらせとなる。
”最後”の嫌がらせのあと、ついに・・・
当初、犯行グループは10月18日に詩織さんの拉致を計画していた。しかし、この日はなぜか中止、改めて25日に犯行現場を下見している。
そして10月26日。
午前8時頃、殺害実行犯の3人(久保田、 運転役A、見張り役B)は池袋に集合したのち、2台の車に分乗して午前9時頃に桶川へ到着した。 見張り役のBから詩織さん接近の連絡を受けた久保田と運転役のAは桶川駅へ移動し、久保田だけ駅近くの商業施設「マイン」前で降りた。
このとき運転役Aは「大ごとにならないよう太ももを狙ってくれ」と声をかけたが、久保田は「約束できない」と答えたという。
午後0時53分頃、詩織さんは大学へ行くため駅前に自転車を駐めた。その直後、桶川駅前の商業施設「マイン」前の路上で、久保田に上半身2ヶ所を刺された。詩織さんは悲鳴をあげて倒れ、 久保田はその場から逃走。悲鳴を聞いた近所の店の男性が久保田を追うも、逃げられてしまった。
詩織さんは上尾中央総合病院へ搬送されたが、午後1時30分に死亡が確認された。死因は大量出血によるショック死で、死亡推定時刻は事件が発生した午後0時50分とされた。
逮捕まで
自分たちが計画・実行したにもかかわらず、事件直後、殺害実行犯たちは混乱していた。特に久保田は事前に決めた集合場所に辿り着くことができず、のちに車に拾われた時もかなり狼狽していたという。
午後5時頃、3人は小松武史と赤羽のカラオケ店で落ち合い、武史は3人に逃亡を指示した。殺害資金の残り1800万円のうち、久保田に1000万円、運転役A・見張り役Bに400万円ずつが報酬として手渡された。また見張り役Bは、遅れてやってきた中古車販売業の男に、事件に使用された車両2台の処分も指示した。
グループの意に反して殺害してしまった久保田に対し、小松武史は始終非難めいた態度で接した。帰路の車中で2人きりになった中古車販売業の男に「本当に馬鹿だね、あいつは」と漏らしたとされる。
また事件当日、小松兄弟は携帯電話で13回やりとりをしている。沖縄で一緒にいた者の証言では、小松和人の様子に特に変わったところはなかったという。
詩織さんが殺害されてはじめて、まともな捜査が開始された。とはいえ、家族の再三の訴えにより犯人は判明しているも同然、あとは探して逮捕するだけだった。
そして12月19日に久保田、翌20日に小松武史、運転役A、見張り役Bがいずれも殺人容疑で逮捕、翌2000年1月6日に起訴された。1月16日にはこの4人と新たに8人が名誉毀損容疑で逮捕された。
小松和人は自殺
唯一逮捕されていなかった小松和人は、同日に名誉毀損容疑で全国に指名手配された。兄・武史は、弟が北海道にいることを供述し、「性格的に自殺の可能性がある」と訴えるも、捜査員は取り合わなかった。
そして2000年1月27日、小松和人は北海道の屈斜路湖において水死体となって発見。彼の死は、警察により自殺と断定された。このことにより、名誉毀損容疑については、2月23日に被疑者死亡のまま起訴猶予処分となり、小松和人が責任を問われることはなくなった。
小松和人が残した2通の遺書(1通は実家へ郵送、1通は遺品のバッグから発見)には、いずれも詩織さんとその家族、マスコミへの恨みが書き綴られ、自身の冤罪を主張する一方で、自身の家族には事前に自らにかけていた生命保険金を老後資金として役立てて欲しい、との言葉が綴られていた。
犯人・小松和人について
不思議なことに、これだけの事件にもかかわらず、犯人の小松和人に関する情報はほとんどない。わかっているのは、「過去に精神科の通院歴がある」こと、「親に対する怒りが強かった」ことぐらいだ。
詩織さんと出会ったとき、外国車のディーラーと偽って接近したが、 実際に過去にそういう類の仕事をしていたらしい。実際は無許可の風俗店経営をしており、羽振りは良かった。こういった情報から、親が大物なのでは?という見方もあるが、定かではない。
また小松和人の母親も事件後、訪れた記者に対して「息子は悪くない!悪く言うな!」と激高して暴言を吐いている。姉も弁護士を引き連れてマスコミに対し「”ストーカー殺人事件” という言葉を使うな」と警告してまわる、という行動を取っている。
裁判
本事件では刑事裁判のほかに、詩織さん遺族による民事裁判も行われている。
民事裁判においては、被告たちに賠償金の支払い能力はほとんどなく、遺族も現実的な受け取りについては諦めていた状態にあった。しかし、「民事裁判で主張が認められた」という報道しか知らない近所の一部住人からは「あそこの家は娘を売り物にしている」などという声が流れてきていたという。
こうした状況に、被害者の母親は「もし国家賠償請求裁判で勝ったら、税金泥棒とでも呼ばれるのだろうか」と気が重くなったと述懐している
刑事裁判
主犯の小松武史、実行犯の久保田、 運転役A、見張り役Bの4人が殺人罪で起訴された。このうち小松武史は事件への関与を否認したため、分離公判となった。また、運転役Aは「殺人ではなく傷害致死である」と主張した。
2001年7月~2002年3月にかけて、久保田に懲役18年、運転役A、見張り役Bにはそれぞれ懲役15年の判決が下された。
久保田は、それまでの供述を全て撤回したうえで、「殺人ではなく傷害致死である」と主張して控訴。理由として「殺意はないのに暴走して殺してしまったが、そう言っても誰も納得しないだろう、と当時は考えていたから」だとした。しかし2003年3月29日、久保田は突然控訴を取り下げ、判決を確定させている。
6月11日の公判では、小松武史が拘置者の世話をする衛生夫(川越少年刑務所の受刑者)を買収し、運転役A、見張り役Bに「控訴を促す伝言」をしていたことが明らかになっている。
小松武史については、2002年12月25日、求刑通り無期懲役の判決が下された。さいたま地裁は、小松武史が主犯であると認定し、嫌がらせ行為(名誉毀損案件)が激化した結果の一体的な事件であったという見方を示した。
小松武史は殺意を否認し、傷害致死の適用を求め控訴したが、2005年12月20日、東京高裁は控訴を棄却。即日上告するも、2006年9月5日、最高裁は上告を棄却し、無期懲役が確定した。
民事裁判
2000年10月26日、詩織さんの命日に遺族が犯行グループ計17人に対し、1億1000万円の損害賠償を求め提訴。2001年10月26日、5人に計490万円、11月16日には運転役Aと見張り役Bに計9900万円の支払いを命じる判決が下った。
2006年3月31日には、小松武史と彼の両親および共犯者1人の計4人に対し、1億566万円の支払いを命じる判決が下された。
判決では自殺した小松和人について「交際を絶たれて逆恨みし、被害者の殺害を計画してもおかしくない十分な動機があった。小松和人の指示があったと考えるのが合理的」と指摘し、小松和人が事件の首謀者と認定した。
この事件の問題点
この事件については今さらいうまでもありませんが、警察の対応が最悪でした。最悪という言葉でもまだ足りないぐらいです。詩織さんが助けを求めた埼玉県警上尾署は警察として機能していませんでした。これは皮肉ではなく、判決文にもそういった記述があります。
事件を担当した刑事第二課の課長・片桐敏男はこの職に就くまで主として鑑識業務に従事しており、捜査の経験がなく、実務がよくわかっていなかったのです。そのため部下のベテラン刑事に頭が上がらず、いつも同じ中堅や若手の刑事に仕事を命じていました。
刑事第二課は実務を知らない課長、仕事の意欲のないベテラン刑事、たくさんの案件を抱えた中堅・若手刑事で構成されるいびつな集団だったのです。そのため、詩織さんの訴えを、まずは「門前払い」、食い下がると「捜査をしているふり」、詩織さんが殺害されると「公文書の捏造」という犯罪まで犯し、保身に走ったのです。
当然罪に問われることとなり、元課長の片桐敏男(48)とベテラン刑事の古田裕一(54)に懲役1年6か月、中堅刑事の本多剛(40)に懲役1年2か月が言い渡されました。それぞれ執行猶予3年がつき実刑とはなりませんでしたが、3人とも懲戒免職となりました。
さらに片桐敏男は笑顔で記者会見を行い、日本中からひんしゅくを買っています。自分たちが見捨てた女性が殺されているのに、その会見で笑顔が出る神経はまったく理解に苦しみます。(場の空気に合わせた愛想笑いではありません。本当に楽しそうに笑っているのです。)そして詩織さんを誹謗中傷することで、警察の不手際から目をそらそうとしました。普通の女子大生だった詩織さんを、ブランド好きで派手な軽い女と印象付けることで、被害者への同情が集まらないようにする意図があったと思われます。警察発表を鵜吞みにしたマスコミはこれを報道し、一時は被害者にも非があったような空気になり、詩織さんは「2度殺された」のです。
はっきり言って、この事件の問題点は「警察の怠慢・欺瞞」でした。小松和人がいくら異常な危険人物だとしても、警察が動いていれば詩織さんの命は守られたはずです。
警察より活躍したジャーナリスト
この事件では、犯行グループを警察より先に突き止めたのはジャーナリストの清水潔さんでした。当時、写真週刊誌「FOCAS」に在籍していた清水さんは、警察よりも早い段階で犯行グループを暴いてみせたのです。
FOCAS側は、雑誌を見た犯行グループが逃走する危険を考え、事前に警察に対し情報提供するなど発売には慎重を期していました。しかし警察はこれを活用することはなく、捜査も進まないことから発売に踏み切ったという経緯があるそうです。
ストーカー規制法の成立
この事件をきっかけにストーカー対策の整備が進み、2000年5月18日に「ストーカー行為等の規制に関する法律」が成立、11月24日に施行された。これにより以下の行為が規制された。
- つきまとい、待ち伏せ、押し掛け、うろつき
- 相手の装いや行動を、メールや手紙などで伝えて、監視に気付かせる
- 面会、交際や復縁を迫ったり、贈り物を受け取るよう強要する
- 家の前での大声、クラクション、乱暴な言動など
- 無言電話、連続した電話、メール、FAXの送りつけ、SNSへの書き込み
- 汚物や動物の死体などの送付
- 相手への中傷や名誉を毀損する内容を、文書やメールで届ける
- 卑猥な電話やわいせつ写真の送付など、性的羞恥心の侵害
ストーカー規制法の改正
しかしその後もストーカー殺人事件はあとを絶たない。2012年12月の長崎ストーカー殺人事件では、警察が規制法を適用しなかった結果、殺害に至ったとの指摘がある。
また、2012年11月の逗子ストーカー殺人事件では、犯人からの嫌がらせメールは1000通以上におよんだが、電子メールでの連絡を禁止する規定がなかったため、立件が見送られた。
こうした法律の不備を改善するため、ストーカー規制法が改正されることになった。令和3年6月15日より規制の対象になったのは以下の行為である。
- 相手の承諾なくGPSやスマホアプリを悪用して位置情報を取得
- 相手が今居る場所へのつきまとい行為
- 電子メール、SNS、手紙などの文書の連続送付
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